「霊も魂も体も」

ルカによる福音書 11章37~54節
イザヤ書 43章21~25節

 

 YMCA・YWCAの逆三角形のマークは、Sprit・Mind・Bodyの調和を目指すものと聞きました。神が「あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り…」(Ⅰテサロニケ5:23)との聖書の人間理解を踏まえてのことと思います。

 主イエスはファリサイ派との論争において、40「外側を造られた神は、内側をもお造りになったではないか」と諭されました。私たちのすべては神によって造られ、それゆえに尊厳を帯びています。それなのに人間は、普段40「外側」ばかりを重んじて霊や魂(心)を軽んじながら、ひとたび体の欠乏が問題になると“それは心の問題だ”とその尊厳を貶めてきたのではないでしょうか(50節)。

 イザヤ43:21~は、私たちが神によって造られたとの栄誉を語ると共にその尊厳を貶めてきた人間の罪について指摘し、神はその25「背きの罪をぬぐ」われると告げました。その実現のために主イエスは「人間と同じ者」(フィリピ2:7)として来られ、霊も魂(心)も体も祝されるべきことを教え、そのために十字架に向かわれました。これら繰り返しての尊厳を頂いている霊も魂(心)も体を、私たちは守り大切にしていく責任を与えられていることを思います。

「窓を大きく開けて」

ルカによる福音書 11章33~36節
列王記下 6章15~17節

 

 詩人まど・みちお(本名:石田道雄)さんの名前は、いろんなものが見える“窓”、開ければ明るくなる“窓”から来ているのだそうです。自分の窓を大きく開けて世界を見つめ詩を作り続けておられるまどさんを指して、阪田寛夫さんは“まどさんは、いつも真面目に窓している”と言われました。

 34「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」との言葉は、神とその恵みに向けて窓を大きく開けることを教えています。私たちは自らを照らす光はわが内にあるとイメージしがちですが、その光はむしろ外から与えられるものだとこの箇所は言うのです(マタイ5:8)。

 時に聞くことのある“健全な精神は健全な身体に宿る”とは古代ローマの詩人ユウェナリスの言葉に遡りますが、本来、そうはならない人間の有様を風刺した言葉でした。この本来の意味を180度ねじ曲げて、ナチス・ドイツや日本が軍国主義教育に用いた言葉がいつのまにか定着してしまったのでした。

 混沌に「光あれ」(創世記1:3)と宣言し得る方の光をわが内に頂くための窓が、あなたがたにも備えられているのだと主は言われます。神とその恵みに向けてその窓を大きく開きたい、そう願います。

「ヨナのしるし」

ルカによる福音書 11章29~32節
ヨナ書 4章1~11節

 

 29「しるし」とは、平たく言えば“証拠”です。すでに20「神の指で」人々を解放しておられた主イエスになお、人々は救い主としての“証拠”を求めたのでした。

 これに対し主イエスは、与えられるのは29「ヨナのしるし」だけだと言われました。それはどういう意味だったでしょう。

 ヨナは旧約の時代、退廃の都ニネベに神の裁きを伝えるべく神から遣わされた人物です。ヨナは大任に尻込みして別の方向に逃げ出そうとしますが、神の手を逃れることはできず、ついにヨナは「三日三晩魚の腹の中で」(ヨナ2:1)過ごすことになったのでした。この「三日三晩…」をもって、主イエスはご自身が引き受ける十字架の死を指し示されたのです。救い主の29「しるし」とは、人々の思いとは全く違う形で与えられたのでした。

 さて改心したヨナがニネベの人々に裁きを告げると、人々は悔い改め、神も裁きを下すことを思い留まられました。一方、私の苦労はいったい何だったのかと怒るヨナに、神は一本のとうごまのエピソードと共に“どうして私は右も左もわきまえないこれらの人々を惜しまずにいられようか”との言葉を与えられ、この物語は閉じられます(同4:11)。

 主イエスは29「よこしま」な時代、右も左もわきまえず頑なな人々を嘆きつつも、その救いのために命を分け与えられたのです。今の時代と私たちも、この憐みと慈しみを頂いています。