「この希望によって」

イザヤ書 11章1~10節
ローマの信徒への手紙 8章18~25節

 

 1「エッサイ」とはイスラエル・ユダ統一王国を打ち立て興隆に導いたダビデ王の父ですが、彼自身は寒村ベツレヘムに住む名もない人物でした(サムエル上16章)。ダビデ王の2代後の時代に王国は南北に分裂し、周囲の大国に翻弄されるようになります。預言者イザヤが南王国ユダでこの預言を語ったのはB.C.8世紀、ダビデ王から数えて1314代目の王の時代でした。王は大国の間でうまく立ち回ることに腐心し、国内は乱れていたようです。

 1「株」とは、この王朝が切り倒されることを意味しています(1034)。預言者イザヤはみ旨によってやがてこの王国が滅び、やがて 1「若枝」すなわち新たな王が現れることを語りました。あえて 1「エッサイ」まで遡っているところに、ダビデ王とは違う仕方で国を導くことが示唆されています。

 この王は 2「主の霊」に導かれ 5「正義」と 5「真実」をもって 4「弱い人」を支え、ついには究極の平和と共生を実現される(610節)と告げられています。 

 700年後、新約の時代に至り、この預言は主イエス・キリストの救いの業を指し示すものと理解されるようになりました。主イエスは降誕して世を慰められると共に、神の国の成就を約束されました。主イエスの業によって、悩みある今は完成の希望へとしっかりと結びあわされたのです。時代の課題の中で私たちを含め22「被造物」は23「うめき」を抱えていますが、神は十字架の受苦をもってこれを共にしつつ(26節)完成の21「栄光」を仰がせてくださいます。今の苦闘は無意味ではないのです。今日から始まるアドベント(待降節)は、クリスマスの降誕を待つと共に完成の希望を仰ぐ時でもあります。

「神の計画、私の予定」

使徒言行録 19章21~34節
イザヤ書 46章1~13節

 

 来年の手帳の準備をする季節となりました。私たちはあれこれと書き込んで予定を立てますが、計画通りに事が進まないこともしばしばです。

 今日開いた箇所で伝道者パウロは21「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」との計画を表明し、ローマ1524ではさらにイスパニア=スペインまで伝道に出かけたいとの願いを書き記しています。地の果てまでも主イエスの福音を届けたいと願ったのでした。

 パウロのローマ行きの願いは、皮肉な形で実現します。すなわち彼は献金を届けに行ったエルサレムで捕らえられ(2127~)、囚人としてローマへと送られたのでした(271~)。おそらくスペインには行けなかったでしょう。使徒言行録ははっきりと記しませんが、パウロは捕らえられたままで、その生涯を全うしたのだと思われます。

 パウロは不遇を嘆いたでしょうか。自らの計画がかなわなかったことを残念としつつも、神の計画に用いられたことを感謝しただろうと思うのです。イザヤ46章は偶像と対比する形で、10「計画」を11「必ず実現させ…完成させる」神のみ手を指し示し、そのみわざに私たちが用いられる不思議を語っています。

 パウロはこの生ける神を宣べ伝え、この方に導かれ用いられる生を証ししました。彼は福音宣教のその働きを通して、思想的にも文化的にも大いに異なるエルサレムとローマの間に橋をかけたのでした。彼が福音を届けたいと願っていたスペインに育った宣教師によって、やがて日本に福音がもたらされたことに感慨を深くします。

「まだ生きている」

使徒言行録 20章7~12節
イザヤ書 43章1~7節

 

 新約で今日開いた箇所は、キリスト教の礼拝がどのように始まったかを伝える貴重な証言です。 7「週の初めの日」の 7「夜中」つまり土~日か日~月に、ひと所に 7「集まって」、 7「パンを裂く」聖餐と 7「話」がなされたということがわかります。教会はこうした礼拝を欠かせない大切なこととしてまもり、今日に至っています。

 9「パウロの話が長々と続」き、 9「エウティコという青年」が 9「ひどく眠気を催し」たというのも今日の私たちに似ているようで、可笑しくなります。が、このときは大変なことになりました。眠り込んだエウティコは三階の窓から転落し、死んでしまったのです。

 礼拝に来て死んでしまう、そんな悲劇があって良いのでしょうか。いっぽう、こうも考えさせられるのです。“安全な礼拝”で良いのだろうか ?

 なぜなら礼拝とは、古い自分に死に新しい命に生きる機会であると教えられているからです(ローマ64、Ⅱコリント517)。礼拝において、私たちは罪を抱えたありのままの姿を問われ、そうしたあなたはなお 4「値高く、貴」いとの招きの声を聞くのです。その中心には、自らの命を 3「身代金」とされた主イエスの十字架の贖いがあります。

 このときパウロと人々は、迫害による別れの予感の中にありました(38節)。そのパウロがエウティコを抱きかかえ10「騒ぐな。まだ生きている。」と叫んだこの礼拝の記憶は、命の主が破れある小さな私たちと共にいてくださることを告げるものとして人々の中で生き続けたのではないでしょうか。そして、私たちも聖書を通してこの証言にあずかっています。

11月のおたより

 震災発生より3年を数える今年3月に、仙台にて開催された「東日本大震災国際会議」の報告書が届きました。海外教会から約70名、国内から約150名が集い、原子力発電の問題について熱心な報告・討議がなされました。宣言文は、今日の社会を人間と神との関係の視点から見つめ、今回の原発事故の背後に傲慢・貪欲・偶像礼拝・隠蔽・怠惰・無責任・責任転嫁の7つの罪を指摘しています。

 この宣言は世界の諸教会にも伝えられ、7月2~8日にジュネーブで開催された世界教会協議会(WCC)中央委員会は、核の軍事・民生利用が神の意志に反するものであり、教会は“核からの脱出”に向かうべきことを声明として発表しました。これを踏まえてチャン・サンWCCアジア地区議長は8月4日首相官邸に菅義偉内閣官房長官を訪ね、世界約5億人のキリスト者を代表して上記声明ならびに「日本国憲法第9条の再解釈についての声明」を手渡しました。

 仙台での国際会議はもっと被災地東北からの声が届けられるべきだったなどの反省を含むものでしたが、共に祈り平和を求める多くの信仰者の連なりにあって有意義に用いられたことを思い、感謝をしています。

 報告書は、当教会をはじめ教団の諸教会・伝道所に届けられています。興味のある方は手に取ってみてください。また教団事務局にて、1冊1000円で頒布しています。

収穫感謝合同礼拝 「カラスの宅急便」

列王記上 17章1~7節

 

 真っ黒なカラスはあまり好かれませんが、鳥類の中でもっとも知恵が発達しているとも言われます。以前、運転する車の鼻先にカラスが胡桃を落としてきたことがあります。タイヤで割らせようとしていたのでした。

 B.C.9世紀、預言者エリヤは北王国イスラエルで蔓延していた偶像礼拝と対決すべく立ちあがりました。偶像を拝む王アハブにエリヤは主なる神に立ち帰れと迫りましたが、それは長く厳しい戦いの始まりでした。王と王妃は執拗にエリヤを狙うようになります。

 主は都から離れた渓谷にエリヤを匿われました。そしてこの間、エリヤは朝夕カラスが運んでくるパンと肉によって養われたのでした。

 次いで主に 9「シドン」に住む一人のやもめの家に行けと言われ、エリヤは驚きました。この地こそ偶像礼拝の本拠地であったからです。命じられて着いたのは、やもめと息子が住む貧しい家でした。この親子も偶像礼拝者であったはずです。

 エリヤは頼んで、わずかに残った小麦粉と油でパン菓子を焼いてもらいました。が、エリヤがまた親子が幾日食べても16「壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった」のです。エリヤはあらゆる動物・人にも主なる神のみ手が働いていることを知り、この親子もこのことをきっかけに真実の神に出会ったのでした(24節)。

 もう一つ、主はカラスややもめを通してエリヤに、助け支えられることの重さ・大切さを教えられたのではないでしょうか。大きな働きは主なる神の支えと、他者の助けなしにはなし得ません。支え養われた体験から出発して、エリヤは預言者を代表するとも言われるその働きに向かったのです。

 

召天者記念礼拝 「共に祝宴にあずかる日を仰いで」

マルコによる福音書 14章22~25節
イザヤ書 25章6~10節

 

 墓は何のために建立されるのでしょう。それは生の記憶・追憶のためであり、堅固な石が用いられるのは限りある人の生を永遠へと位置づけるためであると考えられます。

 マルコ1226で主イエスは、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と神が現在形で語られている言葉を示され、だからいにしえのアブラハムらも神の前で生きているのだと言われます。これだけでは釈然としませんが、ここで「モーセの書の『柴』の個所で」と指し示されていることが重要です。あのときモーセは燃え尽きない不思議な柴にはかない者を生かし進み行かせる神の慈しみの力を見、その力に押し出されて出エジプトの指導者へと立っていったのでした。私たちの命は神につながり、そのささやかな歩みも神の前に覚えられているのです。

 今日開いた旧約に、主は 8「涙」も 8「死」をも滅ぼし 6「すべての民」を祝宴に招かれるとの希望が語られています。こうした呼びかけに、私たちは先に召された愛する者たちが天上の祝宴にあずかっていることを仰ぎます。

 でも、この祝宴はなお完全なものではありません。この地上に悲しみが絶えないからです。主イエスは「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ6:10)との祈りを教えられ、25「神の国で新たに飲むその日まで」と言われました。天上にある者も地上に歩む者も、神の国の完成を待ち望む祈りを共にしていることを心に刻みたく思います。