「主と共に、今この道を歩もう」

ヨハネによる福音書 14章1~7節
詩編 86編11~17節

 

 当教会は本日教会定期総会を開き、新たな2014年度に歩み出そうとしています。私たちが歩むべく召され、宣教を委ねられている今は震災発生3年後のなお課題や疲れが重なった時です。この今を、私たちは 6「わたしは道であり、真理であり、命である」との主イエスの言葉を覚えつつ歩を進めていきたく願います。

 6「道」には目的地への経路と、“柔道”“剣道”などの例のように歩むこと自体を指し示す二つの意味があります。主イエスはどのような意味で、こう語られたのでしょう。

 詩編86編でも11「道」と11「まこと」が重ねて語られています。11「まこと」と訳される“エメト”は旧約で重要な語の一つで、“離れることなく、必ず実現するもの”と意味があります。たとえばアブラハムから息子イサクの嫁探しという大役を託されて長い旅に出た僕は、リベカというその人を見出したとき「主の慈しみとまことは…離れ」なかった(創2427)と主に深く感謝したのでした。

 主イエスは愛する者のため悩みある地に降り、十字架の救いを確立されました。それは私たちが主イエスそして主なる神と離れることなく共にあるためでした(3節)。主イエスを通ってどこか祝福の地を目指す以前に、主イエスと共に歩むこの旅路自体に 6「真理」と 6「命」があることを心に留め、私たちに与えられた今を踏んでいきたく思います。“アーメン”との語は“エメト”から来ています。主のまことに自らの思いを重ね合わせ、共々に歩み出すために私たちは祈るのです。

4月のおたより

 イースターを迎え、会堂正面十字架の背後に見える“こぶし”が白い花を咲かせています。この木は、1950(昭和25)年のイースターに受洗者たちが記念に植えたものです。1973(昭和48)年の移転に際して、東三番丁の思い出として現在地に移植されました。主の復活を祝って60年以上咲き続けています。

 さてご報告が遅くなりましたが、当教会は昨年秋、痛んできた屋根の葺き替え工事を行い、クリスマス前に完成しました。これまでの緑色の少しやわらかな印象から、茶色のシックな雰囲気に変わりました。

 なお、北根4丁目からの大通りから教会を目指すのによい目印だったイトキンビルの解体が始まっています。東日本大震災でダメージを受けたことによります。 教会の道案内をするときには、気をつけなければなりません。これからは“北根4丁目の交差点から坂を上り、二つ目の信号を左折、道なりに進んでみえてくる茶色屋根の大きな建物が教会”、ということになります。どうぞよろしく。

 

 

イースター礼拝 「右側に網を打ちなさい」

ヨハネによる福音書 21章1~14節
詩編 121編1~8節

 

 今日開いたヨハネ21章は前章で完結したと思われる福音書に補遺のように続けられており、何故かと不思議に思います。前章には、復活をもって死を打ち破られた主の勝利が記されています。が、その復活はこの私の生にどう関わるのでしょう。そのことがこの21章で指し示されているように思います。

 舞台は都エルサレムから、弟子たちの生活の場であったガリラヤに移動しています。ペトロもトマスも他の弟子たちも喜びの内に復活の主に出会い平和を告げられたはずなのに(202128)、 3「わたしは漁に行く」 3「わたしたちも一緒に行こう」との言葉には落胆や疲れのようなものを感じます。さらに漕ぎ出て漁に向かっても、 3「何もとれなかった」のです。これは生活の中で時に元気を失い、落胆を覚える私たちの姿ではないでしょうか。主に従いゆこうと決意した信仰者も、起伏ある日常を歩む中で時に挫折を経験するのです。

 そこに復活の主はすでにおられました。弟子たちは気づいていませんでしたが、主は彼らの生活の場に来られ、大声で呼びかけられ、具体的な仕方で導かれるのです。主が自ら12「朝の食事」へと誘われたことも印象的です。夜通し働く漁師にとっての朝食は、欠乏を補い再び歩み出すエネルギーを満たす大切なものでした。もはや12「あなたはどなたですか」と問いかけはしなかったというのは、日々の欠乏・疲れ・挫折を復活の主がご存じの上で、その欠けを満たし導かれることを彼らが噛みしめ、心に刻んだということではなかったか、そう思うのです。

「最後の犠牲」

ヨハネによる福音書 18章1~14節
イザヤ書 53章1~5節

 

 主イエス捕縛の場面に現れる14「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だ」との大祭司カイアファの言葉は、もともと1147~で語られたものです。このときユダヤ最高法院において、イエス殺害に向かうべきことが決議されたのでした。さらに遡ると、主イエスを憎む者たちの中での殺意はすでに518の段階で起こっていたことが記されています。ヨハネ福音書は、罪に操られ真理を拒み続ける世に対しての、主イエスの戦いの軌跡とも言えます。

 最高法院は祭司らサドカイ派、律法学者らファリサイ派、長老と呼ばれる有力者たちなど立場の異なるメンバーで構成されていましたが、当時の体制を維持する上で邪魔なイエスを国益のために抹殺することにおいて一致したのでした。

 先月の東日本大震災国際会議(主催:日本基督教団)でなされた姜尚中氏による記念講演のタイトルは、“犠牲のシステムを超えて-ミナマタ・ヒロシマ・フクシマ”でした。多数の利益のために少数者を犠牲として良しとする深い罪を、人間は繰り返してきました。14節のカイアファの言葉はこの深い罪を露わにしたものであると共に、その罪の連鎖から世を救い出すための神の業を指し示したものであったとヨハネ福音書は語ります(1151)。

 主イエスの十字架に私たちは自らにも通じる深い罪を見ると共に、私が最後の犠牲となったのだからあなたたちは再び誤りを犯すことなく命を選びとりなさいとの主の呼びかけを聞くのです(ローマ64)。

「わたしの平和を与える」

ヨハネによる福音書 14章18~31節

エレミヤ書 6章13~15節

 

 十字架の前夜にされたいわゆる訣別説教において、主イエスは27「心を騒がせるな。おびえるな。」と言われました。最大の使命を前にして27「心を騒がせ」ておられたのは主イエスも一緒です(1227)。がその後弟子たちがおびえて逃げ去ってしまったのに対し、主イエスは独り十字架へと進まれたのでした。

 弟子たちの不安は主イエスがどこかへ行ってしまい、独り残されることに起因していました(58節)。私たちも時に思いがけないことが与えられるとは知っていますが、問題は独力で乗り越え得るかどうかわからないことです。

 この弟子たちが、起こり来る困難にももはやおびえることなく進みゆく者とされる時が来ます。それは主イエスの十字架と復活の後、26「聖霊」が分け与えられてのことでした(使徒21~)。

 26「聖霊」は、主イエスを26「ことごとく思い起こさせ」、その臨在を19「見」させるのだと告げられています。弟子たちは、自分たちが決して独りではないことを知ったのです。世の力に屈服せず、なおかつ世を愛し、その救いのために十字架へと進まれた主イエスが今も共におられることを仰いで、弟子たちは歩んだのでした。

 このことを、主イエスは27「私の平和」と呼んでおられます。この平和は代々の信仰者に、そして今を歩む私たちにも分け与えられています。