「床を担いで歩きなさい」

ヨハネによる福音書 5章1~18節
ネヘミヤ記 9章26~31節

 

 2「ベトザタ」とは“恵みの家”という意味ながら、病人やしょうがい者が癒しを求めて 4「真っ先に水に入る」(新共同訳p.212)ことを相争う場となっていました。ここで 6「良くなりたいか」と主イエスに語りかけられた病人は、答える代りに自らの窮状を訴えたとあります。宗教改革者J.カルヴァンは、彼は38年も待ち続けて神にも大きな期待をしないようになっているのだ、そしてそれは今日の私たちと同様なのだ、と注解を加えています。

 主イエスは 8「床を担いで歩きなさい」との言葉と共に彼を癒し、立ち上がらせました。が、今度はそれが 9「安息日」をめぐる律法を破ったとして、ユダヤ人からの迫害を招くこととなったのでした。

 8・11・12「床を担いで歩きなさい」との言葉が繰り返されています。それは、束縛や依存から離れて一人一人がしっかりその道を歩き出すことこそ、神そして主イエスが望んでおられることだからです。14「神殿」で癒した彼に再会した主イエスは14「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。」とたしなめられました。せっかく束縛・依存から解放されても、人はその恵みを忘れてたやすく逆戻りするのです。故意かどうかはわかりませんが、彼の通告によって18「ユダヤ人たちは…イエスを殺そうとねらうようになった」のでした。

 ネヘミヤ926~は、イスラエルの歴史に繰り返された愚かさへの逆戻りを指摘しつつ、その民を捨てようとはなさらなかった神の31「恵み」と31「憐れみ」を指し示しています。その神の意志を体現して主イエスは、十字架へと進まれました。その犠牲は、愚かさを重ねる私たちが14「良くなっ」て喜ばしくその道を進みゆくためであったことを心に刻みたく思います。

「父が求めておられる」

ヨハネによる福音書 4章7~26節
イザヤ書 2章2~5節

 

 9「ユダヤ人」と 9「サマリア人」は本来は同胞であるにもかかわらず、歴史的経緯から両者の間には溝がありました。ユダヤ人はサマリア人を嫌って都エルサレムの神殿礼拝から締め出し、サマリア人もこれに対抗してゲリジム山に神殿を作ったのでした(20節)。

 さてサマリアの地シカルの井戸辺で、旅の途中疲れて座りこんだ主イエスは水を汲みにきたサマリアの女性に一杯の水を求めました。ここから始まった会話は、やがて14「永遠の命に至る水」さらには23「まことの礼拝」を巡ってとどんどん深まっていきました。

 15「渇くことがない」14「永遠の命に至る水」との言葉に反応した女性に向かって、主イエスは彼女が抱える結婚の問題を正面から切り出されました。内なる悩み・求めを言い当てられた女性は驚き、ではどこに行けば本物の神さまに出会えるのかと問うたのでした(20節)。

 この女性の姿は、他人事でしょうか。私たちも大なり小なり何かしらの求めを抱え、本物の神さまはどこにおられるのかと訊ね歩くのです。

 主イエスはどこへ行け、とは言われませんでした。大切なのは23「霊と真理をもって」23「まことの礼拝」をすること、何故ならば23「父」なる神ご自身がそのように23「礼拝する者を求めておられる」からだ、と教えられたのです。

 その言葉の通りに、この女性はこのとき25「キリスト」なる主イエスに出会ったのでした。主なる神のまなざしに洩れる場所はありません。私たちはそれぞれの生活の場でも、生きて働かれる主に出会うことができるのです。

2月のおたより

 立春を過ぎましたが、まだまだ寒い仙台です。教会の仲間の中でも体調を崩しておられる方がおられます。お一人お一人に主のまもりを祈ります。

 久しぶりに教会に来られた方は、門をくぐって“あれ、なんか違う?”と思われるかもしれません。先日、前庭の鉄製・木製遊具、うさぎ小屋を撤去しました。幼稚園の子どもたちが親しみ、最近ではめぐみの森活動に集まる子どもたちが遊んでいたこれらが無くなったのはさみしい思いもしますが、老朽化も進み危険も心配されることから、踏み切りました。

 その分、庭が広く感じられます。日曜日をはじめ教会活動時には、これまでより多くの駐車が可能となります。

 木製遊具の太い丸太は、業者さんが適当な大きさに割ってくださいました。これから順次ジレットハウスに運んで、ストーブの薪としてもうひと働きしてもらいます。

 下は、幼稚園を閉じる際の記念として作成したクリアファイルの画像です。C姉が描いてくださいました。遊具はもうありませんが、これからもみんなが神さまのめぐみのもと喜ばしく集う場として活用していきたく願います。

 

「恵みの善き管理者として」

イザヤ書 2章2~5節
ペトロの手紙 一 4章7~11節

 

 イザヤの預言はB.C.87世紀に南王国ユダで語られたものですが、今日の世界情勢とも重ねて読むことができます。 1「ぶどう畑の愛の歌」は繁栄の時代に驕った人々が富を 8「独り占めにし」、社会の憂いが増していった時代に語られたものです。 7「主」は 1「愛」と喜びをもって民を植えたのに実ったのは 7「流血」と 7「叫喚」であったと、その罪が告発されています。

 やがて南王国ユダは、北のアッシリアと南のエジプトという大国の挟間に置かれるようになります。イザヤは時の王アハズに「落ち着いて、静かにしていなさい」(74)と主にこそ信頼すべきことを告げますが、アハズはアッシリアの軍事力に頼ったのでした。次の王ヒゼキヤは国の防御を固めた上でエジプトと軍事同盟を結び(2815)、またバビロンにも頼ります(391~)。ヒゼキヤはこれで「平和と安定が続くと思って」(398)いましたが、押し寄せたアッシリア軍は防御をことごとく打ち破り、国は滅亡寸前にまで追い込まれました。そして約1世紀後、南王国ユダはバビロンに新しく起こった新バビロニア帝国によって滅ぼされていくのです。

 イザヤは22~で、主が「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」その日をもたらされることを仰げと語りました。Ⅰペトロ47~でその究極の時を知っている者は与えられた今を 7「思慮深く」歩み、預かっている様々な10「恵みの善き管理者として」仕えなさいと告げられています。

 211日“信教の自由を守る日”は、平和を求める社会的責任を今一度胸に刻む日です。

「新たに生まれる」

ヨハネによる福音書 3章1~2節
エゼキエル書 37章1~10節

 

 主イエスが宣教の働きを進められるにつれ、熱心な宗教指導者たち 1「ファリサイ派」やユダヤ最高法院の 1「議員」らとの対立が深まっていきました。ところがこの両方の立場にあった 1「ニコデモ」は主イエスのもとを訪れ、 3「神の国」の祝福にあずかる道について訊ねたのです。

 3「新たに生まれ」ることだと答えられた主イエスに、ニコデモは 4「年をとった」私がもう一度生まれることなどできるだろうかと反問しました。ここには、立場や名誉など様々なものを背負っている彼の悩みが滲んでいるように見えます。

 3「新たに」との語には、“上から”との意味があります。主イエスは 8「思いのままに吹く」 8「風」に譬えながら、神の導きに信頼して委ねることの大切さを語られたのでした。

 3「新たに生まれ」ることは、私たちの側から見ると困難なことに思えます。が、神の御業に委ねるという点では容易いことなのです。当教会では2012年のイースターに、松平ミネ姉が99歳で洗礼を受けられました。大震災の困難の中で生きる希望を見失いかけておられた姉でしたが神さまに結び合わされ、その年の秋に天に召されるまでの日々を喜びと感謝の内に歩まれたのでした。

 一方、 3「新たに生まれ」るのは一瞬のこととは限りません。このときは人目を憚り 2「夜」主イエスを訪ねたニコデモでしたが、のち最高法院で主イエスの弁護を試み(7:50~)、十字架で死を遂げられた主イエスの埋葬を担ったのでした(19:39~)。彼は時間をかけてでしたが確かに21「光の方に」歩み出、 3「神の国」の祝福に結ばれるに到ったのです。