「義とされて帰った者」

ルカによる福音書 18章9~14節
創世記 15章1~6節

 

 飯清牧師(元・霊南坂教会牧師)が1995年に召天された際の告別式式辞で中島正昭牧師(元・教団総幹事)は、“飯先生はなろうと思えば何にでもなれたマルチ人間だったが、豊かな天賦を自分のためにではなく神と教会と宣教のためにのみ用いられた。その飯牧師が徹底した罪の告白を内容とした詩編51編をご自身の告別式の聖書として選ばれたところに、先生の信仰を見る。そしてその信仰のゆえに、神は先生をこのように用いられたのだろう。”と語られました。

 ルカ18:9~14の譬に出てくる二人の祈りの最大の違いは何でしょう。それは10「ファリサイ派」が1112「わたし」を主語にしたのに対し、10「徴税人」は神を主語として祈ったことです。

 イスラエル人の信仰の父祖アブラハムの物語は創世記12~25章に及びますが、伝道者パウロは 6「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」との一句をもってその生涯を総括しています(ローマ4:1~3)。アブラハムとても罪を犯さなかったわけではありません(創世記17:17)。が彼は、そうした破れある者をも真実をもって誠へと導き出してくださる主を仰ぎ、その神に導かれることを喜びとしたのです。

 私たちも自らを振り返るとき、破れを見出さざるを得ません。でもそうした私を携えて進み出るとき、そうした破れある者に真実をもって向き合われ、誠へと導いてくださる主に出会うのです。

「信じて祈る」

ルカによる福音書 18章1~8節
列王記上 20章1~7節

 

 裁判官とは、争いごとに白黒をつける大きな力をもった存在です。なのにその裁判官が2「神を畏れず人を人とも思わない」とんでもない奴だったらどうするか、主イエスはそういう思いがけないたとえ話をされました。答は 1「気を落とさず」 5「ひっきりなしに」求め続けるしかない、そうすればこの悪しき者から正しい裁きが出てくるかもしれない、というものでした。

 この 2「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」とは、おそらく私たちが生きる世界のことを指しています。いつの時代もこの世界には、とんでもない罪の力が跋扈しているからです。そうした世界に風穴を開け得るのは、信じて求め続ける祈りとこれを聞き届けられる神のわざだと主は教えられたのです。

 B.C.701大国 アッシリアの軍勢が南王国ユダの都エルサレムを包囲するさ中、ヒゼキヤ王は病で寿命が満ちることを主から告げられました。“主よ、なぜこの時なのですか”と、彼が 2「顔を壁に向けて」 3「涙を流して大いに泣いた」時、主はその 5「祈りを聞き、涙を見」てみ旨を変えられ、さらに15年の命を与えられたのでした。ここには、主のみ旨の厳しさと憐れみの両方が記されています。神学者K.バルトは、“今日は人間の混乱と神の摂理によって”とのスイスの諺をしばしば引用して語りました。私たちが生きる今日の世界も神の憐れみによって支えられていることに思いを馳せ、あきらめることなく歩みたい、そう願います。

宮城北地区交換講壇礼拝 「それでもなお」

マタイによる福音書 17章14~20節

 

 説教  小鮒 實 牧師 (石巻栄光教会)

 

 てんかんで苦しんでいる子(悪霊に取りつかれていた子)を弟子たちは治せなかった。そのとき、イエス様は17「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」と言われました。 しかし、それでもなお17「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい」と言って、その子をいやされたのがイエス様でした。

 また、19「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた弟子たちに対して、イエス様は20「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」と語られました。

 私たちは17「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と言われれば、正にその通りですから何も言えない。20「信仰が薄いからだ」と言われれば、これも“その通りです”と言うしかない。20「からし種一粒ほどの信仰」もないのかと言われれば、“そうかも知れません”と答えるしかない。でも、だからといって、それで決しておしまいではありません。

 イエス様は、私たちが20「からし種一粒ほどの信仰もない」ダメな人間であることなんて、十分承知しておられるのです。でも、こんな駄目な私たちであっても、イエス様は私たちを愛して下さり、励まして下さるのです。その具体例が、悪霊に取りつかれていたてんかんの子どもをいやされたということ。そして、本当に神様を信じ、イエス様を信じるならば20「あなたがたにできないことは何もない」という、この御言葉だろうと思います。

 私たちは、たいした信仰を持っている訳ではありません。それでもなお、イエス様は私たちを愛してくださいます。助けてくださいます。そのことを私たちは忘れないでいたいものです。そして、イエス様に励まされ、イエス様から力を与えられて、これからの人生も力強く歩んで行きたいと思います。

世界聖餐日礼拝 「福音に共にあずかるために」

コリントの信徒への手紙 一 9章19~23節
出エジプト記 33章12~17節

 

 今年のコイノニア会(修養会)は、“一歩踏み出す教会へ”とのテーマのもと、私たちの教会の宣教のあり方について考えようとしています。

 伝道者パウロは19「わたしは…自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」と、宣教にかける熱意とその方針を示しています。ここでは19「なりました」との語の意味をよく考える必要があるでしょう。

 “水戸黄門”では、水戸藩主である水戸光圀が一町民になって世直しの旅に出ます。でも窮地の中、印籠をかざしてご隠居は“天下の副将軍”に戻るのです。

 でも私たちの主は、神の全き19「自由」を捨てて世に下り一人の人となられました。それはすべての人の友・19「奴隷」となって、その命を十字架で分け与えるためでした。主は人に“なってみせた”のではありません。

 神が人となられた、これは大きな愛の出来事でした。また人々はこの主イエスに出会って、生き方が変えられるそれぞれの出来事を体験したのです。

 主イエス昇天後の信仰者たちは聖霊の働きかけによって、この出来事を求めてきました。宣教とは、この出来事に与ることです(23節)。

 人となられた主イエスは、「隣人にな」りなさいと教えられました(ルカ10:37)。この主に動かされて、パウロは22「すべての人に対してすべてのものに」なりたいと祈ったのです。