「あなたがたの間に」

ルカによる福音書 17章20~37節
サムエル記上 20章17~42節

 

 大国アッシリアの侵略に人々が動揺したB.C.8世紀、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」究極の平和を主は「終わりの日」にもたらされると語ったイザヤの預言を先週開きました(イザヤ2:1~)。

 そのような20「神の国」はいつどのように来るのかと訊ねられたとき、主イエスは26「ノアの時代」28「ロトの時代」のような悪い時代にも機が熟せば(37節)究極の神の支配は必ず訪れると教えられました。

 また主はここで、21「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」とも言われています。口語訳で「あなたがたのただ中に」とあったこの箇所が、このように訳し直されていることに留意したく思います。

 サウル王は主から祝されてイスラエル統一王国の初代王となりましたが、次の王となるべきダビデが選ばれるとこれをねたみ、その命を狙うようになりました。しかしサウルの息子ヨナタンはダビデと固い友情を結び、友を父の手から逃がそうとして言いました。23「主がとこしえにわたしとあなたの間におられる」。

 神の国の平和と喜びは、「終わりの日」のへ途上を歩む今にももたらされ、私たちはこれに与りうることを主は教えられたのです。20「見える形では」との語には、“観察する・眺める”との意味があります。傍観していても神の国は見えません。私たちなりの真実をもって他者と出会い関わるなかで、その平和と喜びに与ることができるのです。

「あなたの帰る場所」

ルカによる福音書 17章11~19節
イザヤ書 2章1~5節

 

 B.C.8世紀、大国アッシリアの侵略に「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(7:2)とき、預言者イザヤは 4「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」との 2「終わりの日」のあり様を指し示し、いたずらに恐れることなく 5「主の光の中を歩もう」と語りました。

 歴史的経緯があって11「サマリアとガリラヤの間」には敵意の溝がありました。にも拘らず、12「ある村」では10人のユダヤ人とサマリア人が共同生活をしていたのです。それは、共同体に入ることを許されない12「重い皮膚病」による隔離の故でした。

 彼らは主イエスに憐みを求め、癒されました。喜びに満ちてそれぞれの家を目指したことでしょうが、こうして敵意の構造へと戻っていったのだとしたらそれは皮肉なことと言わねばなりません。でも一人のサマリア人は、まず18「神を賛美するために戻って来た」のでした。彼は家もさることながら、和解と真の平和をもたらされる神こそ帰るべきふるさとであることを悟ったのです。

 試練も課題もある今を私たちはどのように歩むのか。目ざすべきゴールを見据え仰ぐときに、与えられた道を踏みゆくことができることを学びたく思います。

「つまづきは避けられないけれども」

ルカによる福音書 17章1~10節
詩編 11編1~7節

 

 イソップ寓話集のお話です。ある五種競技の選手が遠征から帰ってきて“各地で活躍し、特にロードス島では誰もしたことがないほどの跳躍をした”と自慢しました。するとすぐに声がかかりました、“ここがロードスだ、ここで跳べ”。このお話は皮肉であるだけではなく、与えられた場で精一杯歩むことの大切さを教えてくれます。

 主イエスは 1「つまづきは避けられない」と、私たちの歩む場に時に課題が起こり来ることを語られました。詩編11編では、 3「世の秩序が覆っている」のだ 1「鳥のように山に逃れよ」と勧める声に、この地になお主の 4「御目」が注がれているのだからここで生きていくのだと詩人は答えています。

  5「信仰」とは、課題ある中にも注がれる真のまなざしを信じ、助け導く御手があることを仰いで歩むことです。ですから 5「信仰」は量で測り得るものではありません。私たちがあきらめざるを得ないような時に、主の御業は思いもかけないステージへと私たちを導かれるのです(5・6節)。このことを仰ぐとき、時に危機はチャンスになるでしょう。

 課題ある中御手を頼りに進み行こうとする私たちの歩みは、華々しくはないかもしれません。でも10「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」と答える者の歩みを主はそのまなざしに捉え、良しとされるのです。

「その種は誰のものか」

ルカによる福音書 16章19~31節
レビ記 25章1~7節

 

 1968年に開かれた世界キリスト教協議会ウプサラ会議での論議をもとに、神学者H. ゴルヴィツァーは『富めるキリスト者と貧しきラザロ』との本を書き、19「ある金持ち」とは20世紀にあっては世界の豊かさの多くを手にしているキリスト者のことではないかと問いかけました。

 それから40年後の2008年、映画“モンサントの不自然な食べもの”(フランス・カナダ・ドイツ合作)が制作され、日本でも今年から順次公開されています。モンサント社はこれまで農薬・除草剤・PCB・枯葉剤などを製造販売してきた、多国籍バイオメーカーです。そして今日、遺伝子組み換え作物の種に特許を取得してそのシェア90%を握ると共に、世界の種苗会社の多くを買収しつつあります。その結果生産者はこの種を買うしかなく、世界の食料が同社の支配下に置かれる危険が高まっています。この映画をはじめとする警鐘により、モンサント社はヨーロッパの穀物種子事業からは撤退を余儀なくされましたが、果たして日本ではどうなるでしょうか。

 26「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって」との言葉は示唆的です。人間の欲は種や食料をも26「淵」で囲い込んで、わが利益としようとするのです。これは天の義と恵みに挑戦しようとする人間の大きな罪ではないでしょうか。

 一方、主イエスは十字架の犠牲を通して、人々を隔てる26「淵」を取り除かれたのです(エフェソ2:14~)。この方に導かれ励まされつつ、私たちも硬直したあり方から解放されて歩むことが求められています。

「正しさを超えて」

ルカによる福音書 16章1~13節
創世記 8章13~22節

 

 16世紀末、豊臣秀吉の朝鮮出兵により日朝の国交は断絶、その後の徳川幕府による正常化交渉も難航しました。このとき対馬藩は両国の国書を偽造・改ざんまでして仲介にあたり、両国ともこれを黙認、その結果通信使が江戸時代に12回もやって来る関係改善をみたのでした。今日の両国はこうした史実をも振り返り、関係改善に向けて知恵を尽くす必要があるように思います。

 ルカ16:1~で主イエスは 8「不正な管理人」がほめられたという不可解なたとえ話をされました。私たちはこのお話をどのように受け止めうるでしょう。

  5「主人に借りのある者」の借財 6「油百バトス」 7「小麦百コロス」というのは、法外な量です。そう簡単には返せそうにない借り、それは神と他者の前に抱える私たちの多くの負い目・罪のことではないでしょうか。私たちは独力でこの負債を支払う力をもっていないのです。

 ここに管理人が現れます。自らの責任において負い目ある者の負債を免じたこの管理人とは、主イエスご自身なのではないでしょうか。このたとえ話で、 8「不正な管理人」がその後どうなったかは記されていません。主イエスは、世と人々の罪を赦す代わりに十字架上でその命を捧げられました。

  8「この不正な管理人の…やり方をほめた」ということは、この管理人に倣えということです。私たちは何を倣うことができるでしょう。それは、“我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ”と祈るように、主の大いなる赦しの内にある私たち自身も互いに受け入れ合う関係に生きることです。