「あなたの救いを見た」

ルカによる福音書 2章22~35節
イザヤ書 49章13~16節

 

 ユダヤ人には、生後40日の子を主に奉献するしきたりがありました。この日、両親ヨセフとマリアに連れてこられたイエスに出会った老人シメオンはこの幼子こそ救い主であることを悟り、幼子を抱いて31「万民のために整えてくださった救い」に感謝したのでした。エルサレム神殿では毎日こうした奉献の光景があったであろう中、幼子イエスを見逃さなかったのは不思議なことでした。そこには26「聖霊」の導きがあったに違いありませんが、加えて彼が慰めの到来を25「待ち望」んでいたことが与っているのではないでしょうか。

 B.C.6世紀、都エルサレムの荒廃に人々が14「主はわたしを見捨てられた」と嘆いたとき、預言者第三イザヤは13「主は御自分の民を慰め」てくださる祝福の光景を語りました。都の荒廃は主を忘れた民の罪が招いたものでしたが、母がわが子を慈しむその愛をもって(15節)神が必ず罪を赦し回復を与えてくださることを仰いだのです。

 シメオンが生きてきたのは、ヘロデ大王がローマ帝国の力を借りて王朝を築いた血なまぐさい時代でした。ですが彼は過去にではなく、将来に約束された希望に眼差しを注いでいました。その眼差しゆえに彼は救い主を見出し、晩年になお希望を歌い得たことを思います。来たる新しい年にも多くの課題が横たわっているのが見えます。と共に、そうした世界の中に主が降り立たれ、救いと完成の約束が与えられていることに目を向けて歩みたく思います。

クリスマス礼拝 「さあ、ベツレヘムに行こう」

ルカによる福音書 2章8~20節

イザヤ書 42章1~9節

 

 サイモン&ガーファンクルに“7 O’Clock News / Silent Night”(1966)という曲があります。公民権運動の行き詰まり・訃報・殺人事件・ベトナム戦争の継続…を告げる夜7時のニュースが聞こえる中、二人がきよしこの夜を歌うというだけの曲ながら、多くの課題がある今この時にもクリスマスは訪れるとの強いメッセージが感じられます。

 主が降誕された夜、天使が語った10「恐れるな…民全体に与えられる大きな喜びを告げる」との言葉は羊飼いたちのみならず、福音書を開いたすべての人に向けられたものです。このとき天使は11「救い主がお生まれになった」と過去形で、また12「あなたがたは…乳飲み子を見つけるであろう」と未来形で語りました。誰もが過去と未来の間を生きています。そして神があなたのそばにおいでになったとの10「大きな喜び」は、今あなたの許に届いたと告げられているのです。

 羊飼いたちは、15「さあ、ベツレヘムへ行こう」とすぐさま立ち上がりました。そして12「飼い葉桶」に寝かされている乳飲み子イエスに出会い、この救い主が自分たちのために来られたことを確信しました。何故なら家畜小屋は、粗野で不潔だと日頃疎んじられている羊飼いたちも心置きなく入っていける場所だったからです。彼らは再び課題ある日々の生活へと20「帰って行」きましたが、救い主が来て下さったとの喜びを彼らは携えていました。

 この2012年にも主は来たり給う、との告知が響いています。羊飼いのように私たちも主にまみえ喜びを分かつべく、立って出発するものでありたく願います。

「良い知らせを伝える者の足」

イザヤ書 52章7~10節
マルコによる福音書 1章35~39節

 

 イザヤ52:7~は、B.C.6世紀バビロン捕囚から人々がエルサレムに帰還した時のことを描いています。戦後約50年を経ても、新バビロニア帝国に破壊された都エルサレムは 9「廃墟」のままでした。その中で耐え忍んできた人々はある日“捕われていた同胞が主に導かれてついに帰ってくる”との 7「良い知らせ」を聞き、大いに沸き立ちました。一方ついに故国の土を踏んだ帰還民は、その荒廃のありさまに声を失ったのでした。

 7「平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ」る 8「声」ではなく、なぜそれを 7「伝える者の足」が 7「美しい」と語られているのでしょう。サンダル履きで当時の道を踏みしめ 7「山々を行き巡」ったその 7「足」はひどく汚れ、傷ついていたはずです。でも汚れて血が流れようとも、困難の中を歩む者に 7「良い知らせ」を告げ知らせようと走り続けるこの 7「足」こそ美しいと預言者は語ったのです。

 神の国の宣教を始められて間もなく、祈っておられた主イエスは38「そのためにわたしは出て来たの」だとの声と共に、待っている人々の只中へと歩み出されたとあります。主ご自身が 7「平和」 7「恵み」 7「救い」を告げるために悩みあるこの世界に降られ、その実現のために地を 7「行き巡」られた方でした。この主は、従って歩んだ者の汚れた足を慈しまれた方でもありました(ヨハネ13:1~)。今日も困難ある地には、生ける主の足跡があるのではないでしょうか。そして、従って歩む者の足を主は祝され喜ばれることを思います。

12月のおたより

 ついにストーブに火が入るようになった仙台です。季節の変化に体調を崩しておられる方も多いようです。主のまもりをお祈りします。

 さて11月第2日曜は合同収穫感謝礼拝、午後は恒例のバザーです。おとなも子どもも一緒に礼拝をまもり、こども祝福をうけた子たちはチョコレートのアドベント・カレンダーを頂きました。午後のバザーは曇り空でしたが、例年のように多くの方がつどってくださいました。

 昨年度から「つながる広場合唱団」が編成され、バザーの中で発表をしています。教会から、地域から、関係の合唱グループから、子ども・おとな取り混ぜて30数名が集まりました。指導と指揮はI兄、よくわかる的確な指示でみんなをひっぱってくれます。毎年1曲は大曲が選ばれます。昨年は「大地讃唱」、今年は知る人ぞ知る“合唱組曲・筑後川”から「河口」、練習が足りないメンバーは四苦八苦ですが、それだけに歌い終わったときの喜びもひとしおです。また今年は震災を覚えて、復興支援ソング「花は咲く」も歌われました。発表は計5曲、皆さんの拍手をいただいて楽しく終えました。来年は、聞きににいらっしゃいませんか?。

「倒された木から生え出る希望」

イザヤ書 11章1~10節
使徒言行録 8章26~40節

 

 クリスマスの讃美歌248番は、今日開いたイザヤ11:1~の箇所を歌っています。 1「エッサイ」はダビデ王の父ですから 1「その根からひとつの若枝が育ち」とは、ダビデ王朝の末裔から救い主が出るということです。新約の当時、人々の間にはそうした待望がありましたし、福音書も主イエス誕生においてこれが成就したのだと語っています(マタイ1:17・20等)。

 但しこの 1「株」は私たちがイメージする切り株ではなく、完膚なきまでに「断ち」「切り倒され」(10:34)生気をなくした根を指しています。ですからこの箇所は、もはや見向きもされず踏みつけられた痛々しい根から 1「若枝が育ち」平和と共存が実った、との驚きを語っているのです。

 使徒8:28~に、道を求めていたエチオピアの高官にフィリポが出会い導いた話があります。この時 2「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のようにこの人は…育った」と始まるイザヤ53章を読んで戸惑っていた高官に、フィリポはこのように受難に進まれた主イエスこそ救い主であると解き明かしました。大迫害が起こってエルサレムから散らされていった者の一人フィリポによって(8:1)、外国に35「福音」の39「喜び」が告げ知らされたこともまた不思議なことでした。

 “散らされた”とは、震災以降の東北の姿でもあります。でも主は、切り倒され踏みつけられ散らされたあり様から新しい希望を生え出させられる、そのみ業を仰ぎたく思います。

「あなたを贖い出すために」

テトスへの手紙 2章11~15節
イザヤ書 44章21~23節

 

 今日から始まるアドベント(待降節)は、クリスマスの主の降誕とその主による歴史の完成の二つを待ち望む備えの時です。今日の聖書は、私たちが11「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」である主イエスの降誕と13「イエス・キリストの栄光の現れ」なる完成の間に生きていることを明快に語っています。その上で12「この世」にはなお悩みや課題があるけれども、あなたはそこから14「贖い出」されて神のものとされたのだから、希望を持ってしっかりと歩みなさいと勧められています。

 14「贖い」とは、身代金を払って捕虜や奴隷を解放することです。B.C.6世紀の預言者第二イザヤは、主はご自分の民とされたイスラエルを必ずバビロンの捕囚から22「贖」い出されると語りました。それはペルシャの王28「キュロス」が新バビロニア帝国を打ち破ったことによって実現しましたが、そうした政治的解放だけでは足りないことを預言者は察知していました。そして語られたのが、自らの苦難の死を償いの献げ物として人々を罪から解放する僕の歌でした(イザヤ53章)。そして主イエスの降誕、十字架と復活によってこの贖いは成就し、かつ11「すべての人々に」開かれたのです。

 初期会衆派教会の指導者R.ブラウンは、キリストにより神のものへと贖い出された私たちは、感謝をもって神に対する責任を自覚した契約に参与するのだと述べています。私たちは世に歩みつつ、神に属する者として今を歩む責務を帯びています。

2012 クリスマスメッセージ

 上の絵は、イタリア・アッシジの世界遺産、聖フランチェスコ大聖堂のフレスコ画“キリストの誕生”(部分)です。家畜小屋の聖母子像の下に、産湯の世話を受ける幼子キリストの姿が描かれています。赤ん坊はこうした世話をしてもらわなければ、生きていくことはできません。この絵は、救い主として降誕されたキリストのその弱さ・小ささをことさら強調しているように思えます。

 「インマヌエル」とは“神、われらと共に”という意味のヘブル語です。この聖書の言葉は、救い主が弱く小さな者として来られたことこそ神が私たちと共にいてくださるしるしなのだと語っています。大震災を通して、私たちは一人一人が弱く小さな者であることを思い知りました。そして訪ねてくれる友や届けられるお世話に、どれだけ力づけられるかを思いました。ちょうど赤ん坊をいつくしみ世話をする思いとわざの中に、ほんとうに大切なことがあることを教えられたのです。

 あのクリスマスの晩、神は私たちと共にあって平和を分かつために、自ら小さな者となることを選びとられておいでになりました。その意味を味わいつつ、この主をお迎えしたく思います。