「わたしの時はまだ来ていません」

ヨハネによる福音書 2章1~11節
コヘレトの言葉 11章1~2節

 

 当時 1「婚礼」は大きな喜びのときであり、1週間以上も祝宴が続くことがあったといいます。ところがその途中で、喜びを分かち合うぶどう酒がなくなってしまったのです。一見些細なことに見えつつ、これは私たちにも起こり来たる思いがけない試練や窮地を指していましょう。4年前突如襲った大震災の日々を思い起こします。

 母マリアがこのことを告げたとき、主イエスは 4「わたしの時はまだ来ていません」と答えられました。この福音書には「わたしの時」「イエスの時」「人の子が栄光を受ける時」といった表現が繰り返し現れ(76308201223131等)、それは主イエスが自らの命を捧げて救いを成し遂げられる十字架の時を指しています。

 しかしそう語られながらも、主イエスは召し使いたちが汲んだ水を用いて、これをぶどう酒に変えられました。喜びは無事分かち合われたのです。このことを福音書は11「最初のしるし」11「栄光」と表現していますが、これは華々しい奇跡を指していません。主イエスが世と生ける者を祝福へと招き帰すべくその業と命を注ぎ出されたことを意味しており、その一つ一つは十字架へとつながっているのです。

 主イエスは 4「わたしの時」に備えつつも、それまでに出会った一人一人をも祝福へと招いてくださいました。似たことを私たちも震災のときに体験しました。いざという時にこそ働きたいと願っても、日頃の備えがなければ特別なことはできないのです。むしろ平時に何に目を注ぎ、何を大切なこととして生きるかがあの緊急時に問われたことでした。与えられた今を大切に生きることが、“その時”に生きるのだと教えられます。

「来て、見なさい」

ヨハネによる福音書 1章35~51節
創世記 28章10~17節

 

 38「どこに泊まっておられるのですか」39「来なさい。そうすれば分かる」、たわいもないやり取りに見えます。ここから二人は一晩主イエスと語り合い、最初の弟子とされたのでした。

 次いで二人の内のアンデレがシモン・ペトロを主イエスのもとに連れていき、さらには同郷のフィリポがナタナエルに声をかけ、という形で主イエスに従う者が次々と起こされていった様子が記されています。39「来なさい」と主イエスの招きにあって恵みに捉えられた者が、今度は46「来て、見なさい」と隣人を招く者とされたのでした。

 彼らがどのように捉えられたのかが、シモン・ペトロまたナタナエルのケースに示されています。彼らは、自らに先んじて存在をその眼差しに捉え(48節)、そのまことを42「見つめ」ておられる方に出会ったのです。

 38「泊まって」の語は“留まる”“つながる”とも訳せ、この後くりかえしヨハネ福音書に現れます。主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(831)、「私はぶどうの木…。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(155)と言われました。39「来なさい」との招きに応えた弟子たちは主イエスに留まり、ついには十字架と復活の証人とされていきました。その招きと恵みは歴史を通して連綿と続き、今日の私たちに至っています。

「わたしは荒れ野で叫ぶ声」

ヨハネによる福音書 1章19~34節
イザヤ書 40章3~5節

 

 ヨハネ福音書はその冒頭でクリスマス物語を記さず、 1「初めに言があった。…言は神であった。」14「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」と世界の根源なる方の受肉の出来事を告げます。次いで今日開いたように洗礼者ヨハネが登場し、そのヨハネが指し示す主イエスの公生涯が始まっていきます。

 ヨルダン川で悔い改めの洗礼を施す働きを始めたヨハネは、世の人々の注目を浴びることになりました。19「あなたは、どなたですか」との問いに、ヨハネは20「メシア」=キリストでも、預言者21「エリヤ」の再来(マラキ319~)でも、モーセの予告した21「あの預言者」(申1815)でも21「ない」と明確に応じ、22「それではいったい、だれなのです」と畳みかけられると、23「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」(イザヤ403)と答えたのでした。

 ほかの3福音書はヨハネが預言者エリヤの再来として救い主の道備えの働きを担ったことを記していますが(マルコ913、マタイ1114、ルカ117等)、この福音書では彼はそうした称号を固辞したのだと描かれています。

 1「言」と23「声」の対比が印象的です。 1「言」こそが 3「万物」を成り立たせ、 4「命」そして 4「光」の源なのだと告げられています。被造物なる人間はこの 1「言」となることはできません、が世と私たちはしばしばそれらを取り違えるのです。

 一方、人間は個別な意思を与えられた23「声」として、 1「言」に応答しうる光栄を与えられてもいます。ヨハネは 1「言」を指し示す23「声」であると人間であることに自ら固く立ち留まると共に、私たちに近づき祝される 1「言」に応答すべき時が来ているその恵みを証ししたのでした。

1月のおたより

 どのようなクリスマス・新年をお過ごしになったでしょうか。去る12月、当教会にアメリカ・ペンシルバニア州の教会からクリスマスカードが届きました。

 “私たちは、ペンシルバニア州北部ハーフォードの「アメリカ合同教会 第一会衆派教会」です。間もなくたくさんの雪が降り積もるこの地から、仙台北教会にあいさつを送ります。みなさんが経験したきびしい震災被害のことを聞きました。みなさん、そして東北のすべての方々が支えられますよう祈りに覚えています。特に家を離れた避難を余儀なくされた方々のことを思い、祈ります。” こう書かれています。

 長く東北で働かれたジェフリー・メンセンディーク宣教師(現・関西学院大学チャプレン)が、アメリカの32教会と東北教区の86教会・センターを結び合わせる“クリスマスカード・プロジェクト”を立ち上げて下さり、このような交わりが生まれました。

 ちょっと遅くなってしましましたが、去るクリスマス礼拝の際に撮った集合写真を添えて、私たちからもカードを送ります。

 大きな傷・分断をもたらした大震災ですが、このように祈り合う新たなつながりもまた起こされています。

 

新年礼拝 「神から知られている」

ガラテヤの信徒への手紙 4章8~11節
コヘレトの言葉 3章1~11節

 

 与えられた2015年はどのような年になるのでしょう。放射能汚染による健康被害がいよいよ危惧される反面、社会はこの大きな課題を経済優先で処理しています。国政では特定秘密保護法が施行され、改憲の動きも危惧されるなど、国民主権の原則が脅かされています。でも私たちはこの時この所に立ち歩むべく、送り出されています。

 神学者K.バルトはよく、“新聞を読む目で聖書を読み、聖書を読む目で新聞を読む”と語ったといいます。刻々と移りゆく日々のあり様にあって何が大切なことなのか、見きわめる眼差しをもちたく願います。と共に、大切なもう一つの眼差しがあることを心に刻みたく思います。

 伝道者パウロは 9「神を知っている、いや、むしろ神から知られている」とあえて言い直す仕方で、私たちと世界が神の眼差しに捉えられていることを覚えるところに本当の自由が与えられると語りました。世界には様々な力が相働き、強く影響を及ぼします。私たちも時にそうした力に誘われ、縛られます。だからこそ、自らの罪を悔い、私たちの創り主なる方からの赦しを受け、新しくされていくことが必要です。

 課題は大きく混迷は深いことを思わざるを得ませんが、そうした私たちと世界を捉える神の眼差しに希望を得て歩む内外の友があることに心を強くします。共に主に支えられ導かれつつ、2015年を歩みましょう。