「助けと希望は、主の御名にある」

使徒言行録 3章1~10節
詩編 20編1~10節

 

 聖霊降臨にあって不思議な力を頂いた弟子たちは、扉を開け放ち、主イエスとその仲間への敵意が残る町へと大胆に踏み出しました。神殿で足の不自由な男に出会ったペトロとヨハネは、 4「わたしたちを見なさい」と呼びかけます。しかし、期待した彼に次いで与えられたのは、 6「わたしには金や銀はない」という肩透かしのような言葉でした。聖霊降臨にあって彼らが確信したのは、自らに特別な力はないことであり(12節)、でもその小さな者も 6「イエス・キリストの名」を信じて呼ぶことができるという恵みでした。

 詩編20編は、10「王」のための祈りの歌です。 7「油注がれ」て特別に聖別された王も人間である以上、 2「苦難の日」に出会うのです。でも私たちは小さな者に向き合ってくださる 8「我らの神、主の御名」を呼ぶことができ、この幸いこそが私たちを課題ある今に立たせるのだと歌われています。

 震災発生2年余を経て、目に見えるものは種々回復されつつも、その打撃は疲れや課題として内側に折り重なっていることを思います。それが東北の今日またこれからのあり様であり、その中を私たちも歩んでいきます。今、私たちはそうした民に向き合われ、自らその課題の中を歩まれる 8「我らの神、主の御名」から希望と力を分け与えられたく願います。この箇所8節は2013年度宣教活動計画案の聖書箇所、説教題は主題です。

4月のおたより

 先月、皆さんに週報をお送りしたその翌日、教会員のK姉が急逝されました。前日、朝の教会学校から主日礼拝、お昼の離仙者を送る会、夕の南地区礼拝と快活にお過ごしでしたのに、翌朝眠ったまま天に召されました。あまりに突然で、お若い召天に、教会のみんなはひと月経った今も落胆をかかえています。ましてやご家族のご心痛を思います。主の慰めと支えとを求めます。

 総会資料にも記しましたが、震災発生2年余を経て、皆の中に疲れやダメージがたまっているのではないでしょうか。それはこれからも続く東北全体の課題です。私たちは自分たちの力だけでこれを乗り越えることはできないでしょう。十字架で私たちの弱さ・破れを担われ、復活を遂げて私たちを希望へと導いてくださる主イエスを仰ぎ、励ましと平和を分け与えられたい、そう願います。

 

 さて、ふたつの旅のお知らせをします。

 四季の会は、5月10~11日(金~土)震災被災地である石巻・女川・雄勝を巡る「5月の旅」を実施します。教会まで、お申し込みをお待ちします。

 また会衆派教会の交流団体である同信伝道会は、7月5~6日(金~土)に大河ドラマ“八重の桜”の舞台、会津若松を辿る「新島襄・八重の桜ツアー」を実施します。東北から関西の関係教会から120名が集まって学ぶと共に、主にある交わりを深めようとの企画です。詳しくは、当教会までお問い合わせ下さい。

「忍耐によって、命をかち取りなさい」

ルカによる福音書 21章5~19節
マラキ書 3章19~24節

 

 エルサレム神殿の建築に見とれている人々に、主イエスは立派な建物もやがて潰え去るのだと警告されました。すると人々は 7「そのことはいつ起こるのですか」と慌てて訊ねたのでした。人の目の焦点はいつも“今”に向けられて、起こり来ることに翻弄され、一喜一憂するのです。それは昔も今も同様です。

 主イエスはさらに、 9「戦争や暴動」11「地震」11「飢饉や疫病」また12「迫害」といった困難が起こり来るかもしれない、でも 8「惑わされ」るな、 9「おびえてはならない」と言われるのです。でもどうしたら、そのように強くしっかり立ち続けることができるというのでしょう。

 それは 9「世の終わり」を見据えることだと教えられています。19「忍耐」とはそこに立ちとどまることを意味します。困難や課題ある今もその歴史の完成(27節)へと基礎づけられていることを銘記するとき、あなたがたはなおしっかり立ち続けることができ、やがては19「命をかち取」るだろうと語られています。

 紀元前5世紀に活動した預言者マラキは、現実に揺り動かされている人々に救いの原点である22「モーセの教え」と主がすべてを完成される19「その日」を見つめよと告げました。その後の新約の時代を与えられた私たちは、主イエスの出来事を心に刻み、歴史は希望へと導かれる主の御手の内にあることを仰ぎつつ今を歩んでいきたく思います。

「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」

ルカによる福音書 20章45節~21章4節
コヘレトの言葉 11章1節

 

 1「献金」と聞くと、子どもの頃お世話になった榎本栄次先生(現・世光教会牧師)を思い出します。先生は初めて教会に行って献金した時、“10円捧げてこんなに面白いのなら、人生全部捧げたらどんだけ面白いんだろう”と思ったといいます。その思いのように、先生はその後歩みと働きをまるごと神さまに捧げて今日に到っておられます。またそのような先生が、豊かな生を歩んでおられるように見えることも不思議です。

 2「レプトン銅貨二枚」を捧げたやもめのお話は、そのことを告げているように思います。 4「生活費全部を入れた」ことに悲壮感を見るのではなく、むしろ神への大きな信頼とそこに与えられる平安を読み取りたく思います。他者は気づかなくとも、主イエスのまなざしはそのことを捉えていました。

 併せ開いた旧約に 1「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」とあります。 1「パン」とは持ち物であり、働きであり、人生の日々のことでしょう。“俺のもの”と抱え込むことから解放されて、神また他者に委ね捧げたものは無駄にはならず、やがてその不思議な実りをあなたは目にするだろうと語られています。主のまなざしにあって富む者は、幸いです。

「神によって生きている」

ルカによる福音書 20章27~40節
出エジプト記 3章7~15節

 

 ルカ福音書を順に辿り現在は主イエスの受難物語を読んでいますが、イースター翌週の今日、折りしも主イエスが復活について語っておられる箇所を開きました。

 ここで主イエスは、神が37「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と自らを顕されたこと(出エジプト3:1~)を指し示しておられます。モーセにとって、アブラハムもイサクもヤコブも皆過去の故人です。がこのとき、神の召しに行き先を知らないで旅立ったアブラハムが(創世記12:1~)、約束の地への定着を目指して井戸を掘り続けたイサクが(同26;15~)、兄エサウとの和解という人生最大の課題を前に神と格闘したヤコブが(同32:23~)モーセの中で甦り、彼を出エジプトの指導者という大きな使命へと押し出していったのでした。

 神殿の祭司ら特権層から成る27「サドカイ派」はユダヤ最高法院の多数派も占めており、現状維持を良しとしたグループです。このとき彼らが発した問いにも、その現実主義がよく現れています。

 38「すべての人は、神によって生きている」と、主は教えられました。思い違いをしてはいけません。私たちの願望の先に神がおられるのではなく、現実は未来を規定できないのです。すべてに先んじて「わたしはある」(出エジプト3:14)と宣言される方にあって、私たちの今も未来もがあるのです。そして主イエスのみわざによって破れある私たちが36「神の子」とされている、そこに私たちの復活の希望があります。