「この方について行こう」

ルカによる福音書 18章31~43節
出エジプト記 33章18~23節

 

 昨日開かれた、菅英三子姉独唱・佐垣順姉ピアノ伴奏による東北HELP(仙台キリスト教連合被災支援ネットワーク)チャリティコンサートはすばらしい内容でした。加えて東北HELPの活動報告がなされ、理解が深まりました。中で、“被災地の今はどうなっていますか、情報がありません”との声が各地から聞かれると報告がありました。と共に、被災地にある私たちも今の求め・必要を実はよくわかっていないことを思わされます。そして選挙での支持を訴える候補者たちが、どれだけ被災者に目と思いを向けているのかと疑問に思います。

 真に大切なものを選びとれなかった18「ある議員」、三度も受難予告を受けながら34「理解できなかった」弟子たち、そして見えない中を日々歩んでいた35「ある盲人」とは、私たちまたこの世の姿であることに気づかされます。

 38「私を憐れんでください」と叫び続けた35「盲人」に、主イエスは41「何をしてほしいのか」と訊ねられました。明らかと思えることをなぜ訊ねられたのでしょうか。それは、18「永遠の生命」を求めていたはずの者が実は財産を求め(23節)、主に従うことを求めていたはずの弟子が実は地位を求めるからです(マルコ10:35~)。この35「盲人」は率直に41「見えるようになりたいのです」と求め、主がかつて「求めなさい。そうすれば、与えられる。」(11:9)と言われたとおり、見えるようにされたのでした。

 私たちも、見えるようと求めねばならないことを思います。そして本当に求めるならば、主は応えてくださることをこの箇所は指し示しています。

11月のおたより

 今年のクリスマスちらしの絵は、イタリア・アッシジの聖フランチェスコ大聖堂のフレスコ画「キリストの誕生」です。中心部分を拡大して用いましたが、本来の絵はもっと大きく、この周辺に悩むヨセフ・天使と大きな星・お告げを受けた羊飼いと羊たちが配されて、一枚でクリスマス物語を網羅した絵になっています。13~14世紀にイタリアで活躍した巨匠ジョット・ディ・ボンドーネの作とされていますが、異説もあるようです。

 アッシジはイタリア中部、人口2万ほどの小さな町ながら、修道士フランチェスコが生まれた町としてカトリックの巡礼地とされ、彼を記念して造られた聖フランチェスコ大聖堂と関連施設は、世界遺産に登録されています。

 聖フランチェスコは金持ちの息子として生まれましたが、25歳の頃福音に触れて回心を果たし、清貧の内によろこびを見いだす修道生活に入りました。とくに動物たちにも話しかけて心を通わせ、小鳥にも説教したとの逸話が残されています。1980年、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世は彼をエコロジーの聖人に指定しました。

 さあ、クリスマスです。この絵でも指し示されているように、小さきものに救いをもたらすため、自ら幼な子となって降られた主イエスをお迎えしましょう。

「嗣業-受け継ぐべきもの」

ルカによる福音書 18章18~30節
申命記 32章3~11節

 

 8・9「嗣業」という言葉は旧約聖書によく出てきますが、広辞苑を開いても載っていません。この節にあるように、主によって分け与えられ受け継ぐべき財産、特に土地を指します。イスラエル人にとっての嗣業の土地は重要なもので、他人が買ったり奪ったりできないものでした(列王記上21章など)。

 加えてここには、民が約束の地を割り当てられたように 9「主に割り当てられたのはその民」との印象的な言葉があります。ここには、見出された取るに足りない民を(7:7)主が捨てることなくわがものとされ続けるその愛が指し示されています。

 18「ある議員」が主イエスに訊ねた永遠の命を18「受け継ぐ」には、との語はこの「嗣業」を動詞にしたものです。神の国は、その民に約束され割り当てられた大切な祝福だとの理解がここにあります。このとき主イエスは22「持っている物を…分けてあげなさい」と諭されました。あなたが手にしているものの中には種々の嗣業があるはずだ、それを独り占めしていて神の国の恵みだけを18「受け継ぐ」ことは難しい、と主は言われたのだと思います。

 22「持っている物をすべて売り払」うことが、神の国を受け継ぐための条件なのではありません。主はその嗣業である小さな民に、喜んで神の国をくださると述べられているとおりです(27節、12:32)。でも取りも直さず、嗣業は共々に受け継がれるべきものであり、これを分かち合うとき私たちは神の国の喜びにあずかるのです。震災に際して、持ち物を時間を働きを捧げ分かちあった中でみんなが体験したとおりです。

収穫感謝合同礼拝 「苦い食べ物にも」

詩編 126編1~6節

 

 私たちの教会の源流を辿ると、信仰の自由を求めてメイフラワー号に乗りイギリスから新大陸アメリカを目指したピューリタンたちに遡ります。彼らが到着した1621年の冬は厳しく、病人や亡くなった人も出ました。食べ物も十分ではないのを見た先住民インディアンたちは、とうもろこしの種を分けかぼちゃの育て方を教えて彼らを助けたのでした。その秋の収穫を迎えたとき、ピューリタンはインディアンたちを招いて食事を共にしました。これが収穫感謝祭の始まりです。神さまに感謝すると共に、苦しみや喜びを分かちあう日だったことを覚えたく思います。

  5「種」は一朝一夕に実りには到りません。耕し、蒔き、水をやり、世話をする苦労が伴います。時には 6「泣きながら」働かねばならないこともあるかもしれません。でもその 5「涙」は無駄には終わらず、やがて 5「喜び」の収穫に到るのです。

 苦味は大人になってわかる味です。子どもの頃口にできなかったゴーヤやコーヒーなども、大きくなるとそのおいしさがわかるのです。苦味には人をリフレッシュさせ、ストレスから解放する役割があるのだそうです。

 アメリカで本国活動中のJ.メンセンディーク宣教師から、今朝の礼拝ではなお震災の中を歩む東北のことを話して思いと祈りを共にしますとメールが来ました。苦しみも喜びも分かち合う仲間が与えられていることは、大きな励ましです。

召天者記念礼拝 「わたしたちは主のもの」

ローマの信徒への手紙 14章7~9節
イザヤ書 44章1~8節

 

 16世紀のドイツで編まれたハイデルベルグ信仰問答は、その第一で“生きるにも死ぬにも…ただ一つの慰めは何ですか”と問い、“わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです”と答えています。

  “わたしはわたし自身のものではないか”と、違和感を覚えられるでしょうか。アメリカ奴隷制度の問題を扱ったH.B.ストウの小説『アンクル・トムの小屋』には、“お前の身も魂も俺のものだ”と鞭打つ主人に、トムが“いいえ。体はあなたのものかもしれませんが、魂は違います。魂は神さまのものです。どなたにも買われていません。”と応える場面があります。その抱えもつ破れ・罪にもかかわらずこの私が真実なる方に覚えられ帰属するのだとの確信が、世の権力さらには死の縄目からも私たちを解放するのです。

 占領国ローマ帝国への納税の可否を問われたとき、主イエスはローマの銀貨を取り上げて「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられました(マルコ12:17)。この答には鋭くかつ深い問いが含まれています。では皇帝は税・財産・、領土と人々…どこまでを所有するのか、そもそも私たちは誰に帰属するのかを問うものであるからです。

 主イエスは私たちを訊ね求めて天から地に、さらには十字架の死へと降られ、私たちを復活の勝利へと結び合わされました。ゆえに 8「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のもの」なのです。ここに私たちの基盤と慰めがあります。