「老人が歌うクリスマス」

ルカによる福音書 2章22~38節
エレミヤ書 31章7~13節

 

 讃美歌180は、老シメオンが幼子主イエスを腕に抱いて歌った言葉(2932節)が詞となっています。ラテン語の初行から、ヌンク・ディミティス(Nunc Dimittis)と呼ばれます。“今こそ去らせてください”という意味ですが、そう歌いつつこの箇所に現れる二人の老人は希望と平和にあふれています。

 生後40日後、主イエスは両親に抱かれて神殿に連れてこられました。初めて生まれた男の子はまず神に捧げられ、24「いけにえ」をもって買い戻すという律法の規定があったためです。24「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽」というのは、本来の小羊を献げることができない人のための代用品でした。

 貧しい若夫婦によるありふれた奉献の光景であったはずです。が、これに目を留め進み出たのが、老シメオンとアンナでした。25「聖霊」が二人を駆り立てたのだといいます。二人は、この生まれたばかりの幼子に25「イスラエルの慰め」さらには31「万民の…救い」を見た、と語っています。二人は老人でしたから、主イエスが宣べ伝える言葉も聞かず、十字架も復活も見ることなくその生涯を終えたことでしょう。が、「はるかにそれを見て喜びの声をあげ」(ヘブライ1113)たのでした。

 預言者エレミヤは主なる神を忘れて迷走する南王国ユダへの裁きを語りつつ、そうした民を神は捨てることなくついには祝福へと導くことを告げました。今日開いた箇所はその頂点、31「新しい契約」の一部です。祝福の13「そのとき」がいつなのかは、エレミヤ自身も知りませんでした。が、神の約束は必ず果たされることを仰いだときに、その祝福はエレミヤの眼前に広がったのです。

 神の約束を仰ぎ続けたこと、これがシメオンとアンナの希望と平和の源泉でした。二人は幼子イエスを腕に約束の成就を予感しつつ、その喜びを分かち合ったのでした。

クリスマス礼拝 「わたしたちの間に宿られた」

ヨハネによる福音書 1章1~18節
サムエル記上 20章16~24節

 

 「わたしはアルファであり、オメガである」。ヨハネ黙示録に3回出てくる(182162213)この言葉は、神こそが世界の根源なる方であり、究極の完成に至るまで歴史を導かれることを指し示しています。 1「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と始まるヨハネ福音書冒頭も同様のことを述べつつ、14「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と驚くべき使信を告げます。超越者なる神が、一人の乳飲み子17「イエス・キリスト」としてこの地に降誕されたクリスマスの出来事のことです。

 10「世」とそこに生きる私たちは“被造物”でありながら、その神との関係を見失う中で他者さらには自らをも傷つけてきました(10節)。その悲惨を祝福へと導き帰すために、神は降誕を遂げられました。「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」と、イザヤ96は語っています。

 サウル王の息子ヨナタンと、次の王に選ばれたダビデは深い友情で結ばれていました。が、サウル王の憎しみがそれを引き裂こうとし、二人は別々の道を歩むことになります。その時ヨナタンは23「主がとこしえにわたしとあなたの間におられる」と約束し(42節)、ダビデもヨナタンの死後までこの約束を守ったのでした(サムエル下93~)。

 主イエスは、10「世」と私たちがもはや神との関係を見失うことがないよう自ら14「わたしたちの間に宿られ」、信頼・希望・愛の礎となってくださったのです。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ1721 )と語られた主イエスの言葉を思い起こします。降誕の使信を受けとめ、信頼を希望を愛を交わす者とされたく願います。

2014 クリスマスメッセージ

 先日、280円で買い求めた中古CDにJ. レノンの “Happy Christmas(War Is Over)” が入っていました。1969年のクリスマス、レノンとヨーコは世界11カ国の街頭に、“戦争は終わった!、あなたが望むなら。ハッピークリスマス!。”との街頭広告を掲げました。そして1971年、このメッセージを曲にしたのでした。当時はベトナム戦争の只中でした。でも、みんなが望むなら戦争は終わるんだ、あなたはどんなふうにクリスマスを迎えるの ? 、という強いメッセージを感じます。

 上の絵は、15世紀フランドル派の画家H.グースによる“東方三博士の礼拝”の一部です。博士は天体観測や魔術に従事した当時第一級の知識人・技術者でした。その博士が乳飲み子をうやうやしく礼拝するのを、周りの人々が不思議そうに眺めています。寒村ベツレヘムに誕生された救い主に出会ったとき、博士は神がこうして乳飲み子としてこの世界に来られたことに真の希望と平和への道を見出したのでした。人間の知識・技術は世界を豊かに便利にしても希望と平和を約束はしないこと、それらは人知を超えた者の慈しみと指し示しにこそ与えられることを知り、博士は乳飲み子を拝したのです。

 クリスマスはよろこびの時であると共に、その時をどのように迎えるのかを私たちに問いかけます。この出来事に与えられた希望と平和への指し示しを共々に受けとめたく思います。

「キリストは明日おいでになる」

マタイによる福音書 2章1~12節
詩編 85編5~14節

 

 244“キリストは明日おいでになる”は、当教会とも関わりがある讃美歌です。作詞者F.カーンは、イギリスの港湾都市プリマスの会衆派教会の牧師だった人です。17世紀この港を出帆したメイフラワー号に乗り込みアメリカを目指したピューリタンたちが、私たち日本の会衆派教会の源流です。カーンも作曲者D.ポッターも世界教会協議会(WCC)で活躍され、川端純四郎兄もそのよき働きに触れられたと書いておられます(川端純四郎『さんびかものがたりⅡ-この聖き夜に』)。この讃美歌は、私たちがキリストのみ業と神の国の完成の間に生きていることを思い起こさせ、そこでどのように歩むのかを問いかけます。

 罪を赦す11「慈しみ」と真実をあらわす11「まこと」は、この地上において相反するものです。しかし神のみ業はこれを結び合わせて実現し、 9「平和」を宣言するのだと告げられています。私たちは、その道を拓くために主がおいでになった降誕と、裁きと赦しを成し遂げられた十字架に、この預言の成就を見ます。主イエスにおいて12「地」と12「天」は結ばれ、13「わたしたちの地」が良き13「実り」へと導かれる希望がもたらされたのです。

 しかし宣言された 9「平和」は、なおこの地をを覆ってはいません。私たちは“既に”と“未だ”の間に生きています。主の降誕に際し、 1「占星術の学者たち」は持てる11「宝」を献げて、乳飲み子イエスを拝しました。12「別の道を通って」とは、彼らが主に従う生き方へと歩んだことを示しています。全き 9「平和」へと14「主の進まれる」行進に私たちも連なり、今を歩む者とされたく願います。

12月のおたより

  クリスマスが近づきました。子どもたちは、サンタクロースからのプレゼントが俄然気になっているかもしれません。

 サンタクロースには、モデルとなった実在の人物がいます。3~4世紀にミラ(現在のトルコ)の司教を勤めたサンクト(聖)ニコラウスがその人で、彼には多くの伝説があります。

 その一つ、彼がまだ修行僧の頃の話。日々孤独のうちに神と向き合う彼らの楽しみは、週に一度日曜夕にもたれる食事会でした。ところがニコラウスだけはその時、いつもどこかへ出かけていくのです。いぶかってある日彼の後をつけた仲間が見たのは、下町でニコラウスが貧しい子どもたちにお菓子やおもちゃを配る姿でした。仲間たちは自分たちの交わりが“内向きの喜び”であったことに気づかされ、不明を恥じたといいます。

 クリスマスに際し、一番最初に贈られたそして最大のプレゼントは、主イエスの降誕の出来事であったことを心に留めたく思います。あの晩、羊飼いたちに現れた天使たちは、この喜びが「すべての民に与えられる」ものであることを告げました(ルカ2:10)。聞かれた心をもって、クリスマスの喜びを分かち合いましょう。

 

Gentile da Fabriano (1360年頃-1427年)
「三人の娘が居る貧しい家に金を投げ入れるニコラウス」

「喜びとなり、楽しみとなる」

ルカによる福音書 1章5~20節
マラキ書 3章19~24節

 

 アドベント(待降節)は、クリスマスまで主イエスの降誕を想起すると共に、来臨による全き完成を待ち望む時です。この期節に用いられる色が、主の受難を心に刻むレントの時と同じく悔い改めと節制を表す紫であることは不思議に思われます。

 ルカ福音書はその物語を、預言者17「エリヤ」の再来として現れ救い主の道備えをする洗礼者ヨハネの誕生の次第から書き起こしています。17「エリヤ」再来のことは旧約聖書の末尾マラキ319~に記されており、3「順序正しく」と書かれているように旧約と新約の歴史はここでつなげられています。

 マラキ書で語られているのは、主が圧倒的な力で正邪を裁くその日が来るということでした。成長してその働きに入った洗礼者ヨハネも、悔い改めを使信として告げました(3:1~)。

 やがてヨハネが生まれると告げられつつそれを信じられなかった父ザカリアは、20「この事の起こる日まで」口がきけなくなります。これは罰だったでしょうか。ヨハネの誕生は、14「喜びとなり、楽しみとなる」と告げられています。父ザカリアは自らの思いを超えて実現しゆく主のみ業を沈黙の内に味わい、口が開かれたときその喜びはほとばしり出たのでした(64節)。

 降誕の出来事は、裁きをこえた救いと希望の途がこの世界に訪れたことを告げます。悔い改めの紫は勝利の白へと向かい、罪の告白は喜びの讃美へと変えられていくのです。しかしそれは、私たちとこの世界が救いの出来事を必要とする闇を抱えているということでもあります。そうしたことを沈黙の内に振り返り、喜びの到来を待つ時がアドベントです。