「狭い戸口から」

ルカによる福音書 13章22~30節
エレミヤ書 21章8~10節

 

 千利休の時代、茶室ににじり口が設けられるようになりました。間口60数センチ四方というこの小さな入り口には、その身分を問わず誰もが正座して頭を下げねばくぐれないとの意味があるといいます。入ろうとする者は、まずここで茶に向かう態度を問われるのです。

 主イエスが語られた24「狭い戸口」にも、そうした意味がありましょう。ヨハネ10:9で主イエスは「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」と語られました。救いという大きな祝福を求める者に、主イエスご自身が「戸口」「門」となってそのあり方を問うのです。個々人も世界全体も、広く安易な道は滅びに到るとの警告を心して聞かねばなりません。

 B.C.587の新バビロニア帝国によるエルサレム陥落を前に、預言者エレミヤは都を守ろうと抗戦することは 8「死の道」であり、降伏して捕囚とされることがむしろ 8「命の道」だと語りました。真の希望と祝福に到るためには、苦難をもくぐらねばならない時があることを、エレミヤは断固として語り続けました。

 昨年11月の礼拝で、W.W.J.D(What Would Jesus Do?)との言葉を紹介しました。主イエスだったらどうなさるだろう、道を選び取るとき主のみ旨を仰ぐ私たちでありたく思います。

「その種は大きく成長する」

ルカによる福音書 13章10~20節
イザヤ書 45章18~25節

 

 主イエスが10「安息日」に10「会堂」で教えられた記事は、4:16~にもあります。このとき主イエスは「わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」とイザヤ61:1~を引用され、「この聖書の言葉は、今日…実現した」(4:21)と告げられました。

 今日の箇所で、病に苦しんでいる婦人が与えられた言葉12「病気は治った」の原意は“病気は治っている”です。聖書に証しされた神の恵みは、あなたの身において今日実現したのだ、と主イエスは宣言されたのでした。そして律法の安息日規定を盾にこの癒しを見とがめた会堂長に対し、主イエスは安息日こそ束縛からの解放にふさわしいことを明確に示されました。

 続いて小さな19「からし種」21「パン種」が大きく成長する譬が置かれています。礼拝で蒔かれる種は最初小さくとも、やがてその人の中で大きく成長し、み旨を実現しゆくのです。

 第二イザヤは新バビロニア帝国崩壊、捕囚からの解放との歴史の大変動の只中で、23「その言葉は決して取り消されない」と歴史を貫徹して実現しゆく神の計画を語りました。私たちもこの大いなる神の計画の内に置かれていること、小さな一人一人にもみ旨を実現しゆく種が与えられていることを仰いで、今を歩みたく思います。

子どもの日・花の日合同礼拝 「召し使いたちは知っていた」

ヨハネによる福音書 2章1~11節

 

 イエスさまの時代、 1「婚礼」は当人・家族のみならず村の人々の喜びの時でした。皆が歌い踊り、食べ飲んで、喜びを分かちあったのです。ところが、楽しいお祝いには欠かせないぶどう酒が足りなくなってしまいました。マリアさんがイエスさまに 3「ぶどう酒がなくなりました」と言ったのは、あなただったら何でもできるでしょということだったのかもしれません。

 するとイエスさまは、この家の召し使いたちに言って大きな水がめ6つに水をいっぱい入れてもらいました。もちろん水道などない当時、深い井戸から水を運ぶのは大変なことでした。そしてこの時足りなかったのはぶどう酒です。“なんで俺たちはこんな水を汲んでいるんだ”と思ったかもしれません。

 ところがかめから汲んでお祝いの席に持っていくと、水はおいしいぶどう酒に変わっていました。おかげでお祝いは無事に続けられたのです。

 さて、イエスさまが何でもできる力をお持ちならば、なぜ指先一つでぶどう酒を出されなかったのでしょう。そのわけは 9「水をくんだ召し使いたちは知っていた」との言葉にあるように思います。このぶどう酒はどこから?と首をひねった世話役のそばで、召し使いたちは“もとの水を汲んだのは俺たちだぜ!”と胸をはっていたのではないでしょうか。

 私たちにできるのは時にこの水を汲み続けるような、小さなことかもしれません。でもイエスさまは小さな私たちにも目をとめ、その小さな働きをも用いて、大きな喜びをもたらしてくださるのです。このまなざし、この導きが与えられていることを信じて、今を歩んでいきたく思います。

「あなたはどう応えるか」

ルカによる福音書 13章1~9節
サムエル記上 3章1~10節

 

 被災者支援センター・エマオからニュースレターが発刊されました。これまでにボランティアとして働きを捧げてくれた2,130名の、その多くが被災地とは特に関わりのない若者たちでした。彼らは被災地の報道に接し、ネットでボランティア募集を見て、“私にもなにかできるかもしれない”とやって来たのでした。

 ルカ13:1~5で主イエスは、その出来事を他人事にしないこと、論評で終わらせないことを教えておられます。 3・5「悔い改め」の原語には“方向を変える”との意味があります。そして方向転換は、他人事からは生まれません。

 いっぽう、方向をこれまでと変えていくのは大変です。6~9節の譬で、 8「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と執りなす園丁は、救いという大きな方向転換のために世に来られ十字架に到るまで労される主イエスご自身を指していましょう。私たちは大きな招きと期待の内に置かれています。

 初め先生 1「エリ」に呼ばれたのだと思った少年サムエルは、3度の試行錯誤を経て10「どうぞお話しください。僕は聞いております」と主に向き合うことができました。“私の名が呼ばれた”と気づいたところから、預言者として用いられる彼の物語は始まったことを思います。