クリスマス礼拝 「朗報を伝えた者」

ルカによる福音書 2章8~20節
イザヤ書 52章7~10節

 

 2週続けて、救い主の母となるとの選びを受けたマリアの姿を見てきました。しかしその「聖なる者、神の子」(1:35)の誕生に際して、十分な場所も与えられず(7節)、天使も天の軍勢も現れることはなかったのです。

 ところがその晩遅く、馬小屋を羊飼いたちが訪れました。彼らは10「民全体に与えられる大きな喜びを告げる…あなたがたのために救い主がお生まれになった」と天使に告げられたこと、天の軍勢が“天に栄光、地に平和”と賛美したことを語ったのです。こうした証言者を与えられて、マリア・ヨセフはどれだけうれしかったことでしょう。さらに18「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とあります。

 イザヤ52:7~に「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」とあります。これはB.C.6世紀、捕囚からの解放を知らせる伝令のことでした。いずれにしても、サンダル履きで「山々を行き巡り…伝える者の足」は汚れて傷ついているに違いないのですが、預言者はそれを「美しい」と語りました。

 クリスマスの晩、朗報をまず伝えられ、そして証言したのは粗野で不潔と疎んじられていた羊飼いたちでした。でもそこにはマリアが思い巡らしたように、今や主なる神が小さな一人一人のところに降りて来て友となられ、平和を告げられるのだとの喜ばしいメッセージが込められていたのです。

「響き合った希望」

ルカによる福音書 1章39~45節
詩編 133編1~3節

 

 詩編133編は 1「兄弟が共に座っている」ことを、 1「なんという恵み、なんという喜び」と歌います。あたりまえのことをなぜとも思いますが、聖書はその冒頭から兄弟カインとアベルの確執を(創世記4章)、兄弟エサウとヤコブの和解を描くのです(同33章)。兄弟関係を表すbrotherhoodとの語には、“同胞”との意味もあります。

 マリアとエリサベトとの出会いの箇所を開き、一色義子牧師(経堂緑岡教会協力牧師)はここに美しく深いsisterhood、すなわち女性ならではの敬愛と信頼の響き合いがあると語っておられます。先週も振り返ったように、救い主の母になるとの選びはマリアにとって大きな試練でもありました。たじろぐマリアに、天使は親類のエリサベトを訪ねてごらんなさいと告げたのです(36節)。年老いてから救い主の先駆者ヨハネを宿すという同様の出来事を与えられていたエリサベト(24節)との出会いは、マリアにとって大きな支え・励ましとなったことでしょう。

 このとき41「その胎内の子がおどった」といいます。与えられたこの出会いと響き合いにあって、与えられた試練の中にある深い42「祝福」大きな45「幸い」を二人は見出していくことができたことを思います。

「幸せな者と言うでしょう」

ルカによる福音書 1章26~38節
イザヤ書 7章14節

 

 いわゆる受胎告知に際し、天使ガブリエルは28「おめでとう、恵まれた方」とマリアに呼びかけました。しかし、結婚前に子を宿すことは婚約破棄、さらには石打ち刑に処される危険もありました。主イエス誕生後すぐ老シメオンに「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(2:35)と言われたように、母マリアは息子イエスのことでたびたび気を揉まされ(2:48、8:19、マルコ3:21等)、ついにはその十字架刑を目の当たりにすることとなったのです(ヨハネ19:25)。いったいどこに30「恵み」はあったのでしょう。

 こうしてみるとマリアが歌っている48「わたしを幸いな者というでしょう」との言葉には、複雑な思いが含まれているように思います。神の選びという介入によって、マリアの人生は大きく動きました。この思いもかけない出来事を、マリアは37「神にできないことは何一つない」その28「主があなたと共におられる」との言葉を頼りにしつつ、受け止めていったのです。

 私たちの歩みにも、時に想定外の出来事が起こります。48「幸い」とはわが身の楽しいことうれしいことを数えることではなく、どんな時にも信頼し得る者と共にその道を歩んでいけることだとマリアの姿は語っているように思います。

「荒れ野に広い道を通せ」

ルカによる福音書 1章5~17節
イザヤ書 40章1~5節

 

 主イエス降誕に先立つ、洗礼者ヨハネ誕生の告知の箇所を開きました。彼はイザヤ40章に預言された 3「主のために、荒れ野に道を備え」る働きを、主より託されていました(17節、3:1~)。

 イザヤ書40章の預言はB.C.6世紀、イスラエルの罪のゆえに起こった捕囚がついに終わり、民の帰還と共に 5「主の栄光」が都エルサレムに帰られることを語っています。しかしその都は50年前の戦乱時の廃墟のままでした。即ち 3「主のため」の 3「道」とは、罪によってもたらされた悲惨の現実の只中に主ご自身が来られるための道だったのです。私たちは、震災そして放射能汚染の今日にも響くものとして、このメッセージを受け取りたく思います。

 この主のために 3「道を備え」るということはどういうことでしょう。洗礼者ヨハネが呼びかけた「悔い改め」(3:3)とは方向転換を意味します。田中優さん(NPO未来バンク理事長)は先日の教区の集いでの講演で、あの悲惨があった3.11を私たちはよりよき環境を未来に残すための転換点としなければと語られました。私たちは漫然と主をお迎えすることはできません。ふさわしい17「準備」を考え、整えよと洗礼者ヨハネは呼びかけています。