2月のおたより

 例年より雪の多い仙台です。また晴れた日はかえって冷え込むことが多いようです。

 まもなく東日本大震災発生より2年を迎えようとしています。仮設住宅で、応急修理のおうちでこの冬を過ごしておられる方々がまもられ、支えられるように祈りをあわせます。教区の被災者支援センターからも、雪が降ると関わりのある仮設住宅に雪かきに出かけています。

 当教会で3月10日は、「東日本大震災2周年を覚えての礼拝」として、この日は教育館で礼拝をまもります。2年前大きな揺れで礼拝堂正面のガラスが砕け、しばらく教育館で礼拝したことを思い起こしてのことです。

 この日、T君が洗礼を受けられます。震災発生時、彼はしばらく考えたのち決心をし、大学を1年間休学して被災者支援センタースタッフとして働かれました。そしてこれからも主イエスに従いゆく決意を言いあらわす受洗のときは、このときがふさわしいだろうと震災記念の礼拝を選ばれました。

 これは偶然なのですが、支援センターで働いた若者ということで声がかかり、キリスト教紙「こころの友」のインタビューを受けられたのだそうです。3月に発行されます。グッドタイミングの受洗記念ですね!。

 この冬のとき、それぞれにまもりをお祈りします。お元気でお過ごしください。

「真に権威あるもの」

ルカによる福音書 20章1~8節
イザヤ書 9章5~6節

 

 祭司長・律法学者・長老たちは、エルサレム神殿の境内で多くの民衆に教えておられた主イエスに対し、 2「何の権威でこのようなことをしているのか」と問いました。彼らはユダヤ教・社会の指導者としてそれぞれ選任を受けた者たちであり、それに比してお前は何だと詰問したのです。が、主イエスの反問に対し人間的な打算しかできず、彼らの 2「権威」はたちまち色あせたのでした。

 2「権威」との原語は、面白いことに“自由”と訳すこともできます。H.C.アンデルセンの“裸の王様”では、王様も家来も人々も体面を気にして口をつぐむ中、真実の口火を切ったのは子どもでした。主イエスの権威は、まったくの自由から、世と生きる者を愛するがゆえに自ら十字架へと歩まれたことに示されています(22:39~、フィリピ2:6~)。でもその主の権威は、人々にもまた弟子たちにもこのとき見えていませんでした。

 私たちは何を信頼し、何を尊いこととして歩むのでしょう。主イエスは「人の命は財産によってどうすることもできない」(12:15)と教えられました。命の重さは、財産や地位によって計ることはできず、また能力や評価によっても計り得ません。神から与えられた命はそれ自らが重さを湛えており、主イエスは人々の命のあるべき祝福のために、十字架へと進まれたのです。

「あなたの宝はどこに」

ルカによる福音書 12章29~34節
申命記 29章9~18節

 

 1999年、オランダに100カ国余からの約1万人が集まって開かれたハーグ世界市民平和会議は、“公正な世界秩序のための基本十原則”を採択しました。その第1項目目は、“日本の憲法九条を見習い、各国議会は自国政府に戦争をさせないための決議をすべき”というものです。憲法九条は全世界の大切な財産だと認識されたのでした。でも当の日本で、この九条を含む憲法を改変しようとの動きが強まっています。

 先月13日・20日と開いた旧約聖書を、今日も開きました。18「わたしは自分のかたくなな思いに従っても、大丈夫だ」と驕るなとの警告があります。イスラエルの民は出エジプトの旅において、さらには亡国と捕囚を招いた分裂王国時代と、2度過ちを重ねてきました。この警告の言葉は、もはや3度目はあってはならないと告げるものです。1986年重大な原発事故が発生したチェルノブイリとは17「苦よもぎ」という意味であり、それが驕りの象徴としてここに記されていることは示唆的です。チェルノブイリ・フクシマに続く、3度目を招くようなことはあってはならないのです。

 「命と幸い」「死と災い」(30:15)のどちらを選ぶのかとのこの問いは、詰まるところ私たちが何を宝とするのかを問いかけています。主イエスは34「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もある」と語られ、目先の欲望を廃して31「神の国を求め」33「尽きるのことのない富を天に積む」ことを教えられました。明日は、平和への働きを心に刻む“信教の自由”を守る日です。

「祈りの家でなければ」

ルカによる福音書 19章41~48節
歴代誌下 6章18~23節

 

 エルサレム神殿はまずB.C.10世紀にソロモン王によって建てられました。間口約10m・奥行き約30m・高さ約15mに及ぶ、壮麗な石造建築でした。が、その奉献に際しソロモンは、神殿が神の家足りえないと祈りました(18節)。では神殿とは何なのか。それは主の御名が置かれた所(20節)であり、神への19「叫びと祈り」が捧げられるところだと彼は語っています。

 都エルサレムに入られた主イエスはまず神殿の境内に入られ、46「わたしの家は、祈りの家でなければならない」との声と共に、賽銭用貨幣の両替屋や犠牲の動物を売る商人たちを追い出されたのでした。なぜこんな激しい実力行使が必要だったのでしょう。

 それは、ソロモンが祈った19「叫びと祈り」との言葉に指し示されているように思います。この言葉も激しさを含んでいることを思いますが、昨年の大震災をくぐった私たちはその言葉の意味と重さがわかることでしょう。拠るべき様々なものを失ってもはや叫び、祈らざるを得ないそうした思いがないがしろにされてはなりません。でもまだ2年にならないのに、日本では原発の再稼動が始まり、経済成長が最重要な課題だと語られています。46「祈りの家」を確保せよとの主の憤りは、今日の私たちにも向けられているのではないでしょうか。

 教会は神殿ではありませんが、主の御名が置かれた所に違いありません。この主の言葉を内に刻みつつ、歩みを進めていきましょう。