日本キリスト教団 仙台北教会
コリントの信徒への手紙 二 4章16~18節
説教 伊藤 香美子 姉
エレミヤ書 31章15~17節
ヨハネによる福音書 11章28~44節
新年礼拝に際し、“おめでとう”と言い交わしていいのかとの戸惑いがありました。昨年の大震災発生以来、東北はなお大きな課題の中を歩んでいるからです。そうした中、主の十字架の憐れみと慰めから洩れる場所はないと告げるコロサイ1:20を開き、それゆえに“おめでとう”と挨拶を交わそうと呼びかけました。
ただしこのことを信じようとするとき、私たちは恵みと共に課題をも受け取ることになります。なぜこのような震災が与えられるのか、この重い問いにぶつからざるを得ないのです。
あのとき私は、牧師館の中にいました。幼稚園の保育中でしたので、激しく揺れる階段を転げ落ちるように下り、ガラスが破れ砕けた会堂を走り抜け、園舎方面に向かいました。4人の園児は(幼稚園は3月末で休園が決まっており、これが全園児でした)教諭の適切な誘導によって、前庭に避難し地面に伏していました。会堂の塔がねじれるように動いていました。数分後、やっと揺れが収まったとき私は“あぁ大変だったけれどもこれで終わった”と思いました。が、全く愚かなことでした。これは終わりではなく始まりでした。このとき津波に教会員が2名、求道者のお母さんが1名、のみ込まれようとしていたことを私は想像することができませんでした。
今日の聖書には、旧約のいにしえの母ラケルの、また主イエスの嘆きと涙が描かれています。十字架の主は今も被災地の「憤り」「涙」(33・35節)を共にされておられることを仰ぎます。加えて、預言者エレミヤは「目から涙をぬぐいなさい」「あなたの未来には希望がある」と語り(16・17節)、主イエスは復活のみ力をもって私たち人間の悲嘆を「神の栄光」(40節)へと変えられました。
震災の今を忘れないこと、その今を明日へと変えていくこと、こうした務めが私たちにも分け与えられていることを思います。震災は私たちの知恵も技術も力をも崩し、押し流す規模のものでした。涙を希望に、今を明日に変えていくためには、人間を超える導きを仰がねばなりません。その主は私たちと共におられます。
(2012年4月29日 霊南坂教会にて)
コロサイの信徒への手紙 1章19~23節
イザヤ書 2章1~5節
今日開いたコロサイ1:20は2012年度宣教活動計画案の聖書箇所、説教題は主題です。
この箇所は今年の新年礼拝にも開き、主の眼差しと臨在から洩れる場所はないことを学びました。震災発生後1年を経て、この土地と時代とはなお大きな課題の中を歩んでいますが、私たちはその重荷を負われる十字架の主、平和を実現される復活の主がその只中に生きて働いておられることを仰ぎたく思います。
このことを信じようとするとき、私たちは恵みと共に課題をも受け取ることになります(24節)。なぜこのような震災が与えられるのか、それはたやすくは答が得られない問いです。そこにも働かれる主に導かれて課題を、恵みを分かちあう歩みがやがては答へと近づきゆくのではないでしょうか。
B.C.8世紀、大国アッシリアに脅かされ 4「剣」 4「槍」が振りあげられる現実の中で、預言者イザヤは人の思いを超えて実現してゆく神の約束を仰ぎました(28:16)。課題ある今も 2「終わりの日」の平和へと位置づけられていることを信じて、 4「鋤」 4「鎌」を手にしようと呼びかけたのです。私たちも今、主の臨在にあって与えられる 5「光」を分かちあいたく願います。
ルカによる福音書 12章13~21節
箴言 19章8節
今日開いた箇所で主イエスが教えられた21「神の前に豊かに」なるとは、どういうことでしょうか。譬に現れる16「ある金持ち」は得た収穫を神殿に捧げれば、あるいは皆に分ければ良かったのでしょうか。
今日あわせて開いた箴言19:8には、「心を得た人は自分の魂を愛する」との言葉があります。この言葉は、自分を正しく愛することの大切さを語っているように思います。精神科医の石丸昌彦氏はキリスト教メンタル・ケア・センターの会報の中で、価値観に深く食い入った拝金主義・偏差値信仰などに振り回され、私たちは見当はずれのものを労苦して追い求めてはいないかと警告を発しておられます。自分を正しく愛することを忘れ、模造品・代替品ばかりを求めているのが今日の社会ではないかと。「隣人を自分のように愛」する(10:27)には、自分を愛することを知らねばならないことを思います。
15「人の命」は15「財産によって」、さらには他人の目や世の尺度によっても計ることはできません。ありのままの私をご存知の上、愛してくださる方によって私たちは正しく計られるのです。21「神の前に豊かに」なるとは、この愛の前に立つことです。
ルカによる福音書 24章13~35節
出エジプト記 33章12~17節
今も被災者支援センターの置かれている東北教区センター・エマオの名前は、二人の弟子が復活の主にまみえた村の名(13節)にちなんでいます。震災発生直後から連日、自動車に救援物資を満載して新潟の牧師たちがエマオを目指してくれました。この受け入れに関わった片岡謁也牧師(若松栄町教会)は、“あの車中にも、復活の主イエスが同行されていたに違いない”と述懐されました。
震災・原発事故からの復興の道はなお遠く、見通しは得られていません。でも17「暗い顔をして」道を行く者にも、すでに復活の主が同行しておられることを仰ぎたく思います。
出エジプトの指導者モーセが13「どうか今、あなたの道をお示しください」と願ったとき、主は自ら同行されることを約束されました。それは主がモーセを12「名指しで選んだ」がゆえでした。名はその人自身を表します。主は私たち自身、そのありのままの姿をご存知の上で、共に歩んでくださるのです。
二人の弟子たちは、主が臨在されたとき32「心は燃えていたではないか」と振り返りました。課題ある中にも、与えられるひとつひとつのことに心燃やしながら歩みゆければと願います。
マルコによる福音書 15章21~41節
創世記 12章1~4節
24「シモンというキレネ人」のことは、3福音書に共通して記されています。彼は遠くアフリカからこのエルサレムに来ていて、たまたま十字架刑の行列に出くわしたのでした。そこをローマの兵士につかまえられ、主イエスの十字架の横木を21「無理に」負わされることになったのです。刑場に引かれる主イエスの後に続きながら(ルカ23:26)、シモンは“まったく関係のない俺がなぜこんな目に遭うのだ”と思ったに違いありません。
なぜ彼のことが深く記憶されているのでしょう。それは“なぜ”と問うても答が与えられない理不尽な出来事に、時に私たちも出会うからではないでしょうか。シモンの姿は、なんともならない出来事に翻弄される小さな私たちのあり様を象徴しているように思います。
でもシモンの前を行くこの主イエスこそ、まったく関係のない「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成し」(イザヤ53:12)をするために十字架の死に向かわれていたのでした。シモンは後になって、自らにも及ぶその大いなる恵みを悟ったようです(21節)。
信仰の父祖アブラハムはそれまで何の関わりもなかった神から突然呼びかけられ、 1「生まれ故郷…を離れて」旅立ちました。これとても全く思いがけないことだったでしょうが、彼が 4「主の言葉に従って旅立った」ところから 3「すべて」の人々に及ぶ救いの物語は始まったのです。