8月のおたより

 当教会付属の「仙台めぐみ幼稚園」は、2011年3月末をもって37年間の働きを閉じましたが、教会の親子の活動は「めぐみの森」活動として継続されています。

 教会学校(日曜9:00~)、中高生の会(最終土曜18:00~)、こひつじ文庫(月曜15:30~)、親子グループめだか(月2回程度、月曜10:00~)、子育てママの集いわかぎ(月1回、火曜10:00~)といったそれぞれの働きがつながって、森のような豊かな場になることを願っています。

 このめぐみの森全体の「おたのしみ会」が31日(土)14:30~16:00に、教会で開かれます。わたあめ・ポップコーン・ヨーヨー釣り・工作コーナー・めぐみ劇場など楽しいコーナーが用意され、100円のチケットで全コーナーをまわることができます。昨年は、70名以上の親子が集まりました。3年目の今年、100名をこえるみんながあつまってくれたらいいなとスタッフは準備を進めています。

 どなたもおいでいただけます。子どもたちに声をかけて、おいでになりませんか。楽しみにお待ちします。

 教会ホームページに、詳しいご案内が掲載されています。

「焼いた魚」

ルカによる福音書 24章36~49節
創世記 1章27~31節

 

 今日の説教題に違和感を覚えられた方もあるかもしれません。でも、聖書中こことヨハネ21:9の主イエスの復活の場面にしか出てこない42「焼いた魚」にもメッセージが込められています。それは、主イエスが39「亡霊」などではなく、39「肉も骨も」も具えた完全な身体をもって復活されたことです。

 ギリシャ思想において身体とは、不滅なる霊魂を閉じ込める価値低いものでした。一方、新約聖書は罪に支配された身体は朽ちるよりないものとしながらも(Ⅰコリント15:50等)、キリストの罪の贖いと復活に与った身体は神の栄光を顕すことができると語るのです(同6:13~20等)。

 主イエスは傷ついた者に触れ、その悲しみに涙し、共に食べるためにその身体を用いられ、ついにはその肉と血によって私たちの贖いを成し遂げられました。神と隣人への愛のためにその身体を用いて神の栄光を顕された主は、従う道へと私たちを召しておられるのです。

 42「焼いた魚」は、この主の復活の勝利とその贖いを告げるものでした。いっぽう笑いと喜びではなく疑いをもってしか物を食せない時代を来たらせるとは、私たちは何ということをしてしまったのでしょう。罪の身体を贖われた主イエスの救いが、この世界をも罪から救い出してくださることを求めるばかりです。

平和主日礼拝 「あなたがたは地の塩である」

マタイによる福音書 5章13~16節
詩編 107編33~38節

 

 その言葉に慰めと希望を求めて集まってきた群衆に、主イエスは13「あなたがたは地の塩である」と語られました。“塩になれ”“塩を持て”ではなく、13「地の塩である」と言い切られていることを心に留めたく思います。塩はありふれたものでありながら、欠かすことのできないものです。この言葉を通して主イエスは、取るに足りない小さな者も互いに欠くべからざる役割を与えられた一人一人であることを示されたのです。

 続く13「だが、塩に塩気がなくなれば…」との言葉の重さが伝わってきます。それぞれに与えられた役割を忘れて周りに同化してしまうとき、13「もはや…投げ捨てられ」るよりないのです。無責任・無関心なあり方が罪の力に侵食され、やがてこれと一体となって悪魔的な力を発揮することは、聖書にも(27:23)歴史にも示されている通りです。

 ヘブル語で平和を意味する語“シャローム”は平穏無事に留まらず、神の祝福に満たされた豊かな世のあり様を指します。課題多く混迷する今日にあっても、平和は世の原初また目標において指し示されたものであることを胸に刻み(創1:31、マタイ6:33)、与えられた今に役割を果たして行きたく願います。それは、平和の祝福を食い破ろうとする罪の力とのねばり強い戦いをも意味しています。