「主の名と言葉にあって」

ルカによる福音書 8章19~21節
歴代誌下 6章17~25節

 

 19「母」19「兄弟」…といった血縁の関係の中で、私たちは守り育まれ成長していきます。日頃、そうした血縁・家族が“私”を支え成り立たせる大切で基本的な関係であることは間違いないでしょう。が、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)と語られているように、血縁を超える人格の関係で人は新たに結ばれ新しいステージを歩み出していくのです。

 21「わたしの母、私の兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たち」との言葉で、主イエスは21「神の言葉」こそがより強固に“私”を支え成り立たせ、人を繋ぎゆくものであることを教えられました。

 エルサレム神殿が完成したときソロモン王は、人の造った物など創造者にして支配者なる神をお納めすることはできないとしながらも(18節)、20「ここはあなたが御名を置くと仰せになった所です」と祈りました。同じように主の名が置かれたこの教会で、この6月敬愛する姉妹の葬儀、結婚式が行われ、昨日は幼稚園37年の歩みを感謝する礼拝がもたれました。これからも主の名と言葉にあって、喜びも悲しみも恵みをも分かちあっていく群れでありたいと願います。

子どもの日・花の日合同礼拝 「隣り人になりなさい」

ルカによる福音書 10章25~37節

 

 地震から3日後、津波が押し寄せた石巻栄光教会員石井さんのお宅を訪ねました。まだ水道も電気もこない大変な中に、お父さん・お母さん・娘さんご夫婦と赤ちゃん、みんなが身を寄せていましたが、加えて見知らぬ青年が一人いて仙台まで乗せていって欲しいと頼まれました。聞くと彼は女川での仕事の帰り津波に襲われ、自動車から脱出、雪の降る中一晩を工場の屋根で過ごし、翌日からいろんな人の手助けをしながら歩いて仙台を目指していたのでした。石井のお母さんも大きな荷物を運んでいるのを助けてもらって、この見知らぬ青年を家に泊めていたのでした。

 たくさんの人が悲しい思い・大変な思いをしている震災ですが、このような助け合いもいっぱいありました。その晩仙台の会社に帰り着いた時、青年は待ちわびていた同僚たちにもみくちゃにされました。

 27「隣人を自分のように愛しなさい」とお話をしたイエス様は、29「では、わたしの隣人とはだれですか」と訊ねられました。このときイエス様は追いはぎに襲われて倒れている人を助け起こした一人のサマリア人のお話をして、“あなたも隣り人になりなさい”と教えられました。小さなことでもお互い隣り人になるとき、そこに出会いとうれしさが生まれます。あのとき石井さんも青年も、お互いが隣り人になったのだと思います。

ペンテコステ礼拝 「教会の誕生日」

ヨエル書 3章1~5節
エフェソの信徒への手紙 2章14~22節

 

 ペンテコステは直訳すると“第50”であり、過越祭から50日後という意味です。主イエスの十字架刑は過越祭の時でしたから(ルカ21:7)、弟子たちにとってそれは主の死から過ごした日数でした。この日突然降った聖霊の働きかけにあって弟子たちは大きな力を得、扉を開け放ってなお敵意満ちる中にも証しする者として出て行きました(使徒2:1~)。聖霊降臨日が教会の誕生日と言われるゆえんです。

 この聖霊降臨の出来事を使徒ペトロは、 1「すべての人に」神の霊が注がれて課題ある中にも希望を仰ぐようになるとの預言(ヨエル3:1~)の成就だと語りました(使徒2:14~)。

 エフェソの信徒への手紙は、遠大な神の救いの計画の中心におられるキリストと、私たちは教会にあって結び合わされるのだと強調します。今日の箇所で、教会はこの世界にあって神と人、人と人の16「和解」の責務を担い、主ご自身と組み上げられて希望の完成を仰ぎつつ歩む(20~22節)群れであると語られています。

 震災の今、生きて働かれる主に励まされ力を分け与えられて、なしうるわざ・なすべきわざに向かいたく思います。

「耕され実り待つ土地」

ルカによる福音書 8章4~8節
イザヤ書 28章23~29節

 

 地震、津波からの立ち上がりも長い道程となりましょうが、原発事故による半減期30年(セシウム137)といった放射能汚染の課題が影を落としています。自らを過信して力の用い方を誤った人間のわざが、課題をいっそう大きく困難なものにしています。

 よく土や種、その成長と実りを譬として語られた主イエスは、今日の箇所で四つの土地に落ちた種の話をされています。旧約外典のエズラ記(ラテン語)によく似た話がありますが、ここでは人が種に譬えられ「この世に蒔かれた人々がすべて救われるわけではない」(同8:41)と語られるのに対し、主イエスは 5「種」とは11「神の言葉」であって、それを受け止める人の中に四つの土地のあり様があると語られます(11節~)。神の言葉は 8「良い土地」に落ちるならば必ずや 8「生え出て、百倍の実を結」ぶのだ、と主は言われています。

 私の中に四つの土地があります。農夫は 5「道端」や 6「石地」や 6「茨」の土地を 8「良い土地」目指して苦闘して耕すのです。併せて開いた預言書に24「耕すものは一日中耕すだけだろうか」、時が来れば喜びの収穫に向けて種蒔きが始まると告げられています。苦闘の続く今、これらの言葉に聞きたいと思うのです。

 ただ、よく耕された 8「良い土地」も人間のわざによって汚染させられた今日のあり様を主はどうご覧になって、どう語られるのだろうか、そんなことを考えます。