「あなたがたは時を知っている」

ローマの信徒への手紙 13章11~14節
イザヤ書 2章1~5節

 

 震災発生8ヶ月余を経て、なおこの時代と地域とは震災のただ中を歩み、その道がいつまで続くのかはよく見えません。そうした中で、教会暦が改まるアドベント(待降節)を迎えました。

 今日の箇所11節には二つ「時」の語が現れますが、前者は神の歴史に位置づけられた時を指すカイロス、後者は現実世界の時を表すホーラと原語では使い分けられています。即ち今がどういう時でなにを為すべきかは、神の歴史に照らしてこそリアルにわかる、と語られているのです。

 福音にあって、神の歴史は希望と完成に向かうと告げられています。だから12「夜は更け」12「闇」が覆うように見える世にあっても、私たちは13「日中を歩むように」進みたく願います。

 大国の軍事力の脅威に人々が右往左往したB.C.7世紀、預言者イザヤも強烈に 2「終わりの日」の姿を預言し、その 5「主の光の中を歩もう」と語りました。諸力相い働くこの今に 4「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」その時を仰ぐことは非現実的でしょうか。決してそんなことはありません。この言葉は、ニューヨークの国連本部ビル前の壁に刻まれています。

2011 クリスマスメッセージ

 聖書の原語では“時”を表わす単語が、“クロノス”と“カイロス”と時々で使い分けられています。“クロノス”は、機械的に流れゆくふつうの時、“カイロス”はほかの時と取り替えることのできない特別な意味をもった瞬間を指します。

 誕生の時・出会いの時・人生を完成して召される時…、私たちもそれぞれ大切なカイロスをもっていますが、この世界を大切に思うがゆえに神ご自身が人となって降られたクリスマスの出来事こそ最大のカイロスなのだと聖書は語ります(これを受け止めて歴史は、キリスト誕生を境としてB.C. 、A.D. と区切られています)。

 いっぽう思うのです、今年の3月11日もカイロスだったのではないかと。あの時をほかの時と取り替えることはできないからです。では、あの時にどういう意味があったのでしょう。答はなかなか与えられないのですが、少なくとも今それを問うことをやめてはいけないのだと思っています。他方3月11日を、二度と同じ悲しみを繰り返さないための転換点としていく責務を私たちは負っている、とある人から教えられました。復興を求める働き、安全を求める働き、共生を求める働き、あの大きな負のカイロスを少しでもプラスに転じていこうとの取り組みは今も続けられています。

「W.W.J.D」

ルカによる福音書 10章25~37節
イザヤ書 6章8節

 

 N.B.Aのバスケットボール・プレイヤーをはじめスポーツ選手が着けていたことから、W.W.J.Dと刻んだリストバンドが日本でも流行したことがありました。これはWhat Would Jesus Do?の略で、まずこれを見て“イエスさまだったらどうするだろう”と考え行動しようとのグッズなのです。

 M.L.キング牧師は1963年に出版した説教集“STRENGTH TO LOVE”(邦訳『汝の敵を愛せよ』)の中で、今日のサマリア人の譬を論じています。

 半殺しにされた人を見捨てて行ってしまった31「祭司」や32「レビ人」と、当時の黒人差別の課題を重ね合わせつつキング牧師がまず問うているのは、私たちは29「隣人」の範囲を勝手に限定していないか、という点です。善良な人間が不当で残酷な黒人差別をなぜ放置できるのか、それはアメリカ独立宣言(1776年)の“すべての人間は平等に造られている”を勝手に“すべての白人は平等に造られている”と読み替えているからだ、と指摘しています。

 一方、33「サマリア人」は自らの危険も顧みずなぜこの人を助け起こすことができたのか、それは彼が“もし助けなかったら、この人はどうなるだろう”と“私”ではなく出会ったその人の立場で考えたからだ、とキング牧師は言います。

 “私”を越える視点に導かれること、それはたやすいことではありませんが、そこから私と社会を変える一歩は始まるのだと思います。

収穫感謝合同礼拝 「私には夢がある」

マルコによる福音書 4章30~32節

 

 1963年8月28日、アメリカ・ワシントン記念塔広場に集まった25万人を前に、M.L.キング牧師は“私には夢がある”と演説しました。その夢とは“いつの日かジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の息子たちと奴隷主の息子たちが兄弟愛のテーブルにつくようになること”でした。

 アメリカ南部では奴隷解放宣言から101年を経たこの当時にも、黒人と白人の学校やレストラン、バス席をも分けて差別する法律が生きていました。こうした法律を無くし差別を撤廃しようと多くの人が立ち上がったのでした。

 法律は無くすことができても、人の心から差別をぬぐい去り兄弟愛に生きる社会をつくる道は遥か先のことと思えました。でもキング牧師は「険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れる」(イザヤ40:4-5)との聖書の言葉を引いて、“こういう信仰があれば、絶望の山から希望の石を切り出すことができる…不協和音を兄弟愛のシンフォニーに変えることができる…いつかは自由になると信じることができるのだ”と語りかけたのです。

 翌年、公民権法が成立し、悪法は撤廃されました。キング牧師はなお自由と平和を求めて働き続けましたが、1968年暗殺の銃弾に倒れたのです。墓碑にはあの演説の最後に語った黒人霊歌の一節が刻まれました。“ついに自由になった、ついに自由になった、全能の神はほむべきかな、我々はついに自由になった”。皆が兄弟愛に、そして自由と平和に生きる世界を求める働きは、なお多くの人に受け継がれています。

召天者記念礼拝 「真に思い起こすべきこと」

ペトロの手紙 二 1章3~15節
イザヤ書 44章21~23節

 

 今日の聖書の箇所は、しきりに12・13・14「思い出」させたいと繰り返しています。限りある人生において、私たちはほんとうに価値あるものを選び取りたく願います。しかし罪の力は私たちの目を曇らせ(9節)、真に思い起こすべきことと必ずしも大切ではないことをしばしば取り違えさせるからです。

 生が限りあるものであることは本当に悲しむべきことでしょうか。古来、人間は不老不死を夢みてきましたが、それが文字通り実現するとしたら果たして魅力的でしょうか。今日の箇所は私たちの今の生が12「仮の宿」だと語ります。

 この語においてまず指し示されているのは、私たちの生に終着があるとの厳粛な事実です。しかしその終着は、ふるさとへの帰着なのだとの示唆がここにあります。私たちが今生きているのは、神に10「召され…選ばれ」命を分け与えられてこの旅路に送り出されてきたのだということを思い起こすときに、生により明確な意味と方向が与えられるのです(5~8節)。このことを共々に思い起こすとき、15「世を去った後も」私たちはなお神にあってつながり得ることを知るでしょう。