「そこにも働く神の恵み」

テトスへの手紙 1章10~15節
詩編 11編1~7節

 

 12「クレタ人はいつもうそつき」とは、哲学者エピメニデス(B.C.600年頃?)の言葉です。彼自身がクレタ島の出身ですから、この言葉自体信じてよいのか?、と問題になるのがエピメニデスのパラドックスと言われるものです。それはともかく、彼は残念ながら自らの故郷を愛することができなかったのでした。

 ここではその言葉を引用しつつ、クレタ島がなお環境の悪い場所であることが強調されています。この手紙は、伝道者パウロとその弟子・同労者テトスの名を借りて2世紀初めになって書かれたものと考えられますが、このことも与ってテトスはクレタ島の主教となりこの島で生涯を終えたとの伝説が生まれました。

 513節によると、テトスはあえて環境の悪いこの地に残され困難な働きを課せられたことになります。

 211に「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」とあるように、神の恵みは悪い環境も課題をも乗り越えて救いをもたらすとの確信がこの手紙の背後にあることに目を留めたく思います。いつの時代、どの場所にも人間の罪と課題はあります。そこだけに目を向ければ、世界は15「何一つ清いものはなく…汚れて」いると見えましょうが、その只中に主の十字架が立てられていることを知る者はなおそこに働く愛とそれゆえの15「清」さを見出すのです。

 課題にぶつかる私たちが歩む場にも、主のまなざしと働きが注がれていることを仰ぎつつ、歩を進める者でありたく願います。

2月のおたより

 先週今週と、土日のたびに大雪となっている仙台です。おうちから出られずに礼拝に集えないメンバーもいます。それぞれにまもりを祈ります。そして、仮設住宅などでこの雪のときを過ごしておられる被災地の皆さんに、まもりを祈ります。

 まもなく震災発生より3年を数えようとしています。もう3年か、まだ3年か、さまざまな思いも重なります。

 今年の東日本大震災3周年記念礼拝は、教団主催で行われることになりました。また引き続いて、姜尚中さんによる講演会が開かれます。これは、3月11~14日に開催される「東日本大震災国際会議」のオープニング・プログラムとしてもたれるものですが、どなたも参加できます。特に申し込みもいりません。

 国際会議には海外の教会から約60名・日本の教会から約150名が参加し、「原子力安全神話に抗して-福島からの問いかけ」のテーマのもと話し合い、ステートメントを発表します。意義ある会として整えられ、導かれるよう、祈ります。

 先日は、仙台にて記者会見も行われました。一般紙にてもお知らせや報道がなされるかもしれません。

 

東日本大震災3周年記念礼拝           3月11日(火)14:00~15:30

説 教  :  高橋 和人 牧師 (仙台東六番丁教会)

 記 念 講 演                     3月11日(火)16:00~17:30

姜 尚中 氏  (聖学院大学全学教授・東京大学名誉教授)

 「犠牲のシステムを超えて - ミナマタ・ヒロシマ・フクシマ」

会場はいずれも、東北学院大学土樋キャンパス「ラーハウザー記念礼拝堂」です

 

「耳を傾けるということ」

テモテへの手紙 二 4章1~5節
申命記 12章8~12節

 

 テモテへの手紙が書かれた2世紀初め、教会は多くの異端との戦いを経験しました。 3「自分に都合の良いことを聞こうと」は、直訳すると“耳をくすぐってもらおうとして”です。さまざまな異端の誘いはあろうと、そこにあるのは自己中心を実現しようとする偶像礼拝なのだとその正体を見据え、この箇所は警告を発しています。

 申命記28には、「あなたたちは…それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない」とのモーセによるびっくりするような言葉があります。これは、約束の地に辿り着いたらまず主なる神を礼拝せよ、との文脈の中で語られています。礼拝とは徹頭徹尾、神の言葉を聞くことだとの強い指し示しがここにあるのです。士師記176で「それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」とほぼ同じ言葉で指摘されているのは、偶像を刻んで神殿にまつり、祭司まで立てての私的礼拝の企てでした。“私”に属する礼拝というのは、ありえないのです。

 “悔い改め”と訳されるメタノイアの原意は、向き直ることです。耳をくすぐってもらっても正しい方向へ向き直ることはできません。冒頭で 1「神の御前で」と告げられています。自らに痛いことであっても、すべてを司られる神の語りかけに耳を傾けるときに、私たちは歩む方向を整えられます。 1「その出現とその御国を思いつつ」との言葉は、そこに立って与えられる完成の展望こそ課題ある今を歩み行かせる力の源泉なのだと語りかけているように思います。

2・11「信教の自由を守る日」を迎えるにあたって

2月9日説教要旨にも記したように、

日本キリスト教団東北教区は、このたびメッセージを発表しました。

この場でも、ご紹介します。

 

2・11「信教の自由を守る日」を迎えるにあたって

  東北教区諸教会・伝道所の皆さま

2014年2月9日  

東北教区 常置委員会 ・ 総会議長 

 私たちの主イエス・キリストの恵みと祝福が主にある皆さんの上に、そしてこの東北にある一人ひとりの上にありますように祈ります。

 さて、昨年末から、私たちの国では驚くようなスピードで大変危険なことが起こされています。11月27日国家安全保障会議(日本版NSC)設置、12月5日特定秘密保護法の成立とそれに関わる懲罰の明記、12月23日武器輸出三原則を破り、自衛隊の弾薬を提供、そして、12月26日安倍首相の靖国神社参拝と続きました。私たちはこれからも臆することなく、これらに対し抗議の声を上げ続けていきます。

 安倍首相は今回の「特定秘密保護法」に対し、多くの国民による反対の声を無視し強引な手法で採決しました。その結果支持率が下がり、批判の声が大きくなると、「秘密が際限なく広がる、国民の知る権利が奪われる、通常の生活が脅かされる。そのようなことは断じてありえない」と釈明しました(12/10)。しかし「日の丸・君が代、国旗・国歌法」の時も、時の首相が「それぞれの思想・信条の自由は保障される」と国会答弁しましたが、法成立後、多くの教師が処罰されているのです。

 また、憲法改正に意欲を示しています。たとえば、憲法改正のための自民党草案21条では次のようになっています。「集会、結社、および言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。2.前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」と。これはまさに、「安寧秩序に背かない限り」の“信教の自由”が謳われていた大日本帝国憲法の規定と変わりません。特定秘密保護法と相俟って、国に都合の悪い情報が隠されることを危惧します。このような状況下で、かつてどれだけ多くの人が牢獄に入れられ、獄死されたことでしょう。教会そのものが解散させられたケースさえあることを私たちは忘れません。

 安倍政権はこれから憲法9条を解釈変更によって変質させようとしています。集団的自衛権の行使容認を目論み、すでに内閣法制局長官に行使容認派を起用しています。

 同時にまた、学校教育への政治介入も激しく進められています。教育委員会委員長の権限を自治体の首長に移しての、政治主導の教育行政が目論まれています。道徳教育の強化も進められています。教科書が国定教科書のようになってしまうのではないかと恐れます。歴史の真実は、国によって定められるものではありません。

 私たちはこのような状況の中で、今年の「信教の自由を守る日」を迎えます。暗闇が追い迫るかのような時代ですが、私たちは希望を失いません。闇を照らす光なる主に生かされ導かれているからです。主イエスは暗闇が光を理解しないそのただ中においでになり、世の希望なる十字架を立て、復活を遂げられました。この主に支えられながら、以下のことに努めたいと思います。

 一.私たちは神さまによって自由に生きる者とされています。

特定秘密保護法は、私たちの様々な「知る権利」を奪います。特定の仕事につく人や特別の人たちにだけ影響があるのであって自分たちには無関係、と思っている人がいるかもしれません。しかし、これらのことは私たち一人ひとりの自由に関係してきます。憲法19-21条で保障されている「思想および良心の自由、信教の自由、集会、結社、表現の自由」が脅かされてはなりません。

そして私たちは自由が国によってではなく、神さまから与えられているものであることに目を向けます。

 一.私たちは人間の尊厳を大切にします。  

神さまが私たち一人ひとりに与えてくださっているかけがえのないいのちを脅かされてはなりません。「特定秘密保護法」は私たち一人ひとりのいのちを脅かし、平和に生きる権利を奪います。そのことを今回の原発事故で痛いほど知らされました。いのちに関わる情報が国によって制限されることは許されません。主イエスはガリラヤで弱くされた者や小さくされた人をそのままで受け止め、その神のもとにある尊厳を宣言されました。私たちはこの一人ひとりのいのちと尊厳を大切にします。

一.私たちは神さまからの語りかけに心と耳を傾けます。

特定秘密保護法は私たちが真実を知り、調べ、伝えることを閉ざし、国が都合の良い情報を一方的に流すことに道を開きます。「直ちに健康に害を及ぼすことはありません」と。

私たちは『真実』を知ることが大事であることを身をもって知りました。真実を知っていれば、次の道を選ぶことができ、行動を起こすことができます。だからこそ、私たちは神さまからの語りかけに心と耳を傾けます。

 最後に マルティン・ニーメラーの祈りを紹介します。

「ナチスがコムニスト(共産主義者)を弾圧した時  私は不安に駆られた
 が、私はコムニストではなかったから  何の行動も起こさなかった。
 その秋、ナチスはソシアリスト(社会主義者)を弾圧した  私はさらに不安を感じた
 が、自分はソシアリストでないので  何の抗議もしなかった。
 それからナチスは、学生、新聞、ユダヤ人と順次弾圧の輪を広げていき
 そのたびに不安は増大した  が、それでも私は行動に出なかった。
 ある日、ついにナチスは教会を弾圧してきた
 そして、わたしは牧師だった  だから、行動に立ちあがった
 が、もうその時はすべてが  あまりにも遅すぎた」  

「神の言葉はつながれていない」

テモテへの手紙 二 2章8~13節
イザヤ書 61章1~4節

 

 テモテへの手紙は先生パウロの名を借りて2世紀初めに書かれたものと考えられます。ただ実際パウロは 9「わたしは…犯罪人のように鎖につながれています」とあるように、その宣教活動中繰り返し投獄されたのでした(フィリピ112、使徒2427等)。

 これは、今日にまで至る歴史の中で繰り返されてきたことです。時の権力者たちは神に従う者、正義に生きようとする者を投獄すれば、やがてその声は絶えるだろうと考えたのです。ここで続けて 9「しかし、神の言葉はつながれていません」と告げられているように、従う者を生かし突き動かす 9「神の言葉」は人間の圧迫や思いを越え、進んでいくのです。

 今日配布した東北教区よりのメッセージ“211「信教の自由を守る日」を迎えるにあたって”にも紹介されているM.ニーメラー牧師はナチス・ドイツに抗する告白教会に参加をしたため約8年間強制収容所に囚われますが、その中で守られた礼拝で説教を続けたのでした。これは『されど神の言は繋がれたるにあらず-ダハウ獄窓説教』(新教出版社、1950)として纏められています。

 十字架さえも、主イエスを釘付けたままにはできませんでした。復活を遂げられ今も生きて働く 1「神の霊」こそが私たちを生かし、自由を与え、導いておられることに励まされ、今をなお進み行きましょう。

「受け継いでいくこと」

テモテへの手紙 二 1章3~14節
創世記 28章10~17節

 テモテへの手紙は、伝道者パウロから弟子であり同労者であるテモテへ宛てられたとの体裁をとっており、今日開いた箇所には二人を結んだ信頼の絆が示されています。

 A.D.50年頃、パウロは律法をめぐる問題でエルサレム教会・アンティオキア教会と決裂し、のち個人で伝道活動を展開することになりました。この時協力を申し出、第二・三伝道旅行に同行したのがテモテでした。パウロはどれほど力強かったことでしょう(Ⅰコリント4:17、使徒16:1~)。

 テモテは 5「祖母ロイス」と 5「母エウニケ」、この二人から信仰を継承したのでした。私たちは神のまなざしと 9「招き」、さらには 9「計画と恵み」の内に置かれているとあります。パウロは頼もしい同労者の出現にも神の 9「計画と恵み」があったことを知り、深く感謝しただろうことを思うのです。

 その名のごとく(創25:26)兄を出し抜き、自らの力で人生を切り開いてきたヤコブは、蒔いたものを自ら刈り取るようなかたちで家を出ることになりました。失意の内に旅に出て野宿をしたヤコブは、夢の中で自らが神のまなざしの内に覚えられ、さらには祖父・父の時代からの祝福の系譜の内に置かれていることを知ったのでした。ここから彼は17「恐れおののき」を知り、12「天」を仰ぐ生き方へと徐々に変えられていったのでした。

 当教会第2代片桐清治牧師の子孫は今日第6代にまで至っており、その多くの方々がキリスト者として各地で活躍されています。皆さんが一族の機関誌“ドーシテルノ”と100名規模で集まる“片桐会”でエールを交わし、固く結びあっておられる様子は壮観であり、うらやましくもあります。今秋には仙台で片桐会が計画されており、当教会にもお迎えできることを楽しみにしています。