イースター礼拝 「ガリラヤでお目にかかれる」

マルコによる福音書 16章1~8節
詩編 90編13~17節

 

 東日本大震災が発生した3月11日は、主イエスの受難を想起するレント(受難節)3日目でした。この世とそこに生きる者を愛するがゆえに十字架を引き受けられた主は、今もこの地に広がる嘆きと叫びを共にしてくださっていることを仰ぎます。

 そして、私たちは2011年のイースター(復活日)を迎えました。主の復活は、ライフラインや鉄道往来の復活とは異なります。主イエスを求める女性たちに、み使いは 6「あの方は復活なさって、ここにはおられない」 7「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる」と告げました。 7「ガリラヤ」とは都エルサレムからは粗野な田舎と見なされた辺境でしたが、弟子たちにとっては懐かしい故郷でした。喜びも悲しみも繰り広げられる現実の生活があるところ、復活の主はその只中に立って今も働いておられる、と語られているのです。

 続けて 7「そこでお目にかかれる」と呼びかけられています。若者はボランティアに赴き、多くの者は見い出したなし得るわざに向かっています。それらの一つ一つは、復活の主にお目にかかるべく訪ねゆく旅なのだと思います。

「その叫びによって」

マルコによる福音書 15章33~41節
詩編 139編1~12節

 

 3月11日とくに津波襲来にあって、たくさんの叫びと思いが響いたはずです。その多くは“なぜ”という問いに連なるものだったでしょう。しかし、その問いは響いても応えられることなく、私たちは戸惑いたじろいで立ちつくすばかりです。

 “…死は謎に満ちて定義しがたい。…定義することができないのに、その到来だけは決まっているように思える。何となれば、すべての人間が死ぬべきものだからである。…死を定義づけることを知っている者は、その主人となることができるであろう。…”と述べるドイツの神学者E.ユンゲルの言葉に接しました。私たちは地震に、津波に、死に向かって“なぜ”と問いますが、その答は与えられないのです。

 3月11日はレント3日目でした。私たちは、私たちを愛されるがゆえにこの死を引き受けられた主イエスを知っています。主は神の子だから、死を恐れなかったのでしょうか。そうではありません。主もまた光の見えない戸惑いたじろぎの中から34「なぜわたしをお見捨てになったのですか」との叫びを発せられたのです。

 こうして死に降られた主は復活を遂げ、今も生きて伴っておられるとの言葉を私たちは聞いています。光の見えない戸惑いたじろぎを潜られた主ご自身が、希望の光となられたのです。この光を仰ぎつつ、今に向かい合いたいと思います。

「丸太を取り除こう」

ルカによる福音書 6章37~42節
詩編 133編1~3節

 

 震災直後の石巻では、流れ出した製紙材料の丸太が道をふさぐ光景が多く見られました。41「丸太」とは他者との行き来をふさぐものであって、そうしたものが私たちの中にあることを主イエスは警告されたのでしょう。

 超教派で立ち上げられた東北HELP(仙台キリスト教連合被災支援ネットワーク)の打ち合わせには各教派・団体から50名以上が集まっていて、これほど幅広い出会い・協力はかつてなかったとの声が聞かれます。連日火葬・土葬が続く中で、僧侶と牧師が協力して“弔い”とグリーフケアを提供する働きなども生まれつつあります。震災の被災の大きさは、一方で私たちの内にある隔ての41「丸太」を押し流した感があります。

 でもなお越えられない隔てがあります。震災の晩、石巻の海からは漂って助けを待つ人々の声が響いたそうです。でも真っ暗な中できることはありませんでした。この声に、この声を胸にこれから生きていく人に私たちは何ができるのでしょう。この隔てを越え行かれる主の憐れみを求めねばなりません(エフェソ2:14)。

 ホームレス支援にまた震災救援に労する奥田知志牧師(日本バプテスト連盟東八幡教会)は、“究極的なもの”に裁かれ赦されつつ“究極以前のもの”に関わり続けることの意味を語っておられます。今私たちに必要なのは、あの声を忘れることなく、できることに向かうことだと思わされています。

「喜びの連鎖を」

ルカによる福音書 6章20~26節
詩編 37編7~16節

 

 26日、震災のため一週遅れて幼稚園修了式がもたれ、この園さいごの卒園児が巣立ちました。4人だけの幼稚園、年度当初大人たちはこれで園生活が成り立つのだろうかと心配しました。が、それは杞憂でした。教員の努力、未就園児や他園児との交流、保護者・教会員もページェントに加わるなどの助力もありました。それにも増して大きかったのは、園児一人一人に湛えられた生命の輝きであり、それがつながり響き合ってそこに「広さ、長さ、高さ、深さ」(エフェソ3:18)が生まれたことでした。

 主イエスは20「貧しい人々」21「今飢えている人々」21「今泣いている人々」は幸いである、と言われました。奪われて今これしかないと嘆くときにも、その小さき者を慈しまれる主の愛と、その主に与えられた生命の輝きは消えることはありません。特に愛する者とつないだ絆、そこに生まれた豊かさと平和は、たとえ地震でも津波でも奪い去ることはできないのです。

 私たちはこの20「神の国」=神の支配にあって生まれる喜びの連鎖に思いを向けたく思います。逆に、失望・悪意・敵意といった罪の力も負の連鎖となって、私たちを挑発するのです。しかしそうした力は、主の前にあって一時的なものに過ぎないと告げられています(詩編37:8~10)。