「この人たち以上に」

ヨハネによる福音書 21章15~23節

 

 説教  栗原 健 教師 (宮城学院大学准教授)

 

 他人の信仰が素晴らしく見えて、“それにひきかえ自分は”と劣等感を持つことはないでしょうか。主イエスは人の信仰を“比較”されるのでしょうか。

 今日の聖書個所には“比較”に聞こえる言葉がありますが、その“比較”は私たちが思うものとは全く異なります。復活された主は、ペトロに15「この人たち(他の弟子たち)以上に私を愛するか」と尋ねます。ペトロには、他の人より抜きんでたものがあったのでしょうか。もしあったとすれば、それは、彼が三度「イエスを知らない」と公言してしまい、他の弟子たちよりも深い挫折に落ちてしまったということです(18:15~)。主は、そのペトロの失意の底にまで降りて来て下さいました。ペトロが他の者よりもイエスを愛したのではなく、他の者よりも大きく失敗したペトロに、主がより大きな愛を注いで下さったのです。

 私たちは、失敗をしても他者と自分を比較して失望してはいけません。主イエスの十字架は、神様が私たちのことを絶対にギブアップしないという約束のしるしだからです。主に感謝して進んで行きましょう。

「恵みは砕かれた者に」

イザヤ書 57章14~19節
使徒言行録 3章1~10節

 説教  石川 立 教師 (同志社大学神学部長)

 

 昨日は当教会の母体である東華学校の開校130周年記念日でした。その開校で、東北伝道を目指す新島襄の願いが実現しました。東北は“白河以北一山百文”と揶揄されていました。また、戊辰戦争後、仙台はひどく疲弊していました。その地を新島は同志社英学校の分校の土地として選んだのです。打ち砕かれた弱者に向かう新島の眼差しの根底には、聖書に示されている神の恵みの方向性が反映していました。

 本日の聖書箇所には、聖霊降臨後の最初の奇跡がペトロを通して行われたことが記されています。このとき、生来足が不自由で、人に施しを乞うて生きている人が癒されました。神の恵みは、社会の底辺にいる人に集中しました。この人は癒されて喜び躍り、神の救いの証人となりました。

 “日本でいちばん大切にしたい会社”の一つ日本理化学工業は、障がい者雇用割合7割を誇っています。そこでは、障がい者は生きることや働くことの喜びを教えてくれる大切な存在です。

 戦後、孤児と知的障がい者のために近江学園を創設した糸賀一雄は、知的障がい者の真実な生き方が世の光となり、彼らを助ける我々がかえって、彼らを通して人間の生命の真実に目覚め救われる、と述べています(『この子らを世の光に』)。

 本日のイザヤ書の箇所には、神は打ち砕かれ、へりくだる者に命を得させる、とあります。神から命を与えられた人は、世の光となり希望となります。十字架にかかられたイエスが、打ち砕かれた最たる方であり、かつ、神の恵みの光です。

 私たちの周りに、運命に砕かれた人々、障がい者や弱者がいます。その人々の中に、私たちは恵みの光を認め、生命の真実に目覚めたい。いや、私たち自身が打ち砕かれ、へりくだる者でありたいものです。

子どもの日・花の日合同礼拝 「空の器は満たされる」

列王記下 4章1~7節

 

 聖書の時代、 2「油」はオリーブの実を絞って作られました。それは料理のほか、灯し火、薬や(ルカ10:34等)礼拝など(レビ8:10~等)にも用いる大切なものであり、そこに人々は神さまの祝福を見たのでした。

 預言者エリシャのもとに、一人の女性が助けを求めてやってきました。やはり預言者であった夫は 1「主を畏れ敬う人」でしたが気の毒なことに亡くなってしまい、残された家族も大きな 1「債権」のため危機に瀕していたのでした。もはや 2「油の壺一つのほか、…家には何もありません」というありさまだったのです。

 エリシャは 3「近所から…空の器をできるだけたくさん借りて来なさい」 4「その器のすべてに油を注ぎなさい」と不思議なことを命じました。でも女性が言われた通りにすると、 6「器がどれもいっぱいになる」まで油は途切れなかったのです。こうして家族は危機を脱したのでした。

 途切れることのない 2「油」は神さまの祝福を表していましょう。では 3「器」とは何でしょうか。それは神に造られた私たちのことでしょう(イザヤ45:9等)。神さまは不思議な恵みをもって、私たちを満たしてくださるのです。加えて色々なことに気づかされます。 3「近所から」の器が助けとなったように、私たちは互いに支え合うことができるのです。また別の何かで満たされていない 3「空の器」だから役に立ったのです。神さまの祝福を受けとめ、互いに支え合う私たちでありたく願います。

ペンテコステ礼拝 「弱いわたしたちをも」

ローマの信徒への手紙 8章26~28節
イザヤ書 41章8~10節

 

 主イエスの十字架、復活、昇天を辿った弟子たちは聖霊降臨を体験して大いなる力に満たされ、閉じこもっていた扉を開け放ち、福音を証しし宣教の業に出ていきました。最初のペトロの説教では、約3000人が洗礼を受けたとあります(使徒2章)。このようにペンテコステの出来事は教会の誕生日、そして世界伝道の出発点となりました。実に力強い聖霊の働きです。

 しかし、そうした力強さだけが聖霊の証しなのではありません。今日の箇所で伝道者パウロは、26「同様に、“霊” も弱いわたしたちを助けてくださいます」と語りかけます。続く26「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが」とは一見不思議な言葉と響きます。が、自らを遥かに上回る課題に取り囲まれ窮地に立たされたとき、私たちは何をどう祈ったら良いか分からなくなるのではないでしょうか。でも、生ける神の働きなる聖霊はそうした私たちの22・26「うめき」を分かつと共に、神へと27「執り成してくださる」のです。28「万事が益になるように共に働く」とは、楽観的な現状肯定論ではありません。26「弱いわたしたち」がすべてをご存じなる方の見守りと支えの内に置かれているとの安心の告白です(イザヤ41:9~10)。

 パウロは自らの持病との戦いの経験を振り返り、「力は弱さの中でこそ…発揮される」「大いに喜んで自分の弱さを誇ろ」う(Ⅱコリント12:9)と語りました。自らの弱さにも顕わされる神の恵みを彼は見出し、感謝したのでした。

「神の国の豊かさ」

マルコによる福音書 4章1~9節
イザヤ書 5章1~7節

 

 年に一度の教区総会が終わりました。その伝道の歴史から、東北には小規模な教会が多くあります。このことはかつて、マイナスの文脈で語られることが多かったように思います。が、2004年度を中心とした機構改革に取り組む中で、それは小さな町々にも教団の教会があって十字架のもと礼拝する群れがあるという東北に与えられた豊かさなのだと気づかされてきました。それは「1タラントン」かもしれないけれども「地の中に隠して」はいけない(マタイ25:14~30)、ご用のため共々に用いていこうと始められたのが、現在取り組まれている “宣教共働” の働きです。

 ガリラヤ湖のほとりで、主イエスは 3「種を蒔く人」の譬を語られました。ただ不思議なことに、この人はえらく気前よく種を蒔くのです(イザヤ28:24~25)。結果、 4「道端」 5「石だらけで土の少ない所」 7「茨の中」に落ち、実りに至らなかった種もありました。

 今日併せて開いたイザヤ5:1~を踏まえ、主イエスは12章でぶどう園に送られた一人息子の譬を語っておられます。大きな恵みを頂きつつ良き実りへと至らない世界をなお慈しみ救いへと導くために、主イエスは十字架で犠牲となられ復活を遂げられたのです。

 13節~に、種とは14「神の言葉」であると明かされています。 8「三十倍…六十倍…百倍」の実りに至れとの期待と祈りをもって、14「神の言葉」はこの世界の隅々に蒔かれています。その成長の恵みにあずかる私たちでありたく願います。

「全き人」

マルコによる福音書 3章20~30節
創世記 6章9~22節

 

 ガリラヤで宣教を始められた主イエスのもとには大勢の人、殊に病人や悪霊に取りつかれた人(1:31)、罪人とレッテルを貼られた人々(2:16)が癒しまた赦しを求めて集まってきました。一方、それを快く思わない者たちは主イエスを激しく批判しました。主イエスはそうした者たちを23「呼び寄せ」られた上で、28「人の…罪や…冒涜の言葉も、すべて赦される」と神の大いなる憐れみと赦しを宣言されたのです。

 では続けて語られた29「聖霊を冒涜する者は永遠に赦され」ない、とはどういうことなのでしょう。29「聖霊」とは神の生ける働きです。その神の赦しと招きの実現のため主イエスはこの世界に来られ、十字架で犠牲となり、復活を遂げられました。29「聖霊を冒涜する」とは、この招きを不必要だとして拒絶することです。私たちは、そしてこの世はそれほど立派で大丈夫なのでしょうか。

 ノアは 9「全き人であった」(口語訳)と記されますが、後には酒に酔って醜態を晒してもいます(9:21)。聖書の言う“全き”“完全”とは助けなしに自立できることではなく、 9「神と共に歩」むことを指しています(フィリピ3:12~15)。

 エゼキエル18章で、神は人間の罪を厳しく指摘しつつ「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。」(31~32節)と呼びかけておられます。この招きに応え、神と共に、隣人と共に歩む道を進みたく願います。

「真ん中に立ちなさい」

マルコによる福音書 3章1~6節
ゼカリヤ書 8章1~9節

 

 復活の主に導かれて(16:7)、主イエスのガリラヤ宣教をもう一度辿りたく思います。

 ルカ・ヨハネ福音書は、復活の主が恐れていた弟子たちの「真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」と記します(ルカ24:36、ヨハネ20:19・26)。恐れ、閉じこもる私たちの限界を復活の主は突破され、平和を告げられるのです。

 その主イエスはカファルナウムの 1「会堂」での礼拝の場で、 4「律法」に縛られ弱者をあたかも道具化するような人々の頑なさを悲しみ 5「怒り」すら露わされつつ、その人に 3「真ん中に立ちなさい」と呼びかけられました。さらに9:33~にはやはりカファルナウムで、一人の子どもを「真ん中に立たせ」(36節)小さな一人を受け入れることの大切さを教えられたとあります。復活のみ業をもって私たちに平和を告げられる主は、小さな一人そして私たちをも「真ん中」に立たせその命を十二分に生きていけと祝福されるのです。

 B.C.6世紀の預言者ゼカリヤは、捕囚帰還後の荒廃の地に主は 2「激しい熱情」を注いで自らその 3「真ん中」に住まわれ、そのとき都の広場には 4「老爺、老婆」 5「わらべとおとめ」らの笑い声が戻ってくると告げました。この主のみ旨を実現すべく主は今も生きて働かれ、私たちをも召しておられることを仰ぎます。

「復活の主に導かれてガリラヤへ」

マルコによる福音書 1章29~39節
ヨシュア記 20章1~8節

 

 マルコ福音書は主イエスのガリラヤ宣教に始まり(14節)、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。…そこでお目にかかれる」(16:7)との復活を指し示す言葉で終わります。主イエスの言葉、働き、そして十字架を辿ってきた読者は、もう一度冒頭に帰り、復活の主に伴われてガリラヤ宣教へと向かうべく編まれているのだとの説があります。

 ガリラヤはイスラエル十二部族が住み着いた地域で北端の辺境の地であり、戦乱にあってはたびたび異邦人の支配下に置かれました。旧約の時代、過失で人を殺してしまった人が復讐から逃れるための 2「逃れの町」が6つ定められたとき、ガリラヤの町がその最初に挙げられました(ヨシュア20:7)。そのようなことからガリラヤは軽んじられ、蔑まれていた地方でした。

 が、主イエスはその地から宣教を開始され、「神の国は近づいた」(14節)と宣言されたのです。今日の箇所の熱に苦しむ30「シモンのしゅうとめ」、32「病人や悪霊に取りつかれた者」の姿は、数々の課題に生きる人々の現実を表しています。その只中に主は復活の力を帯びて帰ってこられ、その御業を揮われるのです。人々が主イエスを留めようとしたとき、主は「…他の町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。」と出発されたとあるように、復活の主は今日もその御業を進めておられることでしょう。そして、私たちも共に歩み働くべく招かれています。

「主の派遣を身に帯びてこの今を生きよう」

ヘブライ人への手紙 10章19~25節
イザヤ書 52章7~10節

 

 今日開いたヘブライ10:23は2017年度宣教活動計画案の聖書箇所、説教題は主題です。

 イスラエル人の神殿には一般人の立ち入りが制限された19「聖所」があり、神が顕現するとされる最奥の至聖所には大祭司が年に一度しか入ることができませんでした(9:7)。が、主イエスは十字架の犠牲によって神に連なる20「新しい生きた道」を開いてくださったのだから(9:11~)、信仰者は主イエスと共に安んじて神のみ前に進み出ることができる、と著者は語ります。

 神と共に歩むことができるとのこの23「真実」な23「約束」を帯びて、私たちは生を与えられ、それぞれ具体的な時と場所へと派遣されています。そこには様々な課題もまたありますが、この“今”は主がついにはもたらされる完成の25「かの日」につながっていると聖書は語ります。そのことを礼拝において確かめ、23「希望を…保ち」24「愛と善」に生き25「励まし合」いつつ今を歩もうと呼びかけられています。

 当教会は創立から130周年を数えました。代々の信徒らが恵みと使命を覚えてそれぞれ派遣された生を歩んだように、私たちもこの年の歩みに向かい行きたく願います。

「ヨナのしるし」

マタイによる福音書 12章38~42節
ヨナ書 1章1~3節

 

 38「しるし」とは、平たく言えば“証拠”です。すでに28「神の霊で」人々を解放しておられた主イエスになお、人々は救い主としての“証拠”を求めたのでした。

 これに対し主イエスは、与えられるのは39「ヨナのしるし」だけだと言われました。それはどういう意味だったでしょう。

 ヨナは旧約の時代、退廃の都ニネベに神の裁きを伝えるべく神から遣わされた人物です。ヨナは大任に尻込みして別の方向に逃げ出そうとしますが、神の手を逃れることはできず、ついにヨナは「三日三晩魚の腹の中で」(ヨナ2:1)過ごすことになったのでした。40「三日三晩」を共通項として、主イエスはご自身の十字架の死と復活を指し示されたのです。救い主の38「しるし」とは、人々の思いとは全く違う形で与えられたのでした。

 魚の腹の中から助け出されたヨナは思いなおしてニネベへと向かい、主の裁きを告げました。すると41「人々は…悔い改め」、主は赦しを与えられました。するとヨナは、一体私の役回りは何なのかと怒ったのです。このヨナに主は一本のとうごまのエピソードを与えて、物語は閉じられます(ヨナ書4:4~)。

 ヨナは逃げ出したり怒ったり、本当に人間臭い人物です。でも主は彼を導き用いられ、彼もまたその度に変えられていくのです。主イエスの十字架と復活は、そのような破れを抱えた私たちに向けられた大いなる赦しと招きの出来事にほかなりません。むしろ、変わろうとしない39「よこしまで神にそむいた時代」の罪が指摘されています。誤ったり失敗しても、私たちは希望と祝福へと再び歩み出すことができます。主の慈愛の内に置かれているからです。