「その涙に触れて」

ルカによる福音書 7章36~50節
創世記 21章14~21節

 

 主イエスの時代、大切な客の44「足を洗」い、頬に45「接吻」し、46「頭に香油を塗」るのが礼儀でした。ファリサイ派40「シモン」はそれを怠ったのですが、家に入ってきた女性が主イエスの足を自らの38「涙でぬらし…髪の毛でぬぐい」38「接吻して香油を塗った」のでした。

 ファリサイ派40「シモン」は、37「罪深い女」というこの女性の立場に目をとめました(39節)。一方、主イエスはくず折れて顔を上げることもできないこの女性の涙に目をとめられたのでした。

 人はなぜ泣くのか、これは結構難問です。涙が目のゴミを洗い流すように、整理のつかない心のわだかまりを泣いて掃きだすのだ、という説があります。震災というまさに人の力で整理できないことに直面して、いま多くの涙が流されています。小さな者の泣き声を聞きあげられる神(創21:17)、涙に目をとめられる主は、今日の涙をも受けとめ、50「安心して行きなさい」と言っておられることを思います。

 先週開いた7:32には、共に喜び共に泣くところに神の救いは訪れることが指し示されていました。主が目をとめられるところに、あなたも赴きなさいと私たちは呼びかけられています。

「まだ待たなければなりませんか」

ルカによる福音書 7章18~35節
ハガイ書 2章1~9節

 

 震災から2ヶ月を経て、疲れや不安などの課題が大きくなってきています。B.C.520年、戦後の荒廃の中エルサレム神殿再建工事再開に取り組んだ民もまた、ひと月経っても 3「目に映るのは無に等しい」というありさまに疲れと落胆を覚えました。特に 2「昔の栄光のときの…神殿」を知る者にとって、再建の道のりは余りに遠く感じられたのでした。そうした民に主は預言者ハガイを通じて、今 4「わたしはお前たちと共にいる」のだと励まし、再建される器はたとえ小さくても 9「新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさ」りそこに 9「わたしは平和を与える」と告げたのでした。

 救いの到来を待ち望んでいた洗礼者ヨハネがその時をまだ1920「待たなければなりませんか」と訊ねたとき、困難な中にも小さな一人が助け起こされている(22節)今、そのただ中に神の国の救いは訪れているのだと主イエスは答えられました。

 津波被災地の小学校に勤務する友人から、日々成長する子どもたちには“いつかの復興”もさることながら、“足りないながらも今”が大切なのだと教えられました。

 “笛吹けど踊らず”との表現は、32節の譬えに由来します。主はこうしたシニカルな態度こそ31「今の時代」の罪なのだと指摘されました。たとえ小さなことにも共に喜び共に泣くごとに、神の国の喜びは今そこに現れるのだと私たちは呼びかけられています。

「ふさわしい人」

ルカによる福音書 7章1~10節
詩編 131編1~3節

 

 震災の巨大な被害に為しうることが余りに小さいことを痛感する一方、ストレスのせいもあるのでしょう、いつもより多弁な自らにも気づきます。そんな中、 2「…魂を沈黙させます。わたしの魂を…幼子のようにします。」との言葉が与えられました。受胎告知を受けたマリアが“私は主を大きくし、自らを小さくします”と歌って、 1「わたしの及ばぬ驚くべきこと」を受けとめていった事を思い起こします(ルカ1:46~)。

 2「百人隊長」とは、占領統治の最前線にあったローマ軍の下級士官です。こうした者が 3「ユダヤ人の長老たち」から好意をもって迎えられていることは驚くべきことです。“使いものになるかどうか”が価値基準である軍隊にあって、この隊長は 2「病気で死にかかっていた」部下の癒しを主イエスに求めたのでした。

 長老たちはこの隊長のことを 4「あの方は…ふさわしい人です」と推薦しましたが、当の本人は 7「ふさわしくない」者です、と言いました。それは、占領と被占領、軍隊と人間というジレンマの中で悩みつつ歩んできたこの人の本心の吐露だったことでしょう。そうした中で神のわざを仰いだ隊長に目をとめて、主イエスは 9「これほどの信仰を見たことがない」と言われました。ストレスやジレンマを抱えつつも、人は生きていかねばなりません。でも主イエスはそうした一人一人に目をとめ、そのわざを施されるのです。

「主の憐れみを求め、主の宣教に従おう」

マタイによる福音書 9章35~38節
ミカ書 7章14節

 

 宮城野区蒲生のイエス福音教団シーサイド・バイブル・チャペルは津波で会堂全部が流失しましたが、会堂跡に4月5日十字架塔が再建されました。

 震災は人間の力の小ささ、その有限性をあからさまにしました。が、その人の力の及ばぬところに、主イエスはそのわざと命を注ぎ出して希望の十字架を据えられたのです。

 2011年度私たちはマタイ9:35の聖句を掲げ、“主の憐れみを求め、主の宣教に従おう”を主題として歩みます。

 このとき主イエスは、人々が36「飼い主のいない羊のように」分断され打ちひしがれているあり様をわが痛みとして受けとめ36「深く憐れまれた」のでした。そして主は35「宣べ伝え」(ケリューソー)35「教え」(ディダスコー)35「いやされた」(セラペオー)という仕方で神の国の福音を人々に分け与えられました。

 代々の教会はこの主に従って、伝道・教育・奉仕の広がりをもって宣教を展開してきました。私たちも今、この仙台で主の宣教に従い、その歩みを通して十字架の主を指し示していきたく思います。