「たといそうでなくても」

ヘブライ人への手紙 11章32~40節
ダニエル書 3章8~18節

 現在療養中の方お二人から、“病気になるのも、生かされているということだから”“痛いっていうのは生きている証拠”とお聞きし、信仰とは困難を避けることではなく立ち向かう力なのだと改めて思わされました。

 捕囚地バビロンで、バビロニア王にとり立てられた少年ハナンヤ・ミシャエル・アザルヤは、偶像を拝めとの命令を拒んで燃え盛る炉に投げ込まれることになります。このとき三人は、17「私たちの仕えている神は…わたしたちを救い出すことができます。…たといそうでなくても、わたしたちは…あなたの神々に仕え」ません(口語訳)と答えたのでした。

 ヘブライ人への手紙は信仰に生きる意味を語った11章のまとめの部分で、信仰の力で世の諸力に打ち勝った者たちと、信仰のゆえに迫害された者たちを同列に論じます(33~38節)。信仰は38「世」における利益を約束するのではなく、世を超えた約束を示して与えられた生を真実に生きるべく導くのです。

 旧約の信仰の勇者たちを列挙した後に、40「わたしたち」が位置づけられています。勇者も小さな私たちも、主の約束と招きを頂いている点で異なることはないからです。それぞれに与えられた生を信仰にあって進みゆきたく願います。

クリスマス礼拝 「その独り子をお与えになったほどに」

マタイによる福音書 1章18~25節
イザヤ書 43章1~7節

 ヨハネ3:16は、“聖書の中の聖書”とか“小さな聖書”と呼ばれます。それは福音全体を一言で言い表した言葉だからです。今日はその節の一部を説教題としました。

 このヨハネ福音書で「世」とは、罪に支配され繰り返し神の御旨を拒み続けるものとして描かれています(1:10、3:19等)。本当に大切なものに耳をふさぎ目を閉ざして傷つけあっている有り様は、旧約の昔も(イザヤ42:18~)今日も異なるところがありません。その愚かさは、歴史に大きな憂いを招くことになると警告されています(同42:25)。

 御旨を拒み愚かさを重ねる世とそこに生きる者、にも拘らず主はこれをなお 4「値高く、貴」いと言われるのです。 3「代償」を払ってでも 1「贖」うと語られているところに、この言葉の背後に主の強い意志があることがわかります。この主の意思が究極的に実現したのが、クリスマスの出来事でした。神自らが23「我々と共に」あるために、そしてついにはその生命をも注ぎ出すために「世」に来られたのです。

 韓国で生まれたゴスペルソング“君は愛されるために生まれた”は、“永遠の神の愛は、我らの出会いの中で実を結ぶ。君の存在が私には、どれほど大きな喜びでしょう。”と歌います。世と私たちは破れを抱えながらも愛されるべく存在しているとのこの呼びかけに耳を向けてその幸いを受けとめると共に、互いがそうした重さを湛えた一人一人であることに目を向けて歩みたく願います。

「宝の箱を開けて」

マタイによる福音書 2章1~12節
イザヤ書 43章1~7節

 最初のクリスマスの晩、救い主の降誕を礼拝しにやって来たのは羊飼いのほか、 1「占星術の学者たち」だったと福音書は記します。彼らは 2「東方」の異国で 2「ユダヤ人の王」誕生を察知し、11「黄金、乳香、没薬」という貴重な宝物を詰め込んで旅に出たのでした。

 最初、彼らは、当然のように都エルサレムを目指しました。が、そこには権力欲にまみれた傀儡の王がいただけでした。不思議な 9「星」に導かれ、彼らは寒村ベツレヘムの家畜小屋に導かれます。家畜小屋と宝物はひどく不釣り合いでしたが、彼らは10「喜びにあふれ」て11「宝の箱を開け」たのでした。飼い葉桶に生まれられたこの幼子こそ、世界への平和の訪れ(ミカ5:4)であることに目を開かれたからです(12節)。

 B.C.6世紀バビロンで捕囚とされていた民に、預言者はその罪を指弾しつつも(イザヤ42:18~)、しかし主はそうしたあなたをなお 4「値高く、貴」いとして代償を払ってでも贖われると語りました。

 地に平和をもたらずため自ら幼子となって降られたクリスマスこそ、主が11「宝の箱を開け」られた出来事だったのです。羊飼いたちがそうであったように、この主の大いなる業に応えて学者たちはこの大きな喜びにまみえたのでした。

12月のおたより

 ついに大河ドラマ「八重の桜」も最終回を迎えようとしています。新島襄や同志社と関係の深い当教会関係者は1年間興味深く視聴し楽しんできましたが、いまひとつ踏み込みが足りないと思えたこともいくつかありました。

 “ハンサム・ウーマン”八重の人となりはドラマでさまざまに描かれました。この呼び名は、婚約直後に襄がアメリカの恩人ハーディ夫妻に書き送った手紙に由来しています。八重の写真を同封した上で、襄は“Of course she is not handsome at all. But what I know of her is that she is person who does handsome. (もちろん彼女はぜんぜん美人ではありません。しかし、私が彼女について知っているのは、美しい行いをする人だということです。)”と書いたのでした。もちろんこのシーンはドラマに出てきましたが、前半の言葉は省かれていました。綾瀬はるかさんを指して、こうは言えなかったのでしょうね。

 また、晩年の襄が大学設立の思いを演説する場面で、「此の一国の良心とも謂う可き人々を養成せんと欲す」(同志社大学設立の旨意より)との肝心の部分が「精神」に置きかえられていたのは残念でした。

 でもこのドラマを通じて、多くの人が襄や八重を身近に感じることとなったでしょう。そして、彼らを動かし導いていった聖書の福音に目を向けてもらえればと願います。

 そうした思いを込めて、1月12日(日)13:30~、伝道講演会「新島八重ものがたり-わたしらしく生きる-」を開催します。講師の山下智子先生は、大河ドラマ撮影に立ち会ってキリスト教関連の指導を担当してこられました。裏話なども伺えるかもしれません。どうぞお楽しみに、おいでください。

教会ホームページに、詳しいご案内が掲載されています。

1876(明治9)年、結婚した年の襄と八重

「大きな冒険と小さな冒険」

ルカによる福音書 2章8~20節
イザヤ書 8章23節~9章6節

 

  クリスマス案内チラシに、15世紀に今日のベルギーで活躍した画家フーゴー・ファン・デル・グースの“牧者の礼拝”の一部を載せました。大きな絵の中央部だけを拡大したので、みどりご主イエスとマリア・ヨセフ、天使たちと動物たちだけが見えていますが、原画の左側には礼拝に駆けつけた羊飼いたちが小屋に走り込んでくる様子が印象的に描かれています。

  アドベント(待降節)との語は、“何かが起こってくる”とのラテン語アドヴェニーレに由来しています。やはりここから派生した語に、アドベンチャー(冒険)があります。

  考えてみれば、マリア・ヨセフへの突然の受胎告知の受け入れ、身重の状態でのベツレヘムへの二人の旅、星に導かれた学者たちの旅路…と、クリスマスの物語は冒険に彩られています。救い主の誕生を告知されても恐れて動こうとしなかった者が多かった中(18節、マタイ2:3)、立ち上がって家畜小屋へと急いだ羊飼いたちが10「民全体に与えられる大きな喜び」に最初にあずかったことを思います。

  しかしクリスマスの最大の冒険は、地に真の光と恵みをもたらそうとの「主の熱意」(イザヤ9:6)にあって、ついに主ご自身が降誕されたことです(ルカ20:9~)。この主の大きな冒険に動かされ、それぞれの小さな冒険を捧げた者があったことを福音書は告げているのです。天使の10「恐れるな」との言葉は、主の大いなるアクションにあなたも応える者となりなさいと告げています。

「その時を待ち望む」

ルカによる福音書 1章39~45節
イザヤ書 8章16~23節

  

 臨床哲学者の鷲田清一氏(元・大阪大学総長)は著書『「待つ」ということ』(角川選書)で、現代人が “待つ”という生きる上で大切な感覚を失いつつあることを指摘しています。プロジェクト・プログラム・プロダクション(生産)…など、pro(先に・予め)といった接頭語を有した言葉が重用されていることにもすべてが前のめりな今日の有り様が現れているとの指摘には、この課題の根の深さを思わされました。

  今日から始まるアドベント(待降節)は、クリスマスの主の降誕とその主による歴史の完成の二つを待ち望む時です。今日開いたイザヤ8:16~にもあるように、聖書は17「待ち望む」ことの大切さを繰り返し語ります。主こそが歴史の主であり、その前に人間は謙虚であるべきだからです。

  2006年の教育基本法改正で、“(日本国憲法の)理想の実現は…教育の力にまつべきものである”との言葉が削られたことを知りました。日本基督教団は信仰告白・教憲前文・成立の沿革において“主の来たりたもうことを待ち望む”“御霊のたもう一致”と掲げつつも、人間の力による性急な一致を今日求めているのではないかと危惧します。

 主イエスと洗礼者ヨハネをそれぞれお腹に宿したマリアとエリサベトが出会ったとき、41「胎内の子」は踊り、二人は喜びを分かち合いました。わが子を宿したお母さんは、待つことの意味を知っています。この箇所は、主の降誕そして主のわざを待つことの大切さを語りかけているように思います。