「分断の力に抗して」

ルカによる福音書 9章49~56節
詩編 141編1~10節

 

 弟子たちが主イエスの名による権能を与えられたのは、人々を縛り支配する世の諸力、49「悪霊」から解放するためでした(9:1、10:17~)。ところがこれを弟子たちは、他者を排するために用いようとしたのです(49・54節)。47「子供」はけんかをしても仲直りができます。でも大人の縄張り争いの論理は敵意の垣根を増し、やがて流血の事態を招くのです。

 詩141編の詩人は悪意をもって攻撃してくる者に怒りを顕わにしつつも、同じ敵意と悪意に自らも陥ることを恐れて(3~5節)あなたの思いをもって私を満たしてくださいと祈るのです(8節)。私たちは敵対する者以上に、世と人に働いてこれを対立へと誘い分断していく諸力を警戒せねばなりません(エフェソ6:12)。

 主イエスは50「…逆らわない者は…味方」と言われました。神のわざ・聖霊は人の狭い了見を超え出て豊かに働きます。被災に立ち向かう中で、諸教派・グループの垣根を越えた協力・協働が生まれました。犠牲者を弔う奉仕をきっかけとして、仏教者とも協力しての傾聴ボランティアや相談室の働きも始まっています。10月からはラジオ番組 Café de Monk(Date fm 毎週土曜日8:00~8:25)も開始されます。

「この子どもを」

ルカによる福音書 9章46~48節
イザヤ書 1章15~20節

 

 もと社会科教師の久世そらち牧師(札幌北部教会)は、47「一人の子供」を町の孤児だったとしてこの箇所を物語っています(「福音と世界」1999年1月号)。聖書の時代、戦災や捨てられたりして孤児となる子どもは珍しくありませんでした(エゼキエル16:5、イザヤ1:17等)。

 そうだとすると、48「この子供」はきれいではなかったでしょう。お行儀もよくなかったでしょう。47節には、走り回っている子どもを主イエスがひっつかまえて、との響きがあります。

 そして主イエスは48「この子供を受け入れる者は…」と言われます。他の子どもではなくこの子ども、皆に無視され、疎んじられ、追いやられていたこの子どもを受け入れる者がキリストを受け入れる者であり、神を受け入れる者なのだと言われるのです。

 このとき弟子たちは46「誰がいちばん偉いかという議論」をしていました。続く49節~で、弟子たちは縄張り争いに情熱を燃やしています。いずれも頑なな大人の姿です。

 けんかをしても子どもは仲直りができます。イザヤ書冒頭で主は民の罪と悪を繰り返し指摘しつつも、18「論じ合おうではないか、…お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる」と赦しと転換の可能性を告げられました。主は忍耐をもってなお私たちに語りかけておられます。

「東からはじまること」

コリントの信徒への手紙 一 1章18~24節
詩編 107編1~9節

 

 震災に際し、教会にまず与えられた問いは“なぜこのような地震が起こるのか、神はどこにいるのか”でした。私たちは背後にある現実の厳しさを忘れることなく、この問いに向き合わねばなりません。私たちの内からはなかなか答は見い出せませんが、聖書は“神などいない”と叫びたくなるその現実に主イエスご自身が立たれたことを告げています(マルコ15:33~)。そう叫びたくなるところにこそ神は共におられることを見つめ、語り、証ししていく責務が教会には与えられていることを思います。

 もうひとつ目の当たりにしたのは、窮地にあって自然に助け合う人々の姿でした。今も教会には多くのボランティアが訪れて働きを提供すると共に、被災地から何かを学んで帰っていきます。

 先日、毎週のように被災地に入って働きを続けている奥田知志牧師(バプテスト連盟東八幡教会、北九州ホームレス支援機構代表)の講演を聴く機会がありました。テレビは盛んに“がんばろう”と東にエールを送っているけれども、今必要なのは大きな十字架が立った東の地からの言葉に耳を傾けることではないのか、教会はそこで生ける主に出会い得るのではないのかとの問いかけを頂きました。

 発生から半年を経ましたが、震災はなお現在進行形です。そこから発せられる言葉に聞き、生きて働かれる主に出会いたく願います。

「さあ山から下りよう」

ルカによる福音書 9章28~36節
出エジプト記 33章7~11節

 

 弟子ペトロ・ヨハネ・ヤコブは主イエスに連れられた山上で、その姿が29「真っ白に」輝きだした主イエスが、旧約の律法を代表する30「モーセ」、預言を代表する30「エリヤ」と語り合うという驚くべき光景を目撃しました。彼らは主イエスの31「栄光」を垣間見たのです。このすばらしい光景にペトロは33「仮小屋を三つ建てましょう」と、この栄光がいつまでも残るべく記念しようと言いました。

 思えばモーセもエリヤもホレブ山で主なる神と出会い、その声を聞きました(出エジプト3:1~、列王記上19:8~)。そして与えられた使命を果たすべく、山を降りていったのです。主イエスの使命とは、十字架によって自らの命を分け与えることでした。この使命に向かって主イエスは37「山を下り」、再び人々と出会いながら31「エルサレム」へと進まれたのでした(51節)。

 33「仮小屋」とは、かつて遊牧民だったイスラエルの民が神を礼拝した天幕のことです(出エジプト33:7)。礼拝は、山に登って主のみ旨を仰ぐことに似ています。でもそれはその喜びに留まるためではありません。あなたに与えられた使命を胸に、さあ山から下りて日々に進みゆこうと主は誘われるのです。