「なお、子よと呼ぶ父」

ルカによる福音書 15章11~32節
申命記 21章18~21節

 

 申命記21:18~21には、18「反抗する息子」は集団から21「取り除かねばならない」とのイスラエル人に言い伝えられてきた掟があります。主イエスはこのことを十分ご存知の上で、ある父親の譬を語られました(ルカ15:11~)。

 二人の息子のうち弟は、ふつう死去に際して為される財産分与・処分を生きている父に面と向かって求め、家を捨てて出て行きました。でも放蕩三昧の末すべてを無くしたとき17「我に返」り、自らの居場所は父のもとにしかないことに気づいたのです。もはやその19「資格」はないこと悟った弟は、ただ憐みを乞うよりありませんでした。ところが父はなおこの弟を24「息子」と呼び、大きな喜びをもって迎えたのです。いやそれ以前に、父はこの愚かな息子が帰ってくるのを心待ちにしていたのでした(20節)。

 さてもう一人の息子、兄はこれに我慢がなりませんでした。兄は27「弟」を30「あなたのあの息子」と呼び、同じ家族であることを拒否しました。でも父はこの兄に対しても31「子よ」と呼びかけたのです。この父の姿を通して、主は神を指し示しています。

 恵みの分与に与りながら勝手気儘に歩んだのはこの私であり、神は死んだと公言して欲望の趣くまま走ったのはこの世界ではないでしょうか。正論からいうと、こうした私と世界は21「取り除かねばならない」のです。でも神はなお私を世界を31「子よ」と呼んでその帰還を待ち続けていること、私たちまたこの世界はその正しさによってではなく愚かさを覆う愛によって家族とされることをこの譬は語っています。

「その名はイエス・キリスト」

マタイによる福音書 25章31~46節
申命記 10章17~19節

 

 説教  松本 敏之 牧師 (経堂緑岡教会)

 

 イエス・キリストは、数会の主というだけではなく、世界全体の主である(32節)。主は、クリスチャンのためだけにではなく、すべての人のことを心に留め、すべての人のために死なれた。それほど大きなスケールの主の働きを、かえってクリスチャンが狭めてしまわないようにしたい。主の支配は私たちの想像をはるかに超える世界にまで及び、その恵みははるか遠くまで及ぶ。

 主イエスは貧しく、苦しみの中にある人々と一体となっておられるということを心に留めたい(40節)。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ…」(35~36節)の言葉は、食・住・衣・健康・自由という5つの基本的人権に関係している(本田哲郎)。恐らくこの聖句からインスピレーションを得たであろう“その名はイエス・キリスト”というブラジルの賛美歌がある。“その名はイエス・キリスト/飢えに苦しみ、飢えのために叫んでいる…”。

 私たちは、神々しく見えるところよりも、むしろこの世界のひずみを受けて苦しんでいる人々とかかわることで、キリストと出会うのではないだろうか。あまりにも大きな構造的社会問題にたじろいでしまうこともあろう。しかしまず自分ができることをする中で、信仰の仲間があらわれて共同作業が始まっていくのではないだろうか。信仰の力は、私たちをそうした社会変革にまで向かわせるようなダイナミックな力をもっている(『讃美歌21』480番参照)。

平和主日礼拝 「平和を実現する人々」

マタイによる福音書 5章3~12節
コヘレトの言葉 3章11節

 

 福岡警固教会より中高生3名・教会学校教師3名がボランティアワークに来ておられます。一昨日は被災地見学とガイダンス、昨日は荒浜七郷でのワークをされ、本日・明日は平和七夕に関わられます。尊いお働きが祝され、主の御用に用いられるよう祈ります。

 私が通っていた札幌北光教会高校生会のキャンプは当時、野崎牧場(恵庭市)でのワークキャンプと決まっていました。この牧場は自衛隊の演習場に隣接し、自衛隊に対する憲法判断が出るかもしれないと1960年代に注目が集まった恵庭事件が起きた所として知られています。忙しい中時間を裂いてキャンプテントを訪ねてくれる牧場主の野崎さんはいろいろな話の中で、必ず“私の平和運動は良い牛をつくることです”と言われました。この言葉から、日々の生活からこそ平和を求めていくことの大切さを教えられました。

 山上の説教において、主イエスは 9「平和を実現する人々は、幸いである」と語られました。前後で 3「心の貧しい人々」 4「悲しむ人々」 5「柔和な人々」…と、小さな一人一人に目がとめられています。小さな一人一人でも実現できる平和があり、それは神の目から見て尊いと主は教えられたのです。

 永遠の平和の実現は、神の御手のみが成し遂げうることでしょう。しかし私たちにはその11「永遠」を仰ぐ思いが与えられており(コヘレト3:11)、主キリストが拓かれた平和・和解への道を私たちも労して歩む務めが分け与えられています(Ⅱコリント5:18~19)。