東華学校碑前祭

 当教会は、今から127年前、仙台にあったキリスト教主義学校「東華学校」の教職員によって創立されました。校長は新島襄であり、事実上同志社の分校のような学校でした。時代の荒波の中、残念なことにこの学校は5年間で廃校となりました。今も仙台市中心部連坊小路に立つ遺址碑が、その歴史を伝えています。

 来る6月7日(土)、昨年に引きつづき同志社校友会宮城県支部がその前で、「碑前祭」を行います。当教会も協賛に加わっており、どなたも自由に参加できます。ご興味のある方は、どうぞおでかけください。

 

 <東華学校遺址碑碑前祭> 

     6月7日(土)15:00~  連坊小路 JT仙台支店前

「宝が隠されている」

マタイによる福音書 13章44~50節
イザヤ書 45章1~7節

 

 来週もたれる教区総会では、なお震災への取り組みが主たる協議事項となりそうです。地域も教会も甚大な被害を受け、なおその中を歩んでいるからです。被災者支援センターエマオと放射能問題対策室いずみの働きを、少なくとも20173月まで継続することが提案されています。

 一方課題と向き合う中で、新たな出会いと協力という恵みも与えられました。特に、台湾基督長老教会(PCT)嘉義中会とアメリカ合同教会(UCC)の2教区とは宣教協力を進める話し合いが始まっています。

 今日開いた聖書には、耕していた畑で44「宝」を見出したとの譬え話があります。前段の良い麦と毒麦が混在する畑の譬え話で、38「畑は世界」だと語られています。ここでは、課題に失望することなく今に取り組み歩み続けることの大切さが指し示されていましょう。希望を仰いで耕し続ける者は、不意に44「宝」を見出すのです。

 B.C.6世紀のバビロン捕囚期に働いた預言者エレミヤまた第二イザヤは、全世界を治めておられる主なる神が人の思いを超えて歴史を導かれることを指し示しました。すなわちイスラエルの罪を悟らせるため敵将ネブカドレツァルをも用い(エレミヤ278)、ペルシャ王 1「キュロス」を用いて解放をもたらすと告げたのでした。これらの預言によって、民は亡国と捕囚という大きな試練にもなお主の指し示しがあったことに目を開かれたのでした。

 44「宝」とは44「天の国」、すなわち神の国の恵みであり、それは世の宝にまさるものだと語られています。課題また試練ある世界にも、私たちは神の国につながる恵みを見出すことができるのです。

5月のおたより

 東北学院土樋キャンパスの一隅に現存する印象的な洋館は、当教会初代仮牧師J.H.デフォレスト宣教師ご一家が住まわれた旧・宣教師館です。1887(明治20)年ごろの建築と言いますから、築120年以上を経ている貴重なものです。戦後ここに住まれた宣教師の名をとって長く “シップル館” と呼ばれてきましたが、昨年3月の登録有形文化財登録に伴い、改めて “デフォレスト館” と名付けられました。

 この建物も東日本大震災で傷み、現在は立ち入り禁止となっています。が、東北学院は保存復元検討委員会を立ち上げられ、先日調査とシンポジウムを開催されました。松本宣郎学長がこのことを当教会の名も挙げて報告され、修復の日をお待ちくださいと呼びかけてくださっていますhttp://www.tohoku-gakuin.ac.jp/president/2014/02/

 楽しみに、その日を待ちたく思います。

 

「思い起こしなさい」

コリントの信徒への手紙 一 11章23~26節
出エジプト記 6章2~8節

 

 24「わたしの記念としてこのように行いなさい」の「記念」の原語 “アナムネーシス” (記憶・想起)は、深さをたたえた言葉です。今日に到るまでユダヤ教は過越祭で出エジプトの出来事を、キリスト教は主の晩餐を、まるでままごとをするかのように繰り返すことを大切にしてきました。それはそこに刻まれた神の救いを思い起こし、追体験するためです。

 通常 “アナムネーシス” は聖餐と結びついた言葉として語られますが、これにとどまらず私たちの信仰に重要なことだと言えるでしょう。震災への取り組みについて県内の公立高校に講演に出かけた庄司宜充牧師(現・西宮公同教会)は生徒から“キリスト教のいいところって何ですか?”と訊ねられたとき、“復活信仰といって思い起こすことを大切にすることです”と答えられたそうです。

 心理療法の一つに“回想法”というものがあることを聞きました。重い認知症の方も、かつての充実した思い出が呼び覚まされるとき、生きる力が回復して来るというのです。私たちは信仰にあって、かつての神の言葉また主イエスのみわざが今を生きる私たちにも与えられることを追体験するのです。

 主はモーセを出エジプトの指導者として遣わされるに際し、5「わたしはイスラエル人のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした」と語られました。人間は限られた存在であるが故、充実の今もさらには思い出もやがては過去へと消えていくことでしょう。でも主なる神は決して忘却されることなく、小さな者をわが民として慈しむとの契約を果たされるのです。“思い起こしなさい、そして私とつながっていなさい”との主の招きは、この主ご自身のみわざによって確かなものとされています。

「わたしを愛しているか」

ヨハネによる福音書 21章15~19節
エレミヤ書 17章9~18節

 

 かつて弟子に召された思い出のガリラヤ湖畔で、ペトロは復活の主から再び召されました。主から三回重ねて問いかけられたことに、ペトロは十字架の前「あなたのためなら命を捨てます」(1337)と言明しながら、三度主を否んだあの出来事(1825~)思い起こしたことでしょう。17「ペトロは…悲しくなった」との記述に、ペトロの痛恨の思いが伝わってきます。

 15「この人たち以上に」と問われても、自らの弱さを思い知ったペトロは15・16・17「あなたは…ご存じです」としか答えるのが精一杯でした(マルコ1429)。

 神の愛にも通じる絶対的な愛を指す言葉で15・16「愛しているか」との問われた主イエスに、ペトロは友愛を示す言葉で言わば15・16“あなたが大好きです”と答えました。三度目の主の問いかけには、ペトロの答と同じ言葉が用いられています。“そうか、私を大好きなのか”、そこから再出発しなさいと主イエスはこのペトロを召し、17「わたしの羊を飼」う務めを託されたのでした。

 B.C.76世紀、激動の時代に召された預言者エレミヤは 8「人の心は…とらえ難く病んでいる」と世とそこに生きる人の罪を見据えつつ、そのすべてを10「究め」ておられる14「あなたがいやし」14「あなたが救ってくださるなら」再出発の希望があるでしょうと祈りました。ペトロも17「何もかもご存じ」の主に召されて、再び従う道を歩み出したのです。