「主が命じられたとおりであった」

出エジプト記 40章17~38節
ヨハネによる福音書 17章1~8節

 

 17「第二年の第一の月」とは、イスラエルの民がエジプトを出発してからちょうど一年後ということです(124)。主なる神を礼拝するための17「幕屋」がこの日完成しました。こうしていよいよ本格的に約束の地を目指す旅に出て行く段階となって、出エジプト記は閉じられていきます。

 「主がモーセに命じられたとおりであった」との言葉が19節から、実に7回繰り返されています。主が世界をみ旨のままに7日間で創造されその栄光が顕わされたように(創131)幕屋は完成し、34「主の栄光が…満ちた」のでした。民は共に労し、その大いなる恵みと喜びに与りました。

 シナイ山での契約締結の場面で、民が誓った 8「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」との言葉が瞬く間に破れていったことを思い起こします(19章)。にも拘わらず人間の弱さ・破れをも覆う主の慈しみのゆえに、この契約はなお生きたものとして民を支え導く礎となったのでした。

 今日の箇所には、弱さ・破れを抱えた私たちがみ旨にあって主と共に働き得ること、そして大いなる恵みと喜びに与り得ることが指し示されています。

 多様な宣教の働きを実践・展開された岩村信二先生(元・大森めぐみ教会牧師)が先月2594歳で召天され、“従容としてかつ堂々と主の御許に召されました”と記された会葬御礼を頂きました。ご長女の望月初穂姉より加えてお手紙があり、“従容”との言葉は岩村先生の義父にあたる大石榮一兄(当教会員)の葬儀に際して菅隆志牧師が用いられたものであることを知らされました。弱く破れある小さな私たちも奇しきみ旨に導かれ従いゆくときに主の栄光に与り、価値ある生涯に歩み得ることが指し示されていましょう。

「終わりの時に」

マタイによる福音書 24章36~44節

 

 説教  川上 直哉 牧師 (東北HELP事務局長)

 

 2011311日、東日本大震災が発生しました。2万人に迫る人々が命を失い、無常ということを思い出させられた出来事となりました。深く深く、これまでのあり方が問い直された出来事でした。日本は生まれ変わるのかなと、そういう感慨がそこには自然と生まれたことでした。しかし、実際はどうでしょうか。

  312日、原子力発電所が爆発しました。その結果、十万という単位の人々が故郷を追われました。あれから三年半が経とうとしています。そしていま私たちは、元に戻ろうという強い力を感じています。

  そういえば、ノアの方舟の物語の最後は、神様の祝福によって終わっています。しかしそれは、春夏秋冬の流れはあの大洪水によっても止められるものではないのだと、語っているように思います。ゆく川の流れは…と語られ、祇園精舎の鐘の声とうたわれる、その無常ということを、今、私たちは感じさせられるのかもしれません。

   しかし他方で、不気味なことばかりが聞こえてきます。通常60倍の確率で小児甲状腺がんが見つかっている、ということは、福島県立医大の先生によって公開されました。海上保安庁の報告によると、2012年の東京湾の水は、福島の沿岸から宮城県牡鹿半島の南部に至る海域とほぼ同じく、非常に高い放射性セシウムを含んでいることが、つい最近、発表されました。水沢の牧師の息子さんの尿からはセシウムが検出されています。東京都葛飾区役所によると、同区内の200か所以上が、除染を必要とするホットスポットであるけれども、まだ対策は講じられていないとのことです。突然死や若年性白血病が、福島市に居住する私の知人の身に起こりました。そして仙台に住む私の二人の娘に、甲状腺の嚢胞が見つかりました。

  私たちは、水に世界が飲まれていく様子を見たはずです。しかし世界は変わらずに回ってゆく。その中でやはり、何かが終わりつつあるような予感がします。そうした時、教会はいつも聖書の中の黙示を読みました。福音書にも、黙示があります。それがマタイによる福音書24章から25章です。福島に通いながら、今、この個所を読んでいます。皆さんとご一緒に、今日、また新しくこの個所を読んでみたいと思います。

めぐみの森まつり

 当教会付属の「仙台めぐみ幼稚園」は、2011年3月末をもって37年間の働きを閉じましたが、教会の親子の活動は「めぐみの森」活動として継続されています。

 教会学校、中高生の会、こひつじ文庫、親子グループめだか、子育てママの集いわかぎといったそれぞれの働きがつながって、森のような豊かな場になることを願っています。

 このめぐみの森全体のおまつりが30日(土)14:30~16:00に、教会で開かれます。わたあめ・ポップコーン・ヨーヨー釣り・工作コーナー・めぐみ劇場など楽しいコーナーが用意され、100円のチケットで全コーナーをまわることができます。

 どなたもおいでいただけます。子どもたちに声をかけて、おいでになりませんか。楽しみにお待ちします。

「不条理と祝福」

創世記 27章18~29節

 

 説教  佐藤 真史 牧師 (東北教区被災者支援センター・エマオ専従者、

                   いずみ愛泉教会担任教師)

 

 今日の箇所をよく読むと、ヤコブはこの物語の中で3回嘘をついています。

 まず、ヤコブは自分をエサウだとハッキリと嘘をつきました。また神さまがこのご馳走を与えて下さったのだと神さますら利用し、最悪の嘘を重ねています。そして、最後に再び自分をエサウだと偽るのです。そしてイサクに疑われつつも、何とかヤコブは祝福を騙し受けることに成功しました。この後のヤコブにはどのような人生が待っていたのでしょうか。聖書を読むと、父イサクが騙されたことを知った兄エサウは激怒し、ヤコブの命を狙います。ヤコブは逃亡者となりますが、逃亡先で今度はヤコブ自身が反対に騙されるということも起こります。ほんの一時で帰ってくるはずだったはずの逃亡生活が、結果的に20年間にも及んでしまいます。祝福を得たはずのヤコブは、不条理の中へと突き進んでいってしまうのです。

 しかしそれでも神さまからの祝福は、ヤコブの下に置かれ続けたのです。

 私たちはこのヤコブ物語を通して気付かされることがあります。それは、この生々しい現実の中に、紛れも無く私たちの弱さ・罪が刻まれている現実の中に、時には不条理としか思えない現実のただ中に、神さまは祝福を置かれているのだと。その意味では、神さまの祝福は私たち人間の思いを越えて、不条理の中ですら働いているのだと思います。

 荒井英子牧師(元:多磨全生園秋津教会牧師、恵泉女学院大学准教授)の遺稿集『弱さを絆に』(教文館)の中に、とても示唆深い一文があります。

人は強さや大きさを絆にする時、すぐさま効率を最優先させ、排除の論理を振りかざし始めます。しかし、弱さを絆にしていく時、弱さには不思議な力があることに気づかされます。誰をも排除せず、お互いの賜物を生かして、和らぎ合う、心地よい場所を作り出せるからです。ここに生きていてもいいんだ、そして「お互いさま」の中で許しあい、補い合って作る安心と信頼。肩の荷がおりませんか。

 私たちそれぞれが直面しているこの不条理な現実のただ中で、弱さを絆にして繋がり合い支え合う、そのような場へと私たちは促されているのではないでしょうか。

8月のおたより

 ちょっと先の話ですが、11月9日(日)13:00~15:00、今年も教会バザーを開催することが決まりました。

 そして今年も「つながる広場合唱団」を編成して、当日発表を行うことになりました。これで4年目、教会から、地域から、関係の合唱グループなどから・おとな取り混ぜて20~30名が集まります。

 曲目と練習日も、以下のように決まりました。指揮の I 兄が、よくわかる的確な指示でみんなをひっぱってくれます。歌声が揃うまでにはなかなか大変ですが、みんなでつくり上げていく喜びがあります。どなたもご参加頂けます。おいでになりませんか?。

  

【演奏曲目】

君をのせて

美しく青きドナウ

真っ赤な秋

落葉松

 

【練 習 日】

 9/20(土) 13:30 ~ 15:30

10/ 4(土) 10:30 ~ 12:30

10/11(土) 10:30 ~ 12:30

10/26(日) 13:30 ~ 15:30

11/ 1(土) 10:30 ~ 12:30

11/ 8(土) 13:00 ~ 15:00

 

【発 表 日】

11/ 9(日) 14:00

 

【会  場】

仙台北教会

「わたしたちは、主が語られたことを、すべて行います」

出エジプト記 19章1~8節
マタイによる福音書 5章17~18節

 

 出エジプトを果たしたイスラエルの民は、かつてモーセが主からの召しを与えられた(31 1「シナイ」山に辿り着き、ここで十戒・律法を内容とする契約を与えられました。このとき主はアブラハム・イサク・ヤコブといった個人を超えて(224)、初めて民と契約を結ばれたのであり、これが旧い契約(旧約)と言われるものです。

 まず主は、 4「鷲」が雛を護り慈しむように(申3211)私はあなたたちを導き上ったと、この契約が主の大いなる恵みのもとに結ばれるものであることを明らかにされました。これに対し民は、声を合わせ 8「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と繰り返し誓ったのでした(247)。

 この誓いの言葉を、私たちはどう受け止め得るでしょう。この直後、民は金の子牛を作ってこの偶像を拝み、誓いの言葉を破るのです。この出来事には人間の誓いの不確かさ、空しさが指し示されていましょう。

 と同時に、主の与えられた契約は人間の弱さ・破れをも覆う慈しみの上に立てられていることを知るべきです。まさに親鳥が雛を育てるように主は繰り返し背くイスラエルの民を導き、契約を捨てられませんでした。そしてこの契約はエレミヤの預言を経て(エレミヤ313134)、主イエス・キリストの受肉という新しい契約(新約)へとつながっていくのです。

 8「主が語られたことをすべて、行います」との私たちの言葉に破れが含まれていることを主はご存じの上、なおこの応答を喜ばれるのです。そうした破れにもかかわらず、 5「今…聞き従」うならばあなたたちは主の民としての恵みを頂く、と呼びかけられていることを心に留めたく思います。

平和主日礼拝 「御国が来ますように」

マタイによる福音書 6章9~13節
詩編 102編1~19節

 

 宮田光雄先生(東北大学名誉教授)は1983年ナチスの強制収容所を訪ねられ、そこでの思索を『アウシュヴィッツで考えたこと』(みすず書房)に纏められました。

 ナチスによる大量虐殺を指す“ホロコースト”は元来聖書に現れる“燔祭”を意味する語であったことを指摘した上で、先生は“アウシュヴィッツ以降、なお人間は祈り得るか”との神学者の言葉を取り上げておられます。それは、おびただしい人間を焼き尽くしていった恐るべき罪を目の当たりにしてなお神をまた人間を語り得るか、との問いです。

 別の章で先生は、ナチスに抵抗してブーヒェンヴァルト収容所に囚われたP.シュナイダー牧師を紹介しています。ナチスの旗への敬礼を拒んだ牧師は狭い独房に閉じ込められ、そこからなお聖書の言葉を発し続けました。13ヶ月後牧師はついに獄死に到りますが、その間家族に送られた手紙には“独房の中は狭い、しかし聖書は広い”と記され、独房の窓から見える一本の木のスケッチには“…木が私に語りかける…やがて訪れる春に向かって希望に満ちているようだ…”と添えられていたのでした。

 先生は重い問いと共に、収容所の中からなお祈りは発せられていた事実を紹介しています。背信を重ねる人間は罪という独房に囚われているかのようにも思います。でもなお、18「主はすべてを喪失した者の祈りを顧み、その祈りを侮られ」ないと聖書は語ります。この招きに与り、10「御国が来ますように」と祈り続ける者でありたく願います。