ペンテコステ礼拝 「不思議な一致」

使徒言行録 2章1~13節
創世記 11章1~9節

 

 “バベルの塔”物語で、 1「同じ言葉を使って、同じように話していた」人々は 4「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散されることのないようにしよう。」と語って塔建設を始めました。ここには同質性にとどまろうとの人間の性向、そして自ら支配する位置に立とうとの人間の罪の姿が示されていましょう。戦時下、朝鮮や台湾での国語常用運動や当教会も体験した敵性語排撃など、言葉の統制・排除による一体化の企ては歴史においてしばしば繰り返されてきました。“バベルの塔”物語は、でもそうした自己中心と同質性を目指す企ては、むしろ互いの疎外を生み、破綻に到ることを告げています。

 ペンテコステに際しては、逆のことが起こりました。聖霊に満たされた弟子たちは皆 4「ほかの国々の言葉で話しだし」、 5「天下のあらゆる国」の人々が 8「めいめいが生まれた故郷の言葉」で11「神の偉大な業」を聞くことになったのです。実はこの箇所では、“聞く”との言葉が繰り返されています(6・8・11・14・37節)。相互理解とほんとうの一致への道は聞くことから始まります。種々の主張が響く中、一致はたやすいことではないと私たちはわかっています。まさに、神の生きた働きかけ、聖霊の導きを仰がねばなりません。

「主イエスと共に今を歩む」

ルカによる福音書 12章49~59節
エレミヤ書 6章13~17節

 

 昨日、“宮澤・レーン事件”のドキュメンタリー上映と秘密保全法を考える会に出かけてきました。“宮澤・レーン事件”とは、1941年12月8日日米開戦のその日に、北海道大学の学生宮澤弘幸と教師ハロルド&ポーリン・レーン夫妻が軍機保護法違反との冤罪によりスパイ扱いされ、有罪とされた事件です。夫妻は当時属していた札幌組合教会(現:札幌北光教会)に聖書の差し入れを求め、青年たちが拘置所に向かおうとしましたが、関わりを恐れた牧師はこれを押しとどめたのでした。宮澤さんは戦後釈放されたものの、獄中の衰弱がもとで1946年27歳で召天されました。夫妻は1943年日米交換船で帰国しましたが、1950年再来日し北海道大学と札幌北光教会で奉仕されました。再来日してすぐ、夫妻は宮澤さんの墓参に出向きましたが、夫妻のせいで息子が死んだと思っていた両親はこれを拒絶しました。国家の冤罪は、人の信頼をも分断したのです。

 そして今、国家に都合の悪い情報を隠蔽し、恣意的に人を罰しうるとも指摘される秘密保全法が国会上程されようとしています。70年前の事件は、他人事ではなくなるかもしれません。

 ある人々を踏みつけにして安定を図る社会とその中に安住しようとする人の罪を知るとき、主イエスが51「地上に平和をもたらすために来たと思うのか」と言われた真意を知ることができるでしょう。誰かの犠牲の上に成り立つ見せかけの平和を主は糾し、真の平和に向けて56「今の時を見分け」57「何が正しいかを…自分で判断」することを求められるのです。

 預言者エレミヤは見せかけの平和に安住しようとする人々の過ちを指摘し(6:14)、捕囚という苦難にこそ主の導く「平和の計画」(29:11)があると語りました。今もまた、主の指し示す平和への旅路なのだと思います。共なる主と共にこの道を歩みましょう。

「今を計る視点」

ルカによる福音書 12章35~48節
創世記 6章9~22節

 

 今日の箇所で、主イエスは37・43「主人」はいつ帰ってくるのかわからないとの譬を語られた上で、37「目を覚まして」いなさいと言われます。でも人は眠らず、いつも緊張しているわけにはいきません。主は私たちに何を求めておられるのでしょうか。

 ルカ17:26~は悪い時代の例として26「ノアの時代」を挙げ、このとき27「人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」と記します。飲食や結婚そのものが悪いわけではなく、ただ今のことだけに目と心を奪われていたことが戒められているのでしょう。

 ノアの洪水の物語中、創世記6:12を月本昭男立教大学教授は「神が地を見ると、見よ、それは破壊されていた。すべて肉なるものが、地上において、その道を破壊したからである。」と訳しています。後世に重大な影響を及ぼしかねない核の力を今の繁栄のために用い、地を傷つけた私たちの愚かさがそのまま指摘されているように思います。

 神による歴史の完成を仰ぐことを終末論的信仰といいます。これは、その時を恐れさせるものではなく、むしろ全てを治める神の視点をもって私たちの今を計るのです。私たちは今の時に埋没することなく、この神のまなざしがあることを仰がねばなりません。これが主イエスの言われた37「目を覚まして」いることではないでしょうか。

 箱舟建造を、ノアは木を植えるところから始めたとの伝説があります。22「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」との言葉は、神の約束を仰いで、今を生きることの重さ・大切さを告げています。

「神の国への旅路」

ルカによる福音書 12章22~34節
創世記 12章1~4節

 

 主の召しを受けてアブラハムが出発した場面と、空の烏・野原の花を見よと言われた主イエスの言葉を重ね合わせて読みたく思います。

 アブラハムは主なる神から突然、 1「生まれ故郷、父の家をを離れて、わたしが示す地に行きなさい」と呼びかけられました。私たちにとって 1「生まれ故郷、父の家」とはそれぞれが育まれたところ、そして大切な所属を意味していましょう。でも人はときに、そこから新しいステージへと出発していく時を与えられます。このときアブラハムはなぜ「行き先も知らずに出発」(ヘブライ11:8)できたのか、それはその召しに主の大きな愛と選びを見たからでした。彼は自らよりもこの主のわざに信頼したのです。上記ヘブライ人への手紙は、これを「信仰」(同11:1)と呼んでいます。

 この愛と選びはアブラハムだけに、特別に与えられたものでしょうか。この箇所以前に、アブラハムと主との関わりは記されていません。主の召しは思いがけず、不思議です。

 主イエスはこの愛と不思議な選びは24「烏」にも27「野原の花」にも、また私たちにも与えられている、だから29「思い悩むな」と語られました。そして召しに応えた者が目指すのは31「神の国」だと指し示されました。アブラハムは信仰者の父祖と呼ばれます。彼から始まった神の国への旅路は、代々の信仰者を経て、今の私たちにも引き継がれています。