「偶然ではなく」

エフェソの信徒への手紙 1章3~14節
イザヤ書 46章8~13節

 

 アジア州の首都であったエフェソには、当時の世界七不思議に数えられたアルテミス神殿がありました。これは豊穣多産を約束する神として崇拝されており、かつてこの地に伝道したパウロはこの神殿を冒涜するものとして大勢から糾弾されたのでした(使徒19:21~)。どの時代にも、繁栄の誘惑は人の心をつかみ時代を支配しようとします。

 パウロの事件からおよそ40~50年後に書かれたエフェソの信徒への手紙は、ここで 4「天地創造」から10「時が満ちるに及」ぶまでの遠大な神の歴史を提示し、その中に 3「わたしたち」を位置づけます。私たちはただ偶然に今を生きているのではなく神の 4「愛」 4「選び」 9「計画」の中に置かれているとのこのメッセージは、私たちの今に歩む基盤と方向を指し示すものです。一方、アルテミス神殿は3世紀に破壊され、やがて忘れられていったのでした。

 箴言29:18には「幻がなければ民は堕落する」との有名な言葉があります。今日の世界は理想や目標を失い、つかの間の豊かさという偶像に捕らわれてはいないでしょうか。私たちの今には 7「神の豊かな恵み」があり、その恵みにどう応答するのか(12・14節)との問いがあると告げられています。み旨を訊ね、希望を目指す歩みへと向かっていきたく思います。

 

「キリストの平和が」

コロサイの信徒への手紙 3章12~17節
イザヤ書 26章7~13節

 

 11「ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別」との語は、1世紀当時に人々を隔てていた民族・習俗・階級さらには蔑視の現実を示しています。福音にあってこれらを乗り越えていこうとの試みは内外の価値観との衝突、さらには自らをも縛ろうとする罪の諸力との戦いをも意味していました(3~10節)。

 こうした戦いを踏まえ、著者は15「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」と語ります。今日併せて開いたイザヤ26章に現れる11「敵対する者に向けられるあなたの火が彼らを焼き尽くしますように」といった言葉に、私たちは当惑します。が、11「敵対する者」とは自らの内にも立ち現れる罪の諸力を指しているとも読み得るのではないでしょうか。神13「以外の支配者がわれらを支配」する事態は、私たちの内外にも繰り返し現れるのです。

 主イエスはある時、悪霊を追い出しても空き家とするならばより強力な悪霊が舞い戻ってくるだろうとの譬話を語られました(マタイ12:43)。むしろ神の霊に満たされて歩み出すことが必要です(使徒2:4)。そのためには16「…互いに教え、諭し合い、…神をほめたたえ」る礼拝にあって、また他者に開かれ共に生きる生活にあって(12節)古きを砕かれ新しい自らに導かれることが大切だと今日の箇所は教えています。

9月のおたより  「いのり」と「いずみ」

 福島第一原子力発電所の事故を受けて、仙台キリスト教連合被災支援ネットワーク「東北HELP」により設置された食品放射能計測所「いのり」は、“不安な気持ちに寄り添う”ことを目指して2011年12月より教区センターエマオのテナント内でその働きを始めました。この働きは国内外の献金によって支えられており、誰もが無料で計測サービスを受けることができます。この計測所が、この7月より当教会内の一室に移転してきました。あってほしくはないのですが健康被害が危惧される中、賃貸料を節約して一日でも長く働きを続けるためです(働きについて詳しくは、http://www.foodbq.com/をご覧ください)。

 加えてこの10月、東北教区による放射能問題支援対策室「いずみ」が働きを始めようとしています。この「対策室」は、1. 放射能で苦しむ方たちへの訪問と傾聴、2. こども保養プロジェクトの推進、3. 医師による健康相談と検診、4.緊急時対策、情報の発信、講演会など、といった働きを推進します。事務所は教区センターエマオ別館マギーハウス内に置かれます(サイトは準備中)。

 「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」。アモス書5:24の言葉です。「いのり」も「いずみ」も、悩みある今に安心を祈り求めていく具体的な働きとして、主に人々に豊かに用いられることを願います。

鳴子教会員でいらした富田二郎兄

(1916-2011)による揮毫です。

「わたしたちのためにも祈ってください」

コロサイの信徒への手紙 4章2~9節
詩編122編1~9節

 

 コロサイの信徒への手紙は、発信人としてパウロとテモテの名があるものの(1:1)、パウロの死後10~20年後位に彼らの働きを継承する者によって記されたものと考えられています。

 一方、 9「オネシモ」の名はパウロが書いたフィレモンへの手紙に「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」として現れます(同10節)。その名は “役に立つ者”という意味でありながら何らかの不始末をしでかして主人のもとから逃げてきていた彼を送り帰すにあたって、パウロはこの手紙を書いたのでした。「もはや奴隷としてではなく…愛する兄弟として」受け入れてほしいとのパウロの願い(同16節)が、コロサイ教会でこのように実現していることを今日の箇所から知ることができます(3:11)。

 先週も見たように奴隷・自由人の別、ユダヤ人・異邦人の対立などさまざまな障壁があった当時に、 3「わたしたちのためにも祈ってください」と語られている意味を思います。これは自らの足りなさを自覚すると共に、そのありのままを受け入れられた者として共に主の恵みの前に立ちうるとの告白の言葉でもあるからです。“役に立つ”ことではなく、主に受け入れられ愛されていることこそ私たちの拠って立つ基礎だとの価値観の変化がオネシモに、フィレモンに、そして教会の仲間たちに、福音から与えられたのでした。

「世界中至るところで、あなたがたのところでも」

コロサイの信徒への手紙 1章5~20節
詩編 33編1~22節

 

 8月15日に東京に行った際、靖国神社に立ち寄ってきました。大勢の人々の中でも、若い世代の姿が目立ちました。同神社は日本のために命を捧げた“英霊”とされる軍人・軍属などの限られた者を祀る施設です。様々なものが揺らぐ不安な時代、狭い世界に身を置くことが自己確認の手段となっているのではないかとの危惧を覚えます。

 今日開いたコロサイの信徒への手紙は、伝道者パウロの流れに立つ者によってA.D.80年頃書かれたと考えられます。当時の地中海世界にもユダヤ人・異邦人の対立、自由人・奴隷の別など、人々を隔てる障壁は多くありました(3:11)。そうした中この手紙は、 5「福音という真理の言葉」は 6「世界中至るところで…あなたがたのところでも」隔てなく 6「実を結んで成長して」ゆくと告げるのです。広い地平へと人々を導き出すこの言葉は、キリストの十字架こそ全世界に和解をもたらすものだとの確信から出ています(20節)。

 昔も今も、世界には多くの課題があります(3:18~、4:3等)。しかし求められているのは狭い世界に閉じこもることではなく、主のみ旨に支えられ導かれ、それらに相対してひとつひとつを変えていくことであり、忍耐また労苦にも尊い意味があることをこの手紙は語っています(11・29節)。