「人を動かすもの」

ルカによる福音書 15章1~7節
申命記 7章6~8節

 

 アラビア半島には、今日もベドウィンと呼ばれる遊牧民がいます。ある人がこの譬を持ち出し、 4「一匹を見失ったとすれば、九十九匹を…残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回」りますかと尋ねたところ、“いいや、九十九匹のほうが大切だ”との返事が返ってきたそうです。この答は、最大多数の幸福を求める人間的判断を代表しています。しかし主イエスは、 4「一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。…見つけたら、喜んで…家に帰り、…『一緒に喜んでください』と言うであろう」と言われるのです。

 この羊飼いが主イエスご自身だとすると、その目に映っているのは百匹中の一匹ではなくてそれぞれ名前のついた一匹なのでしょう。主イエスは「自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(ヨハネ10:14)がゆえに、危険を冒してでも捜しに出かけるのです。

 申命記7:6~には、 7「あなたたちはどの民よりも貧弱であった」がゆえに 6「宝の民とされた」という不思議な選びが記されています。そしてこの選びはイスラエルにとどまらず、すべての民に及ぶものだと聖書は語っています(創世記12:3)。

 それぞれ名前のついた私、違った個性をもった私、存在の重さをたたえた私、そこに目をとめられ呼びかけられたときに、人は動かされます。主のそのまなざしと声はあなたにも届いていると、呼びかけられています。

「塩として生きる」

ルカによる福音書 14章25~35節
士師記 7章1~8節

 

 士師記は、“約束の地”と指し示されたカナンの地で先住民とぶつかり合った不安定な時期、民を導いた12人の士師(さばきづかさ)の物語です。ギデオンは敵のミディアン人が押し寄せたとき酒ぶねに隠れて難を逃れた小心者でしたが、主に呼び出されて士師とされました(6:1~)。ミディアン・アマレク連合軍が135000人の大軍で攻めてきたとき、ギデオンのもとには32000人が結集しました。しかし主は 2「あなたの民は多すぎる」と、恐れている者12000人を家に帰し、さらに水の飲み方で9700人をふるい落として、兵を300人まで減らされたのです。ギデオンは知恵をもってこの300人を指揮し、ほとんど犠牲をださずに大軍に勝利したのでした(7:16~)。

 受難の待つ都エルサレムに向かって旅を続けておられた主イエスはついてくる群集に振り向き、26「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命」をも捨てる覚悟を問われ、27「自分の十字架を背負ってついて来」なさいと求められました。この厳しい言葉に、多くの者が去ったことでしょう。でも都エルサレムでの戦いに、主イエスは大勢を必要とはされなかったのです。

 続いて34「塩」の大切な役割が語られています。塩は人が生きるのに欠かせないものであり、少量でも味を引き立て、腐敗を防ぎます。時に私たちは数を信頼し、少数者であることを恐れます。でもより大切なことは、真の神を仰ぎ、真実を求め続けることだと聖書は教えています。

「神の国の宴会と地上の宴会」

ルカによる福音書 14章7~24節
申命記 10章12~22節

 

 15「神の国で食事をする人は、なんと幸せなことでしょう」、この言葉を心打たれての賛辞と読むこともできます。が、主イエスはこの場で安息日の治療をめぐって人々とぶつかり(1節~)、客のありさまをたしなめるような形で末席に座ること、貧しく弱い者を招くことを教えられたのでした(7節~)。ですから15節の客の言葉は揶揄で、“なるほど神の国での宴会は素晴らしいもののようですね。でもここは地上なのです。”との意味だったかもしれません。それは、“理想論よりももっと現実的にならなくては”との今日にも聞こえる言葉に似ています。

 これに対して主イエスは16「盛大な宴会」の譬話を通して、せっかくの招きを多くの人々が断るがゆえに神の国の宴会でも貧しく弱い者たちがまず席につくだろうと語られました。このことを通して主イエスは、地上の歪みの代償として神の国があるわけではなく、地上で求められるべきことと神の国で実現することはつながっていることを示されたのでした。

 14「見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、…神、主のものである」とモーセは語り、貧しく弱い者を愛する主の意思を地にも実現せよと教えました(申命記10:12~)。

 神の国は人間が実現したり獲得できるものではなく、神のみがもたらしうるものです。ですが、神の国と地上とはその方向においてつながっています。理想と現実を分けて論じる過ちに陥ってはなりません。

「今なお進まれる主イエス」

ルカによる福音書 13章31~35節
エレミヤ書 4章1~2節

 

 権力者から邪魔者として目をつけられるとの警告を聞いても、主イエスは33「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」と言われて十字架の待つ33「エルサレム」に向かわれたことが記されています。そのエルサレムは神の招きを拒絶し(34節)、主イエスが予告されたように(35節)A.D.70占領国ローマとの戦いに敗れて破壊されてしまったのでした。でも35節後半で、主イエスはなお働いてあなたを35「祝福」へと招き続けると語っておられるのではないでしょうか。

 使徒ペテロが皇帝ネロの迫害から逃れてローマから去る途中、復活の主イエスに出会ったとの伝説があります。ペトロがQuo vadis, Domine ?(主よ、いずこへ?)と尋ねると、“再び十字架に架かりに行く”と主は答えられ、これを聞いたペトロは意を決してローマへ戻って殉教の死を遂げた、との伝説です。19世紀、ポーランドの作家H.シェンキェヴィチはこれを元に、同名の小説を書いています。

 B.C.6世紀亡国の危機に瀕した民に、預言者エレミヤは 2「主は生きておられる」との言葉と共に、私たちの思いを超えて貫徹する主の意思と計画を告げました。

 困難ある今も、私たちと世界は主の憐みと招きを頂いていること、主の意思と計画は人の思いを超えて進みゆくことを仰ぎ、従いゆく力を分け与えられたく思います。