「土の器に与えられた希望」

コリントの信徒への手紙 一 4章1~15節
詩編 23編1~6節

 

 7「土の器」とは日常に用いられる素焼きの器のことで、そこには脆く弱く価値がないものとの理解があります(哀歌42等)。また被造物が土から生まれ土に返る存在であることをも表していましょう(イザヤ459等)。

 これを記している伝道者パウロは、かつて家柄や教育、また律法実践の点でも多々の誇りを持っていました。が主イエスとの出会いにあって、これらのものを打ち捨てていきました。主なる神と結び与えられた生を真に生きるために、これらのものは役に立たないことを知ったのです(フィリピ34~)。こうして辿りついたのが、脆く取り立てて価値もない 7「土の器」との自己理解でした。

 それ自体に美術品や骨董品のような価値はなくとも、器は何かを盛ることができます。パウロは自らに福音を盛って頂き、これを分かち合う器とされたことを 1「憐れみ」 1「務め」 7「宝」と語っています。自ら一人の人間となられ十字架を負われた主イエスご自身が 7「土の器」となられた方であったことを仰ぎ、この方に従うことをパウロは恵み・務め・喜びとしたのでした(マタイ1624)。

 同様の恵みと召しの内に私たちも置かれていることを覚えたく思います。東北に刻まれた課題がなお大きいことを率直に見つめつつ、その東北を主が愛し生きて働かれておられることに導かれ、この年度を歩みましょう。

4月のおたより

 イースターの翌週12日に、101回目の「コーヒーハウス・ロビーコンサート」が開かれました。礼拝後、コーヒーと共にさまざまな演奏を楽しむひとときです。今回は、小学校4年生から大学院生までの若者(+大人の助っ人)15名によるトーンチャイムの演奏が行われました。

 主に、月末の土曜日に「中高生の会 子羊たちの夕べ」に集まっているメンバーです。いつもはお料理とおしゃべりを楽しんでいますが、Y姉の提案に一念発起してこのたびの演奏となりました。当教会常設の(?)トーンチャイム隊「北教会エンジェルス」に対抗して、「子羊エンジェルス」と名づけられました。Y姉によると、本家にも増してのみこみが早かったとか。

 讃美歌から6曲、盛大な拍手に応えて2曲が演奏されました。思いを合わせて奏でられる音色に、会衆からは自然と歌声もあがっていました。

 若者たちの活躍が見られることはうれしいことですね。教会は、幼き者も年を重ねた者も共に招かれ、主イエス・キリストのからだに繋げられる場です。これからも共々に恵みを分かち合う群れとして歩みたく思います。

「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」

ヨハネによる福音書 6章60~71節
詩編 90編1~12節

 

 イースターは主の勝利を祝う日であると共に、私たちにとって絶望・諦めから希望・不屈への転回点であることを心に刻もうと先週呼びかけました。ゆえに主の復活は、私たち一人一人に対する命への招きであり、どう生きるかとの問いかけです。

 48「わたしは命のパンである」との主イエスの言葉に躓き、66「弟子たちの多くが離れ去り」ました。が、シモン・ペトロら12人は68「主よ…あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」との告白と共に、主イエスのもとに留まったのでした。

 詩編90編は人の命の限りある様を厳然と見つめるところから12「生涯の日を正しく数えるように教えてください」と祈り、 1「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」と信仰を告白します。ここで詩人は人の有限性・死の恐れの根幹に逃れられない 8「罪」と、それに対する神の 7「怒り」を見ています。新約で、伝道者パウロも同様の洞察をしています(ローマ512、Ⅰコリント1556等)。

 しかし主イエスはそのような世と人を捨てることなく、 7「怒り」を十字架において引き受け、自らの身を48「命のパン」として分け与えられたのです。68「永遠の命」とはこの主を知りその慈しみに結び合わされることだと、主イエスは十字架を目前にした祈りの中で明かされました(173)。この大いなる恵みにあって招かれ、私たちはすでにその命を生き始めています。

イースター礼拝 「お話しになったことを思い出しなさい」

ルカによる福音書 23章56節~24章12節
エレミヤ書 4章1~2節

 

 主イエスが十字架で死を遂げられた2日後の日曜の朝、墓へ急いだ婦人たちは 3「主イエスの遺体」を見出すことができず、 4「途方に暮れ」ました。かつて「悪霊を追い出して病気をいやして」(82)頂いて以来従い奉仕してきたこの婦人たち(10節)は、十字架に際しても男性の弟子たちのように逃げ去ることもなく(2349、マルコ1450)、死後の主イエスにも仕えようとしたのです。それは美しい思い・行いでしたが、 5「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と現れた御使いは告げたのでした。

 重ねて御使いは、 6「ガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」と語りかけました。直接には「人の子は必ず多くの苦しみを受け、…排斥されて殺され、三日目に復活することなっている」と告げられた言葉(922)を指していますが、のみならず主イエスが語られ為され導き養われた一つ一つが今なお息づいて働いていることを思い起こしなさいとの指し示しでした。

 この言葉に、婦人たちは自らに与えられた救いが過去にとどまるものではなく、今そしてこれからもこの私を支え導くものであることに目を開かれたのです。 9「そして、墓から帰って」と記されています。このとき婦人たちは人間の経験則に縛られた 4「途方に暮れ」ざるを得ないあり様からも立ち帰り、主の復活の証人とされたのでした。

 イースターは主の復活を祝うと共に、私たち一人一人にも絶望・諦め・有限から希望・不屈・永遠への転回点が与えられたことを思い起こす日です。