「私たちの罪の値」

創世記 9章1~17節
マタイによる福音書 27章3~10節

 

  “原子力安全神話に抗して-フクシマからの問いかけ”をテーマに今月1114日に仙台にて開かれた国際会議(主催:日本基督教団)には、海外教会から約70名、国内から約150名が集いました。共同で深められた宣言文案は、人間が神との応答関係(創127)を捨て、賜物を自己利益のために用いていった罪がこのたびの原発事故を生んだと述べ、傲慢・貪欲・偶像礼拝・隠蔽・怠惰・無責任・責任転嫁と陥った7つの罪を指摘しています。様々な論議・主張がある中でも、教会が聖書の視点から意見表明をすることには意味があることを思います。

 ノアの洪水物語は、人間の応答責任を論じているとも言えます。人の悪のゆえに洪水を起こされた神はその後再祝福と再契約を与え、自ら世界を破滅させることは二度としないとの憐れみを与えられました。一方このとき人には、すべての 4「命」を正しく守る責任が委ねられたのでした。命が奪われたならば 5「賠償を要求する」と告げられています。原発事故という罪の値を、私たちは何をもって支払い得るのでしょう。

 3「銀貨30枚」を手に 4「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」とうろたえるユダは、今日の私たちの姿にほかなりません。 4「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」と突き放す祭司長らの言葉は、経済成長を求めてなお核開発に向かおうとする世の言葉のように響きます。ユダの悲劇は罪を自らの手で決着させようとしたことでした。十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ2334)と祈られた主イエスの言葉を私たちは、またこの世界は聞いて、歩み出さねばなりません。

「真の知識を求めて」

詩編 8編1~10節
コロサイの信徒への手紙 2章20節~3章14節

 

 本日午後もたれるLa Mie ・ 最上巌ジョイントコンサート”では、葉祥明さんの絵本『宇宙からの声』が歌声と共に紹介されます。この絵本は、宇宙も地球も人間も動植物も共通する“いのち”で結ばれており、それゆえ私たち人間は地球と他の生物に重大な責任があると語りかけます。

 今からおよそ2500年前に書かれたと思われる詩編8編も、果てしなく広がる 4「天」とこの取るに足りない 4「わたし」とが共に主なる神の 7「御手」とそのご意志(10「御名」)にあって存在していることに感動と畏れを歌っています。そして 6「神に僅かに劣るものとして人を造り…」とは、人が神に応答する責任を帯びていることを指し示した言葉です(創127、コヘレト311)。

 今月1114日にここ仙台にて開かれた国際会議“原子力安全神話に抗して-フクシマからの問いかけ”(主催:日本基督教団)では、このたびの原発事故によって人間の罪が露わにされたとの総括がなされました。宣言文案において、 5「貪欲は偶像礼拝にほかならない」との聖句が挙げられ、原発は経済成長を拝み仕えてきた人間の作り上げた神殿であると述べられています。

 2:20「諸霊」という言葉で、富や性がいかに人間を引きつけ服従させる力を持つかが指し示されています。 2「地上」にはなおこうした力が働いています。しかし2:20「キリストと共に死」に 1「共に復活させられた」信仰者は、“いのち”が神のもとにあることを見るのです。このことを導き養い指し示す10「真の知識」を求めつつ、 2「地上」を歩み行けとこの箇所は語っています。

教会創立127周年記念礼拝 「騶虞は折らず生草の茎」

イザヤ書 42章1~4節
ヨハネによる福音書 2章1~12節

 

 騶虞(すうぐ)とは、聖人の徳に感じて現れるという空想上の動物で、白虎のような猛々しい姿でありながら生き物を襲ったり草さえ踏みつけないという心優しい獣です。新島襄は“騶虞不折生草茎”との李白の詩に 3「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」とのイザヤ書の預言の言葉を重ね合わせ、“小生の心情を貫きたるもの”と書き記しています。

 この預言が語られたのは、イスラエルの民がバビロンの地で捕囚とされていたB.C.6世紀のことです。 3「傷ついた葦」 3「暗くなってゆく灯心」との語は、歴史から消え去りそうな彼ら自身の姿でもありました。そうした中、ペルシアという新たな勢力の勃興に期待を寄せる向きもありましたが、預言者は弱く小さなものをも粗末にすることなく、ついには 3「裁きを導き出して、確かなものとする」主のみわざにこそ目を向けようと語ったのでした。

 その後新約の時代に至り、小さな一人一人に向き合い愛され、十字架によってついには地に救いの道を拓かれた主イエスこそこの預言の実現だと福音書は語りました(マタイ1215~)。

 会衆派教会の伝統は、一人一人がこの主イエスの愛を受け、尊さを分かち合われていることを大切にします。そのことを新島は“小生の心情”と述べたのでした。福音書には、主イエスが人々の小さな働きを用いて大きな祝福を顕わされたことが繰り返し述べられています(ヨハネ21~、61~等)。主の不思議な御手こそが私たちを導かれることに目を向けたく思います。

 騶 虞

3月のおたより

 震災発生より3年を数える3月11日を迎え、仙台では日本キリスト教団主催の記念礼拝が開かれ、続いてもたれた東日本大震災国際会議に参加の海外出席者も含めて、約500名が祈りを合わせました。なお課題続く東北の被災者に主の慰めと導きを求めると共に、原発破綻によって地に決定的な汚染をもたらした私たち人間の罪をおぼえるひとときでもありました。

  さて、この月を覚えて、各地で震災を覚え、被災者を支えるさまざまな集いがもたれています。その一つとして、関西を本拠地に活動されている声楽グループ“La 萠 Mie”の被災地支援コンサートがあります。

  同グループは、2012年より毎年3月に宮城県の仮設住宅や福祉施設などを訪れ、歌声によってみんなを支える働きをプレゼントされてきました。今年も、牡鹿半島・石巻・東松島、そして当教会でコンサートを行われます。その美しい歌声と深く響く歌詞のひとつひとつは、たしかに慰めと励ましを与える力を秘めていると思います。

  当教会のコンサートでは、教会メンバーの最上巌さんも共演されます。きっと豊かなひとときになるでしょう。どうぞ楽しみにおでかけください。

 

La 萠 Mie ・ 最上 巌 ジョイントコンサート

~ 葉 祥明 「宇宙からの声」とともに ~

3月23日(日)13:00~  当教会において  入場無料

東日本大震災3周年を覚えての礼拝 「繰り返し立ち帰るところ」

歴代誌下 6章17~25節
マルコによる福音書 5章18~20節

 

 大震災発生2日後にまもった礼拝も、レント第1主日礼拝でした。礼拝堂のガラスが砕け落ちたため、教育館でまもった礼拝は忘れることができません。集まったのはいつもの約半数の44名でした。連絡のつかない方々のことを思いつつ、祈りを合わせました。あるメンバーは、讃美歌に心が震え、聖餐のパンに涙がこぼれたと回想しておられます。

 今年113日に開かれた教区伝道研修会の場で、講師の越川弘英牧師(同志社大学キリスト教文化センター)は3.11以降礼拝は変わったのか?、と問いかけられました。当教会でなされる祝祷の言葉など、変わったものはあります。でも課題や危機から創造と恵みの神のもとに立ち帰り、励まし支えられて再び歩み出すという礼拝の本質が変わることはありません。当教会出身の長倉望牧師(新潟教会)は震災に向き合いつつ礼拝をまもる中で、“互いの命を喜び合うこと。悲しむ人と共に悲しむこと。隣人のために働くこと。弱さを大切にすること。支えあって生きること。共に祈ること。わたしたちが大切にし、目指してきた‘いつも通り’のことを、より真摯に、より深く、より多くの人たちと共になしていくことを確かめ合うことができました。…教会の歩みはいつの時代にも様々な困難の中を‘いつも通り’に聖書のメッセージに導かれながら、命を守り育て、命を共に生き、命とお別れする時を重ねてきたのです。時に涙し、時に笑いながら、私たちの命に働かれる神さまのみ業を発見し続けてきたのです。”と書いておられます。

 ソロモン王は神殿を奉献したとき、ここは20「御名」が置かれ19「叫びと祈り」が聞き届けられる場所、罪と課題から24「立ち帰って御名をたたえ」る場所だと祈りました。私たちは礼拝へと立ち帰る中で、私たちのために十字架に歩まれ復活を遂げて導かれる主に繰り返し出会い、再びそれぞれの歩みへと派遣されていくのです。

「あなたのフィールドにも」

テトスへの手紙 2章1~15節
創世記 16章6~10節

 

 J.L.フロマートカ(18891969)は、ナチス・ドイツの台頭、第二次世界大戦、社会主義政権樹立と激動の時代にチェコスロバキアに生きた神学者です。“キリストを信じる者こそが、この世界を誰よりもリアルに理解できる”と語り、キリスト教信仰の現実参与の可能性とあり方について掘り下げたその神学の根底には、神が人間となられた受肉の出来事がありました。

 今日開いたテモテ2章にはそれぞれの世代への具体的生活の指示があり、 2・5「分別」6・12「思慮深く」 2・6「品位」といった言葉が繰り返されています。いささか保守的と思われるかもしれませんが、主イエスのすぐの来臨に目を向けていた初代教会も(Ⅰコリント726等)2世紀に入り、課題の山積した日々も主のみ旨に従ってしっかり生きるべく与えられたフィールドであると自覚していったのでした。

 今とは、神の受肉という11「神の恵み」の到来と13「イエス・キリストの栄光の現れ」なる完成の間だと位置づけられています。そこに置かれた信仰者は共におられる主に励まされつつ、かつ完成の希望を13「待ち望」んで今を歩んでいくのです。

 1「ハガル」とは“逃げる”という意味です。つらい現実から逃げ出そうとしたハガルに主は出会われ、あなたの場に帰れと諭されました。ハガルはそこにも主のまなざしと祝福があることに目を開かれ、課題ある自らの生活へと帰っていく励ましを繰り返し頂いたのでした(219~)。この主のまなざしと祝福は、今を生きる私たちとも共にあります。