「ただ開かれているだけでなく」

ヨハネによる福音書 14章15~31節
申命記 8章2~6節

 

 説教  八重樫 捷朗 兄

 

「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」                              コリントの信徒への手紙 一 10:13

 《逃れる道》と訳されている言葉の原語は「エクバシス」。この言葉を逃避としての「逃げる道」と訳すのではなく、新しい存在として生まれ変わるための「出口」と訳すのがふさわしいと牧会カウンセリングの授業で習いました。パウロをはじめ初代教会の信仰者たちは、人間にとって苦難や試練は不可避的なものと理解していました。だから苦難や試練に積極的に立ち向かいそれを神の「摂理」として解釈していくと、それを打ち破る「出口」が神の配慮によって用意されているのです。

 教会が神の栄光を表す集団として成熟していくには、自己目的の集団として成長することから、この世のために教会がどの視座に立つかが問われて来るのではないかと思われます。福音は誰に向けられて語られているのか、謙虚になり、罪許された罪人の教会としてこの世で小さくされている弱い者の側に立つ時に、福音はこの世に浸透していくのではないかと思います。

 イエスによって示された「命を生きる」ということは小さくされている人々と重荷を分ちあい、人と人との関係の暖かさにつらなり、つなげていく生きかたです。キリスト者にとっては、神の愛を信じ、神に望みをおきながら、イエスに従う道を生きていくことです。

「まことの神と辿る旅」

ルカによる福音書 9章18~27節
申命記 20章1~9節

 

 召された弟子たちに主イエスが20「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われ、ペトロが見事20「神からのメシアです」と告白した場面です。ところが主イエスに、それを喜んだとか評価したといった様子はありません。むしろご自身の受難と死という使命を、弟子たちに明かされたのでした。

 23節は毎週の招詞で慣れ親しんでいる言葉ですが、ルカ福音書は23「日々」という言葉を加えて強調しています。信仰は正しい告白一回で完結するものではなく、時に失敗や誤りを含みつつも23「日々」の旅路において従ってゆくものだからです。ペトロは十字架に際して主を否むという痛恨の過ちを犯し(22:54~)、それを赦されたことを糧に主に従う生涯を歩んだのでした(22:32)。

 申命記20章は戦争という火急の事態にも、家の 5「奉献」、 6「収穫」、 7「結婚」といった日常が疎かにされてはならないことを告げています。主イエスは戦争を礼拝に置きかえ、日々の歩みにおいて神の言葉を生きる大切さを教えられました(マタイ5:23~)。

 讃美歌545番は、人が誕生し成長をとげ再び神に召されるまでの旅路を歌っています。信仰者の旅路は、曲折がある中にも伴われるまことの神と共に辿りゆく歩みなのです。

平和主日礼拝 「平和を宣言する主に導かれ」

詩編 85編9~14節
コリントの信徒への手紙 二 5章16~21節

 

 9「平和」という言葉に、どういうあり様を思い浮かべるでしょうか。11「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」、この箇所は聖書の告げる 9「平和」が社会的なことにとどまらず、天地を満たし地の13「実り」をも生み出す恵みの力であることを告げています。地震・津波・原発事故で住むこと、食べること、それらを育てることも大きく傷ついた今は、この 9「平和」が損なわれた時代なのだと思います。

 でも人間はこれまで兵器をつくり戦争を起こして、自らこの 9「平和」を破壊するという 9「愚かなふるまい」を繰り返してきました。今日も共に朗読する“戦争責任告白”は、それが決して他人事ではなく私たちの課題であることを示しています。

 でも主はそうした課題と悩みのある中に(5~8節)、 9「平和」の訪れと実現を 9「宣言され」ます。津波の跡地に草花が生え出てきたように、主の望まれる 9「平和」はこの今も実りに向けて育ちゆくのです。震災からの立ち上がりは、かつての 9「愚かなふるまい」を悔い、11「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけ」するあり様を目指すものでなければなりません。そして私たち一人一人にも、この「和解のために奉仕する任務」(Ⅱコリント5:18)が与えられています。