「わたしの民が大勢いる」

使徒言行録 18章5~11節
列王記下 6章15~23節

 

 パウロは 1「アテネを去ってコリント」に着いたときのことを、「わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(Ⅰコリント2:3)と振り返っています。と共にこの地で「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(同2:2)といいます。

 コリントは要衝にあって繁栄した、またそれゆえ世俗的でもある港町でした。宣教を開始したパウロは頼もしい協力者に出会いましたが(2・7節)、激しい迫害にもさらされました(6・12節)。

 そうしたある夜、パウロは幻の内に主から語りかけられました。 9「恐れるな。語り続けよ。…この町には、わたしの民が大勢いる…。」この主の言葉と、先のパウロの決意とは響き合っているように感じます。自らの非力を振り返り、パウロはこのとき 9「恐れ」の中にあったのではないでしょうか。でも、自らもこの町もすでに主の慈しみの眼差しの内に置かれていること、そして主はこの先の祝福を見通しておられることを知らされ、パウロは自らの役割に向かう決意を新たにしたのでした。

 敵軍に包囲されうろたえる従者に預言者エリシャは16「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が…多い」と呼びかけ、背後にいる天の軍勢を見せたのでした。この箇所は“何を見るか”がテーマになっています。エリシャは目に映るもののその先を見通す眼差しで、恩讐を越えて事を平和裏に解決してしまいました。

 主イエスがいつも来たるべき祝福から、今のあり様をご覧になっていたことを思い起こします(ヨハネ9:3、マタイ5:3、マルコ4:31等)。この主に信頼しつつ、それぞれに与えられた働きに向かいゆきたく願います。

「神の顔」

出エジプト記 20章2~3節、33章20~23節
コリントの信徒への手紙 一 13章12~13節

 

 説教  北 博 兄 (東北学院大学文学部総合人文学科教授)

「真ん中に立ちなさい、手を伸ばしなさい」

マルコによる福音書 3章1~6節
詩編 85編9~14節

 

 今月11日は、教会・信仰者の社会的責任を覚える“信教の自由を守る日”です。混迷する時代状況にあって、世界も日本も保護主義そして利己主義的傾向を強めています。人権・平和・民主主義…といった追い求めるべき共通の価値が損得勘定に追いやられ、再び危うい道へと進むことを恐れます。

 詩85編は、バビロン捕囚から帰還を果たしつつも復興の困難に直面した人々に語られた歌と言われます。 9「愚かなふるまい」を繰り返す世界に、希望はどこから来るのか。それは 9「主」が 9「平和を宣言され」るところに始まると告げられています。人の世界で11「まこと」と11「正義」を追求することと、11「慈しみ」と11「平和」に生きることは多くの場合相反するのです。が、主のみ業にあってはそれらが11「出会い」11「口づけ」すると印象的に語られています。さらに主は12「天から」13「良いものをお与えになり」13「わたしたちの地は実りをもたらします」と、神と人が和らぐ中で被造世界全体に平和が実現していくとあります。

 この平和の宣言の実現としてもたらされたのが、主イエス・キリストの降誕と十字架の出来事にほかなりません。この主の宣言を受けとめ応えるべく、私たちそして世界は求められています。

 主イエスは、人を道具化するような世のありさまを悲しみ怒りすら表されつつ、 3「真ん中に立ちなさい」 5「手を伸ばしなさい」と呼びかけられました。小さな一人が尊ばれ自らを発揮できる、そうした社会を求めそれぞれに働きたく願います。

「知られざる神に」

使徒言行録 17章22~34節
申命記 30章11~20節

 

 第二伝道旅行でパウロはパルテノン神殿がありギリシア哲学・学問の中心地アテネを訪れ、多くの16「偶像」さらには23「知られざる神に」と刻まれた不思議な祭壇を目にしました。多くの神々を崇めその守護にあずかろうとしていたアテネ人は、洩らした神の罰があたっては大変とこのような祭壇をつくったのでした。

 ここに願望の写し鏡としての信仰、同時に真の神への渇望を見たパウロは演説を始めました。28節で多くの神々を崇めるギリシア詩人の言葉を引用しつつ、正反対の結論へと進んでいきます。すなわち私たちが生きて今を歩んでいるのは神の大いなる恵みの内に置かれているのに他ならず(25~26節)、私たちが神を知る以前に私たちは神に知られているのであり、しかも私たちも神としっかり視線を合わせることを求めておられる(27節)と語ったのでした。30「悔い改め」とは方向転換することです。神を崇めると言いつつ実は自己中心なあり方から、真の神に生かされている自らを感謝する生き方への転換をパウロは説いたのでした。

 彼が言うように、真の神を見出すことは難しいことではありません。私たち自身がすでにこの神に知られ、その恵みの内に置かれているからです(申30:11~14)。一方、私たちが歩む世には滅びに至る誘惑もあります。真の神と視線を合わせつつ、15「命と幸い」へと至る歩みを選び取りたく願います。

「解放の喜びを告げた者」

使徒言行録 16章16~34節
エレミヤ書 50章33~36節

 

 海峡を渡りヨーロッパでの宣教を開始したパウロとシラスは、激しい迫害に襲われました。16「女奴隷」を悪霊から解放したところ儲け口を失った主人たちが怒り、群衆を焚きつけたのです。不当にも二人は鞭打たれ、獄に囚われました。

 ところが二人は獄の中で25「賛美の歌をうたって…祈って」いたといいます。その姿は25「ほかの囚人たち」の心を動かし、さらには27「看守」をも回心させるに至ったのでした。

 ここには、捕えさせた者・囚われた者・裁いた者・その者に仕えていた者…のいったい誰が真に自由であったのかとの問いがありましょう。金銭でも権力でもなく真理に仕えた者が真に自由であり、解放の喜びを告げたのだとの証言されているのです。

 オバマ前アメリカ大統領は退任演説で、生命・自由・幸福追求という誰もが有する権利のために多様性と開かれた態度をもって民主主義を追い求め続けることの必要を訴えました。一方トランプ新大統領は、経済的繁栄とアメリカ第一主義を求めると就任演説しました。世の諸力の誘いは今日の世界と私たちにも働き、何を選び取るのか私たちは問われていることを思います。世の力がいくら33「抑えつけ、解き放つことを拒んで」も、34「贖われる方は強」く解放をもたらされるとのメッセージに励まされ、真理を求めて進みたく願います。

「その幻を見たとき」

使徒言行録 16章6~15節
詩編 23編1~6節

 

 長年の同労者バルナバとも別れたパウロは、「シラス」(15:40)・ 1「テモテ」を連れて第二伝道旅行に出発しました。興味深いのは、ここで突然10「わたしたち」との一人称が現れることです。“我ら部分”と呼ばれるこうした個所は16:10~17、20:5~15、21:1~18、27:1~28:16にあり、パウロの同行者が記した旅行記だと考えられます。使徒言行録の著者ルカが書いた可能性もあります。いずれにしてもアンティオキア教会を離れたパウロは、少数の仲間とこれ以降の働きに向かったのでした。

 ところが一行は 6「アジア州で…語ることを聖霊から禁じられ」、さらに目指した進路も 7「イエスの霊」により阻まれるのです。具体的にはよくわかりませんが、計画は頓挫し意気阻喪し苛立つような状況に追い込まれたということです。第一伝道旅行で聖霊の導きと励ましに支えられた(13:4・52等)パウロは、でもこのたびの逆境にも自らの思いを超える神の指し示しを見たのでした。

 そのような中で見た幻に応え、一行はへレスポントス海峡を渡り 9「マケドニア州」へと上陸しました。こうして彼らの思いを超えて、福音はヨーロッパにもたらされることとなったのです。

 詩23編は、時に厳しく響く 4「鞭」 4「杖」も命への導きであり励ましであると語ります。試練をも含めて羊が羊飼いを信頼して安んじるように、主なる神の導きを仰ぎたく願います。

「福音の真理に立ち留まる」

使徒言行録 15章36~41節
ガラテヤの信徒への手紙 2章9~14節

 

 36「バルナバ」は回心直後のパウロを教会へと仲介し(9:27)、アンティオキア教会で同労者となり(11:26)、第一伝道旅行で苦楽を共にした(13:2)人物です。が、ここで二人は39「激しく衝突し…別行動をとる」ことになったのでした。その理由について、使徒言行録は第二伝道旅行の同行者を巡る不一致と記しますが、ガラテヤ2:11~はより深い理由があったことを示唆しています。

 事は、エルサレム会議(15:6~)での協議不徹底から起因したようです。福音に律法の軛は必要ないと確認したはずなのに(ガラテヤ2:6)、ユダヤ国粋主義が高まる中 12「ケファ」=ペトロ・13「バルナバ」らは律法規定に気を遣い、ユダヤ人・異邦人共同の食卓から離れていったのです。異邦人に律法を強いている訳ではない、との言い訳もあり得たかも知れません。がそれは、パウロから見れば主イエスの十字架の福音に別の物を持ち込もうとの14「福音の真理」を曲げる行為にほかなりませんでした。

 記されているように衝突は深刻なものとなり、パウロは長年働いたアンティオキア教会を離れ、少数の仲間らと共に第二・第三伝道旅行に向かうことになります。

 顛末を記した後、パウロは熱を込めて主イエスの十字架による救いを論じ、キリストの恵みに照らされるとき「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女も」ない(3:28)解放と友愛が訪れると書き記しました。

 14「福音の真理」に立ち留まるがゆえにパウロは厳しい道を選び取りましたが、それは主イエスが指し示された「真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ8:32)その喜びに向けての出発でもあったのです。そしてその旅路は歴史を貫き、今日の私たちにも託されています。

新年礼拝 「イエスを見つめながら」

ヘブライ人への手紙 12章1~3節
創世記 12章1~4節

 

 新しい年2017年を与えられ、どのような希望・計画を思い描いておられるでしょう。今日開いた新約において著者は、それぞれの旅路・ 2「競争」は神の「計画」(11:40)において 1「自分に定められている」ものだと語ります。ささやかな旅路ながら、そこにも主からの役割が与えられているということです。

 イスラエルの父祖アブラハムは主の 1「私の示す地に行きなさい」との召しに応え、行く先を知らずして 4「主の言葉に従って旅立」ちました。これにより彼は“信仰の父祖”と呼ばれるようになりました。(11:8、ローマ4:11等)。

 でも考えてみると、私たちもまた自らの旅路の行き先を知らないのです。その旅路にも主の計画と役割があることを信じ、喜びつつかつ 1「忍耐強く」歩みゆくなら、それが私たちの信仰の歩みとなるのです。

 アブラハムの役割は、すべて 3「地上の氏族」の 2「祝福の源となる」というものでした。そして 2「信仰の創始者また完成者」との言葉において、世界を希望と祝福へと導かれる主の大いなる働きと召しの内に私たちもまた置かれていることが告げられています。 2「創始者」には“導き手”との意味もあります。生きて私たちを導かれる主イエスを見つめつつ、今年の歩みへと踏み出しましょう。

クリスマス礼拝 「栄光の回復のため」

ローマの信徒への手紙 8章18~25節
創世記 9章9~17節

 

 C.ウェスレーが作詞した讃美歌262の原詞最終節は、“一度は失ったあなたをさあ取り戻そう…あなた自身のすべてに参与しよう” と歌います。また日本語3節の“死すべき人”の部分は、加えて“大地の子をすべて”と歌われています。ここには、贖罪によるすべての聖化というメソジスト教会の特徴がよく表れています(川端純四郎『さんびかものがたりⅡ』)。

 洪水の後の再契約の際、主なる神はすべての生き物と契約を結ばれました(創9:10)。これは、人間が命・大地について正しく責任を守っているか、動物たちが言わば監視役として召されたことを意味しています。主イエスが飼い葉桶に降誕された際、そこにいた動物たちもまたその栄光に浴しました。それは主の救いが、ついにはすべての被造物に及ぶことを指し示していましょう。

 「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」(詩19:2)、「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。」(イザヤ43:7)と、世界と命は神の祝福に置かれ、その栄光に帰せられるべきものであると告げられています。

 しかし人間の罪への堕落はそれらを破壊し、世界と命を20「虚無」に服させるのです。その現実の中で、人間も動物も環境も22「被造物がすべて…共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」のが今という時だと語られています。なぜ22「産みの苦しみ」なのか、それは主イエス・キリストの降誕そして十字架と復活によってすべては栄光へと再び結ばれるとの約束がすでに与えられているからです。

「万軍の主の熱意」

コリントの信徒への手紙 一 1章18~25節
イザヤ書 9章1~6節

 

 カトリックほかで旅人の守護聖人とされているクリストフォロス(聖クリストファー)の物語をご存じでしょうか。キリストに仕えることを決意した大男レプロブスは、隠者から人々に仕えることがその道だと教わり、急流の川渡しの奉仕を始めます。あるとき小さな男の子に頼まれ川へと入っていくと、次第に肩の子は重くなりレプロブスは倒れんばかりになりました。やっとのことで渡り切ったところで、その子は自らがキリストだと明かしたのでした。それは担った全世界の罪の重さだったのです。ここからレプロブスは、“キリストを背負った者”との意味のクリストフォロスという名を頂いたのでした。

 B.C.8世紀、預言者イザヤは生まれ来る 5「ひとりの男の子」によって 1「闇」に 1「光」が与えられ 6「平和」が実現すると語りました。しかし、神ご自身 5「みどりご」となって降誕を遂げられるとは、この言葉を預かったイザヤも思いもよらなかったのではないでしょうか。

 天から地へと降られた主イエスは人々に仕える者となられ、さらには十字架の死へと降られたのです(マルコ10:45)。この一見21「愚かな手段」にこそ、何としてでも世と生きる者を救い出すとの神の意志が顕わされていると伝道者パウロは語りました。 6「万軍の主の熱意がこれを成し遂げ」たのです。

クリストフォロス - 幼な子キリストは、世界を現す“宝珠”を手にしています