「生という賜物、そして捧げもの」

ローマの信徒への手紙 14章7~12節
詩編 40編6~12節

 

 ペストが流行した中世の時代、人々は“メメント・モリ”(死を想え)と言い交わして、日々に向き合っていました。いずれ訪れる葬儀の時について備え、ひいては今を生きることを大切にしたいとの本日のコイノニア会(修養会)の趣旨は大切なことだと言えましょう。

 そうした時代の末期1519年に、宗教改革者M.ルターは『死の準備のための説教』を著しました。この冒頭ではまず、死はこの世のすべてからの別れであり、と同時に神が支配される世界への新たな誕生であると述べられています。興味深いのは、死には恐れ・罪・裁きという3つの仕方で私たちを脅かすけれども、それらをあまり見つめないことが肝要だとルターが次いで語っていることです。それは主イエスの十字架と復活によって「死は勝利にのみ込まれた」(Ⅰコリント15:55)のであって、むしろ死を超える命・恵み・招きがあることにこそ着目すべきだからです。

 私たちに分け与えられた命は、主からの最大の賜物(gabe)です。それをどう生かし形づくっていくかは、私たちの課題・使命(aufgabe)でしょう。そしてこれを捧げものとして主にお返ししていくのが、葬儀のひとときではないでしょうか(詩40:8)。そして死をくぐっても、 8「わたしたちは主のもの」であることは固く動かないことを胸に刻みたく想います。

10月のおたより

 ご承知のとおり、当教会の入口は勝山南公園との間の側道にあって、門の前にお知らせを出しても残念ながらあまり目立ちません。バスが通る広い道に面しては、幼稚園の看板が出ていました。この8月末、この看板を生かして「めぐみの森」活動のお知らせを掲出しました。「教会学校」「親子グループめだか」「こひつじ文庫」「子育てママのつどい・わかぎ」「中高生の会・子羊たちの夕べ」と、それぞれイラストや写真もたのしくアピールしています。隣には、教育館2階スペースで稼動している「食品放射能計測所・いのり」の大きな掲示も出ています。

 “幼稚園はなくなったけど、へぇ~こんなことやってるんだ”と、教会の生きた活動を道行く人に知っていただければと願っています。

 11月10日(日)午後には恒例の教会バザーも行われます。地域の方もおおぜい教会においでになるでしょう。

「神の作品」

エフェソの信徒への手紙 2章1~4節
イザヤ書 46章1~7節

 

 今日開いた10節は、口語訳では「わたしたちは神の作品であって」とあります。「作品」には作り手の思いが込められているのであって、私たちは神の意思・期待を頂いてここにあるのだと呼びかけられているのです。

 イザヤ46章には、人間が神を造ってこれを拝むという偶像崇拝の愚かさが指摘されています。かしづきつつもそこで崇められ求められているのは人間の願望であって、それは自己中心の一変形に過ぎないからです。

 自己中心の生き方は 2「世」の諸力に絡め取られやすく、やがては 2「欲望」に支配されてしまうことが指摘されています(1~3節)。偶像崇拝とは目に見える像を拝むことにとどまらず、人間の願望を崇める過ちを指します。この警告に今日の私たちまた世界はなお耳を傾ける必要があるでしょう。

 豊穣多産を約束する女神アルテミスが崇められていたエフェソで、初代キリスト者たちはわが身に寄せられている真の神のみ旨を尋ね歩む生き方があることを証ししました。本日もボランティアに来られた敬和生が出席しています。この学校でよく語られる“自分探し”とは、神の期待と自らの願いの交わる点を求めることのように思います。

世界聖餐日礼拝 「神の国に生きるリハーサル」

ルカによる福音書 17章11~19節
ハバクク書 3章17~19節

 

 今日は世界聖餐日です。一見ままごとのパン・杯のようであっても、聖餐は主イエスの犠牲によって約束された神の国の喜ばしい祝宴を指し示しています。

 ある礼拝学者が、礼拝とは神がなさったこと、今なさっておられること、そしてやがてなさるすべてのことに連なることであり、神の国を生きるリハーサルだと述べています(J.E.バークハート『礼拝とは何か』)。礼拝において、私たちは神が導かれるドラマの筋書きを発見し、役割を見出し、十二分に演じられるよう切磋琢磨し成長すべく招かれているのです。

 重い皮膚病のゆえにそれぞれの村から追いやられ11「サマリアとガリラヤの間」で共同生活していた十人が主イエスに癒されたとき、神を誉めたたえ主イエスにひれ伏して感謝しに戻ってきたのは一人だけでした。もちろん十人ともが今わが身に与えられた恵みに深く感謝したことでしょう。でもこの一人はのみならず、自らが神の大いなるわざの内に置かれ導かれていることを知ったのです。礼拝において神の国に到るドラマを仰ぐ者は、困難な今をもなお希望をもって歩む力を与えられるでしょう(ハバクク3:17~19)。

 リハーサルとの語には、馬鍬(harrow)で繰り返し土地をならすとの意味があるそうです。毎週の礼拝は、神のみ旨がわが身に根づき育ちゆくためのひとときです。