「あなたを遣わすしるし」

出エジプト記 2章23節~3章12節
コリントの信徒への手紙 二 12章5~10節

 

 長じたモーセが神に呼び出され、出エジプトの指導者に任じられていった箇所を開きました。この召しにモーセは驚き、11「わたしは何者でしょう」と答えたとあります。これはとても私には務まりませんとの固辞の言葉であると共に、モーセが青年期から抱えてきた問いでもありました。ヘブライ人でありながらエジプトの王女の子として育ったモーセですが、成人して苦しむ同胞のために立ち上がろうとしたことがありました。が、同胞たちから拒否されてしまったのでした(211~)。“わたしは何者なのか”この問いを抱え、モーセはミディアンの荒れ野で羊飼いとなり、ひっそり生きていたのでした。

 今なお被災地支援にやってきてくれている新潟・敬和学園高校では、学校とは“自分探し”の場だと語られています。支援活動も、“労作”という身体を動かす授業の一環ということです。思春期は自らに迷い、ぶつかり、そして見出していく危機とチャンスの時と言えます。その大切な問いに学校そのものが寄り添ってくれるのは、幸せなことだと思います。

 モーセの11「わたしは何者でしょう」との問いに神は直接答えられた訳ではなく、12「わたしは必ずあなたと共にいる」との言葉が与えられたのでした。歩む道は自ら見出していかねばなりません。がこのとき、小さな者の23「叫び声」に耳をとめられる方、はかない 2「柴」を燃え上がらせ続けられる方が共に歩んでくださることをモーセは知り、歩み出しました。12「このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」と神が言われたように、モーセは自らの強さによってではなく、どこまでも共に行かれる主に支えられてその使命へと向かったのです。

 およそ20年前の敬和学園高校の卒業生が、自らをふり返った“樹海”という詩で“…自分というものを探し続けながら、人は皆各々樹海を歩いているのではないだろうか。その樹海は深いかもしれない。…でもともに歩いてくれる存在に気付いた時、暗く深い樹海は森になる。…”と綴っています(榎本栄次 『自分さがしの旅』、日本キリスト教団出版局)。

「その名が記憶された理由」

出エジプト記 1章15節~2章10節
ヨハネによる福音書 18章33~38節

 

 出エジプト記は強大な王朝によって栄えたエジプトについて記しつつ、その王の名については興味がないようです。一方、15「二人のヘブライ人の助産婦」の名は「シフラ」「プア」と記されています。

 ヘブライ人が増えるのを憂えた王は22「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め」との命令を出しました。幼き命に対する暴虐はもちろん、後に“エジプトはナイルの賜物”と語られたようにこの国がその流れの恩恵によって支えられていたことを思えば、これは余りに驕った暴言と言わねばなりません。エジプトは1970年、ナイル川を堰き止めるアスワンハイダムを建設しました。その治水により耕土や電力を得た一方、土地痩せ・塩害・下流の浸食などの環境破壊も起こり、その意義が問われています。この王の言葉は時代を超えて、人間のあり方を問うていましょう。

 王のこの愚かな言葉に抗い幼児の命を助け出した者として、助産婦二人の名はこうして今日まで記憶されているのです。またそうした抵抗にあって10「水の中から…引き上げ(マーシャー)」られた幼児が、民をこの国から引き出す者(モーシュ)モーセとされていった神の計画を出エジプト記は記しています。

 さて主イエスを裁き十字架刑を言い渡したローマ総督33「ピラト」の名も、使徒信条において今日まで記憶されています。38「真理とは何か」と問いつつも引き渡してはならないものを引き渡していった彼の姿は、この世のあり様そのものを象徴しています。彼の名がくり返して唱えられるのは、一つにこの世の愚かさをふり返るためであり、もう一つはそうした世を捨てずに愛して救いへと導かれた神の愛を覚えるためです(316)。

6月のおたより

 6月15日、当教会は「子どもの日・花の日」大人と子どもの合同礼拝を行いました。「子どもの日・花の日」は子どもたちに神さまの祝福を祈り、神と人とに喜ばれる成長を祈って、今から160年くらい前にアメリカの教会で始まったものです。ほんとうは6月第2の日曜日なのですが、今年はペンテコステ(聖霊降臨日)と重なったため、当教会では翌週に移動しました。世界中の教会で同じ悩み(?)があったと思います。それぞれ、どうなさったのでしょうね?。

 例年この日、当教会では合同礼拝をまもり、礼拝後には愛餐会を開いて、大人も子どもも共に神さまの家族であることを分かち合います。また持ち寄られたお花が子どもたちにプレゼントされます。

 今年の礼拝では、困難や曲折の中にも夢を見続けたヨセフのお話をしました(創世記37章~)。子どもたちが神さまからの希望に導かれつつ、夢を掲げて成長しゆくことを祈りたく思います。

 

子どもの日・花の日合同礼拝 「夢見たヨセフ」

創世記 37章3~27節

 

 “には、眠っているときに見るものと、遠い目標・願いという二つの意味があります。これら両方を英語でも日本語でもと同じ言葉で呼ぶのは、二つがどこかでつながっているということかも知れません。

 12人兄弟の11番目の息子ヨセフはあるとき、自分が作った麦の束をお兄さんたちの束が拝むという不思議な夢を見ました。それを聞いたお兄さんたちはなに、お前が王さまになるということかと怒りました。日頃からお父さんのヤコブに可愛がられるヨセフが気に入らなかったお兄さんたちは、人のいない野原でヨセフを見つけたとき19「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。」と言って、ヨセフをエジプトへと売り飛ばしてしまったのです。

 でも神さまから夢を解く力を分け与えられたヨセフは、エジプト王の家来、そしてついには王の夢を解いて、この国の大臣に取り立てられました。やがてこの地方を飢饉が襲い、食糧を分けてもらいにエジプトにやってきたお兄さんたちはまさかそれがヨセフだとは知らずに頭を下げたのでした。あの夢はほんとうのことになったのです。このときヨセフは涙と共に自らを明かし、みんなは仲直りしたのでした。ヨセフの招きに応え、お父さんのヤコブをはじめみんながエジプトに移り住むことを決心したとき、神さまはどこへ行ってもわたしはあなたがたの神であると、祝福されたのでした(4634)。

 このお話は、夢を見続けることの大切さを語っています。今月3日、南三陸町でスパイダーこと八幡明彦さんのお葬式が行われました。私は今から約30年くらい前、超教派の教会青年活動で八幡さんと出会いました。与えられた命を誰もが喜びの内に生きられる社会をつくるという夢を本気で追いかけていた八幡さんは、ある意味厳しい人でした。この八幡さんが震災発生後南三陸町に入り、自然の豊かさの中で子どもたちが命を喜びの内に燃やすことを目指して“てんぐのヤマ学校”を開いておられたことを、私は全く知りませんでした。蜘蛛の学者でもある八幡さんは、南三陸の人たちから“スパイダー”と呼ばれて親しまれていましたが、先月31日に交通事故で突然召されたのでした。お葬式に集った約300名の中からは、“スパイダー、あなたの夢・働きを受け継いで、南三陸の将来をつくっていきます”との声がいくつも聞かれました。本物の夢は、どんな力にもつぶされることなく受け継がれ、平和と希望へと向かっていくということを私たちも心に刻みたく思います。

ペンテコステ礼拝 「命と神の愛を指し示すもの」

ローマの信徒への手紙 5章1~11節
イザヤ書 42章5~9節

 

 ペンテコステとは、主イエスの十字架と復活の約50日後に弟子たちに聖霊が降ったことを記念する日です。それは「激しい風が吹いて来るような」出来事であったと使徒21~に記されています。

 「風」は“息”“霊”と同じ語源に基づく語であり、旧約でも新約でも聖書でこれらはつながったものと理解されています。創世記2章の7「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」との創造物語は、私たちがただ緻密に作られているから生きているのではなく神から命を分け与えられた存在であることを指し示しています。聖霊の働きはこのことを私たちに思い起こさせます。

 イザヤ425~はまずこのことを記し、さらに7「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から闇に住む人をその牢獄から救い出す」のだと告げます。具体的にこれはバビロン捕囚からの解放を意味しますが、のみならず神の働きかけこそが私たちの旧いあり方を打破し、新たな希望へと導くのだと受け止めることができるでしょう。

 ローマ51~は、5「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれ」るとき3「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」のだと語っています。聖霊は神の愛として働き、私たちを生かし動かすのです。 

「途上に耐える」

マタイによる福音書 13章18~30節
詩編 42編1~9節

 

 震災発生以降の人々の恐怖や不安に乗じ、様々なカルト集団が被災地に入り込み信者を獲得しようとしているとの憂慮すべき状況があり、昨年9月にはこの課題をめぐっての日本脱カルト協会研究集会が仙台で開かれました。

 多くのカルトに共通するのは、恐怖・不安を煽る一方、これを全面的に解決できるとする世界観の鋳型に人を嵌め込むことです。その世界観はある種の肯定と安定を与えてはくれますが、依存を生み物事を考え批判することはできなくなります。

 長くカルト問題に取り組んでこられた浅見定雄氏(東北学院大学名誉教授)は、真の宗教は人格を奪うのではなくこれを受け入れ生かすのであって、今という課題ある途上にも耐えて歩み行かせるものではないか、と論じておられます(『新宗教と日本人』、晩聲社)。

 18・24「種」は成長の途上で多くの試練を経験します。が、耕す者は喜ばしい収穫の時を信じてこれを蒔き続けるのです。いや「種」自体が課題を乗り越えて喜びに到る力を有しているといった方が良いかもしれません(マルコ427)。24節~の毒麦の譬は、主はすべてをご存じの上でついにはすべてを治めされることを信じ、悩みも課題もある今を耕し続けることの大切さを告げています。