「空き家にするな」

ルカによる福音書 11章14~26節
申命記 6章4~12節

 

 2月11日の“信教の自由を守る日”集会の準備を進める中で、今日の社会状況について考えさせられています。分析し始めれば切りはありませんが、既存の利益を守ることだけに汲汲としてこの社会に何を盛るのか考えることを置き去りにしてきたことによる空洞化、いっぽうそれを埋めようとしてのことなのか、憲法の示す基本的人権すら踏み越えようとする政治のポピュリズム化という危機が今日広がっているように思います。

 今日開いた箇所は14「悪霊」という古代の思考をとりながら、なお今日の私たちにメッセージを発しています。その人がしっかり立ち行くかどうかはどう守るかではなく、何を満たすかによる。内を空き家にすればもっと悪しきものが住み着くかもしれない(24節~)。また、単に強い者を迎えればよいのではない、何故なら22「もっと強い者が襲って」かもしれないから。真に権威あるものを迎え、内に満たしうるかが問われています。主イエスは20「神の国」の権威と力で人々を解放し、満たされました。

 これらのメッセージは、今日の社会をも問うものではないでしょうか。民意という名の人気があれば、憲法の枠すら踏み敷きうるとの風潮に危惧を覚えます。国の骨格たる憲法と、その骨格に何を盛るのか、じっくり考える必要を感じます。

「祈り得る幸い」

ルカによる福音書 11章1~13節
創世記 4章25~26節

 

 人はいつから祈るようになったのでしょう。創世記4:26は「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」と記します。カインの末裔が都市を建設して(17節)交易に文化に技術に豊かになりながらも(20~22節)、自己中心に走り24「復讐」し合う罪に陥っていった時代に、別の系譜の人間が主に祈り始めたのだと言うのです。人は争い傷つけ合うことも祈ることもできる、ここには人間の二面性が示されているように思います。

 主の祈りを教えられた主イエスが続けて語られた譬はよく読むと、いろいろなことを気づかせてくれます。この人は 6「何も出すものがない」ほど貧しい暮らしをしていましたが、大切な 6・8「友達」をたくさんもっていました。またこの人は自らのためではなく、その 6「友達」のために夜中走るのです。そして 5「パンを三つ貸してください」と願い続けた彼が得たのは、 8「必要なもの」でした。

 あなたは親身に労してもよい友人、また窮地に頼り得る友人をもっているかと主は問われています。また祈りはそのままのかたちでは応えられないかもしれないけれども、 9「求め」 9「探し」 9「門をたた」くならば必要は満たされる、と教えられています。旧約時代の人々は26「主の御名」によって祈りましたが、私たちはこの生きる地平へと降り立たれて友となられた主イエスの名によって祈い得る幸いを得ています。

「主なる神に仕え、隣人を愛しなさい」

ルカによる福音書 10章38~42節
申命記 4章1~2節

 

 今日開いた箇所は、よく39「主…に聞き入っていた」マリアと40「もてなしのため…立ち働いていた」マルタの対比、すなわちみ言葉に聴くことと奉仕の対比の物語だと語られます。前段のサマリア人の譬が27「隣人を…愛しなさい」との教えを噛み砕いたものだったので、続くこの物語で27「主を愛しなさい」との教えを展開しバランスをとっているのだ、との読み方もあります。

 でもこれですっきり納得できるでしょうか。プロテスタント教会の婦人会名として“マルタ会”はあっても“マリア会”はほとんど聞きません。ここにも、これらの読み方への無言の抵抗があると思うのは、読み込みすぎでしょうか。

 41「マルタ、マルタ」との主イエスの呼びかけには、ある種の憐れみと希望が込められているように思います(22:31、使徒9:4)。おそらく主イエスは、愛すべきマルタがちょっとしたズレを抱えこんでしまったことを忠告されたのです。それは慌しさの中で心を乱し、姉妹マリアから聴くことを42「取り上げ」ようとしたことでした。42「良い方」との訳には二者択一の響きがありますが、原語は“分け前、その人の分”との意味です。“いくら一生懸命でも、マリアの分を取り上げてはいけないよ”と主は言われたのです。

 では42「ただ一つ」の42「必要なこと」とは何でしょうか。それは、聴いて行うことであり、“主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕え”(派遣の言葉)ることです(申命記4:2)。

会津地区新年礼拝

ローマの信徒への手紙 13章11~14節 
イザヤ書 2章1~5節 

 

 新しい年2012年が与えられました。昨年3月11日の震災発生以来、多くの痛み・悲しみ・悩みの中を歩んでいますが、主はそうした只中においでになられたこと、そして平和の十字架を打ち立てられたこと(コロサイ1:20)を仰ぎ“主の年2012年おめでとう”と挨拶を交わしたく思います。

 聖書では“時”を表わす単語が数種使い分けられており、中でも“カイロス”との語はほかの時と取り替えることのできない特別な意味をもった瞬間を指します。ローマ13:11~で著者パウロはこの語を用い、私たちが歩む現実の時の意味は神の歴史に照らしてこそわかるのだと述べ、歴史が神の完成に到ることを知っている私たちは「闇」と見える中をも「日中を歩むように」進もうではないかと語っています。

 誕生の時・出会いの時・人生を完成して召される時…、私たちもそれぞれ大切なカイロスをもっていますが、この世界を大切に思うがゆえに神ご自身が人となって降られたクリスマスの出来事こそ最大のカイロスなのだと聖書は語ります。いま私たちはこの新年に与えられた特別な意味を訊ねて、この礼拝に集ってきました。そして思うのです、昨年の3月11日もカイロスだったのではないかと。あの時をほかの時と取り替えることはできないからです。

 あのとき私は、牧師館の中にいました。幼稚園の保育中でしたので、激しく揺れる階段を転げ落ちるように下り、ガラスが破れ砕けた会堂を走り抜け、園舎方面に向かいました。4人の園児は(幼稚園は3月末で休園が決まっており、これが全園児でした)2人の教諭の適切な誘導によって、前庭中央に避難し地面に伏していました。会堂の塔がねじれるように動いていました。数分後、やっと揺れが収まったとき私は“あぁ大変だったけれどもこれで終わった”と思いました。が、全く愚かなことでした。これは終わりではなく始まりでした。このとき津波に教会員が2名、求道者のお母さんが1名、のみ込まれようとしていたことを私は想像することができませんでした。

 神さまの眼差しと十字架の憐みから洩れるところ・人はないとのパウロの言葉を、私はこのときにも仰ぎたく思います。では、あの時にどういう意味があったのでしょう。答はなかなか与えられず、或いは共通した答はないのかもしれませんが、それを問うことをやめてはいけないのだと思っています。教区の集いでお招きした田中優さんはあの3月11日を、二度と放射能汚染を繰り返さないための転換点としていく夢と責務を抱いていると語られました。当教会のある男性はあの3月11日を経験して、いかなる時にも神さまを仰ぐしかないのだとの決断をしてクリスマスに洗礼を受けられました。そのカイロスの意味は何か。難しい問いですが、これを祈りに託しみ旨を求めつつ、与えられた2012年を歩んでいきたい。そう願います。

 

(2012年1月2日 会津若松教会にて)

新年礼拝 「和解と平和の十字架が」

コロサイの信徒への手紙 1章19~23節
イザヤ書 40章27~31節

 

 クリスマス同様、新しい年に際しても“おめでとう”と言えるのかと自問せざるを得ません。が、やはり“おめでとう!”と挨拶を交わしたく思います。なぜなら20「天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物」は主イエスの20「十字架」の憐れみを受け、その20「和解」にあずかっているからです。当時コロサイ教会は、神の力に満たされるにはキリストと結ばれただけでは不十分だと囁く異端の誘惑を受けていました。これに対しこの手紙は、キリストこそすべてを満たしておられる方であって(15~17節等)、その眼差しと働きと臨在から洩れる場所はないのだと力強く語っています。

 一方これを信じようとするとき、神はなぜこんな苦難をも与えられるのかとの問いに悩むことにもなります(24節)。でも今日私たちは、今年3月11日の地震にどういう意味があったのかをそれぞれなお問い考えていかねばならないのではないでしょうか。

 21~22節は、どうにもならない力に組み伏せられ呻吟している世界に主ご自身が身を置かれ命を分け与えられたことを通して、和解と平和が与えられたことを指し示しています。問いになかなか答は与えられず、み旨は明らかになりません。でも、神の目にこの地の今は決して見過ごされていない(イザヤ40:27~)ことを仰いで、今年の歩みを踏み出して行きたいと願います。