「真ん中に出なさい」

ルカによる福音書 6章6~11節
ゼカリヤ書 8章1~5節

 

 震災から2週間を過ごし、ライフラインが復旧に向かい物資もだいぶ届けられるようになった一方、高齢者やしょうがい者など弱者が困っている事態があります。当教会は七ヶ浜で自主的に救援活動を展開している漁師さん宅と連絡をとり、物資を運ぶなどの活動を始めています。エマオに発足した東北教区被災者救援センターは、ボランティアの手によるよりきめ細かな支援活動を目指しています。

 主イエスは 6「安息日」すなわち礼拝の場で、 7「病気」を抱える弱者に 8「立って、真ん中に出なさい」と言われました。それは、神から与えられた尊厳をもつ一人の人間として立ち上がりなさいとの宣言だったでしょう。そしてこの呼びかけにあって、この人は癒されたのでした。

 B.C.6世紀の預言者ゼカリヤは、故国のあまりの荒廃に膝を付きかけた捕囚からの帰還民に向け、神からの言葉をもって励ましました。今日の箇所には、荒廃の地に 2「激しい熱情」を注がれる主は自らその 3「真ん中」に住まわれること、そのとき都の広場には 4「老爺、老婆」 5「わらべとおとめ」ら弱者が憩い、その笑い声が戻ってくることが語られています。

 神を礼拝しその臨在を仰ぐことと、いと小さき者が祝されることはつながっています。今日の震災にあっても、この主のみ旨に導かれたいと願います。

教会創立記念礼拝 「その広さ、長さ、高さ、深さのゆえに」

エフェソの信徒への手紙 3章14~19節
イザヤ書 43章1~7節

 

 パウロが教会をキリストの体と譬えた(Ⅰコリント12:12~等)のを、エフェソの信徒への手紙はより独特な形で展開しました。キリストは万物「すべてにおいてすべてを満たしている方」(1:23)にほかならず、教会はその方の体としてしっかり結び合わされているというのです。

 今日開いた箇所でも、すべての被造物が神のまなざしに捉えられており(15節)、18「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」の内に置かれていることが述べられています。教会と信仰者はキリストに結ばれて、このことに与る恵みと共に、広くこのことを分かち合う責務が与えられています。これが宣教です。

 当教会の源流である日本組合教会は、神の言葉を伝える伝道と共に、広く教育また社会活動を展開してきた特徴をもっています。それは「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ9:35)主イエスに従う歩みです。

 震災で甚大な被災が広がる中、諸教会・キリスト者も微力ながら救援の働きに立ち上がっています。これらのわざも18「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」を分かち合おうとの宣教の働きなのです。

「立ち帰る日」

ルカによる福音書 6章1~5節
申命記 5章12~15節

 

 ある 1「安息日」に、主イエスの弟子たちは 1「麦の穂を摘み…食べた」のでした。申命記5:12~には、安息日が一週を充実の内に歩むために全ての人さらには家畜にも与えられる休息のとき(13節)、また主の恵みのわざを想起するときであり(15節)、従ってこれを12「聖別」して礼拝に向かえと語られています。また同23:25~には、貧しい人が他人のぶどう畑・麦畑から食べることを許す規定があります。古代の規定でありながら、これらの律法が唯一の神の前に立つがゆえの友愛を明確に示していることに驚かされます。

 ところがこうした伝統を受け継いでいるはずの 2「ファリサイ派」の人たちは、弟子たちのしたことは脱穀・収穫にあたるから律法違反だと見咎めたのです。こうした変質を主イエスは嘆きつつ、 5「人の子は安息日の主である」と言われました。

 この言葉をどのように受け止めたらよいでしょう。主は、安息日がすべての人の解放と喜びの日であることを宣言されると共に、休息と平和に人々を呼び帰すためにご自身 5「人の子」の中に降り立たれたことを告げられたのでした。

 私たちも主日にただの 5「人の子」に立ち帰るとき、そこに寄せられる神の恵みと主イエスの臨在を見るのです。