「立ち直ったら、力づけてやりなさい」

ルカによる福音書 22章31~34節
創世記 32章23~31節

 

 33「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」、31「シモン」ペトロはこう誓いましたが、主イエスは34「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と予告されました。そしてその言葉の通り、ペトロは自らの弱さに敗れていきました(22:54~)。

 31「ふるい」は必要な実だけが残るよう、脱穀した31「小麦」を選り分ける道具です。敗れたペトロは主の言葉を思い起こし、私には残る真実がなかったと悔やんだことでしょう。でも主は、このペトロの弱さと共に、32「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と再起をも予告しておられました。試練のふるいにかけられてもなお残る真実がある、と主は言われたのです。

 それは、小さき者を覚えての32「祈」りであり、その試練を分かち担われる主の十字架であり、試練を越えて復活され今も生きて働かれる主の臨在です。この主に出会い(24:34)、ペトロは再び立ち上がり主の証人として歩みました。

 かつて騙しうちにした兄エサウとの再会という人生最大のハードルを前にして一人呻吟するヤコブに、その夜25「何者か」が現れ夜明けまで格闘しました。一番苦しいときにその悩みを共にしてくれたこの方にヤコブは神の姿を見、その臨在に30「祝福」を頂いて、ついにエサウとの和解を果たしたのでした(33:1~)。

 この真実なる方が今も共におられることを共々に仰ぎ見たい、そう願います。

教会創立記念合同礼拝 「み言葉を生きよ」

エゼキエル書 3章1~3節
マルコによる福音書 4章30~32節

 

 25年前、教会創立100周年に際して埋めたタイムカプセルを今日開封します。中には、教会学校の生徒が書いた“25年後のわたし”に向けた手紙が入っています。この手紙が指し示すのは、懐かしい思い出とこの間の豊かな成長でしょう。

 成長するためには食べ物が必要です。B.C.6世紀、亡国と捕囚にあってうなだれた民に遣わされた預言者エゼキエルは、神から 3「この巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ」と命じられました。恐る恐る口にすると、それは 3「蜜のように甘かった」のでした。神の言葉はただ聞かれるにとどまらず、一人一人に食べられ、生きられるために語られています。そしてその言葉は、時間がかかってもその人の中で咀嚼され、豊かな成長の糧となるのです。

 主イエスは31「からし種」がやがて鳥が巣をかけるほど大きく育ちゆく成長に、神の国を譬えられました。私たちがまた教会が日々歩み成長してきたことの只中に、すでに神の国の恵みは顕されています。一方、エゼキエルが語った言葉が人々の中で咀嚼され、苦難をも乗り越えて歩みゆく力となるまでには50年余が必要でした。神の大きな計画のうちに教会も私たちも置かれ、役割が与えられていることを仰ぎたく思います。

東日本大震災1周年を覚えての礼拝 「地震のままにしておくな」

エレミヤ書 31章15~17節
ヨハネによる福音書 11章28~44節

 

 大震災発生より1年を迎えました。あのときと同じように教育館で礼拝をまもっていると、心細いなんとも言葉にできない思いが戻ってくるようです。

 この間、避難所は仮設住宅へと変わり、求めも物資からワーク、そして生活再建の支援へと変わってきました。一方、町から離れた地域・原発に近い地域では、違う時間が流れているかのようにすら感じられる被害がまだ横たわっています。そうした中、私たちがなし得ることは何でしょうか。

 それは震災の今を忘れないことと、その今を明日へと変えていくことではないでしょうか。先月発題に伺った京都教区研修会の礼拝で、“地震を地震のままに、津波を津波のままに、放射能事故を事故のままにしておいて良いのか”とのメッセージを頂きました。

 亡国と捕囚という大きな苦難に嘆く人々に、預言者エレミヤは神から言葉を預かり16「目から涙をぬぐいなさい」17「あなたの未来には希望がある」と語りました。主イエスは、愛する者を失った者といっしょに35「涙を流され」ると共に、私たち人間の悲嘆を40「神の栄光」へと変えられました。

 震災は私たちの知恵も技術も力をも崩し、押し流す規模のものでした。涙を希望に、今を明日に変えていくためには、人間を超える導きを仰がねばなりません。その主は私たちと共におられます。

「真理・勇気・平安」

ルカによる福音書 12章1~12節
創世記 17章15~19節

 

 アブラハムとサラにやっと与えられた子の名前を、神は19「イサク(彼は笑う)」と名付けさせられました。神のお告げを受けたときアブラハムは17「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」と言って17「笑っ」たのです(18:12~)。この子の名前は二人への罰だったのでしょうか。この子が生まれたとき、サラは「神はわたしに笑いをお与えになった」(21:6)と心から感謝しました。疑いも恐れをも抱える私のありのままの姿をご存知の上で神は祝し導かれるその恵みを、二人はわが子の名を呼ぶたびに仰いだのでした。

 私のすべてが知られているということは、一見恐ろしいことに見えます。が、その上で私が神の真実の内に恵まれ生かされていることを知るとき、そのまなざしはむしろ私たちを自由にするのです。

 主イエスは 2「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」との真実の力、 4「体を殺しても…それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」とそこに生まれる勇気、 7「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。」との平安の源泉を指し示しておられます。