ペンテコステ礼拝 「派遣そして同行」

創世記 45章25節~46章7節
コリントの信徒への手紙 二 4章7~15節

 

 帰還した息子たちから26「ヨセフがまだ生きています」と知らされた父ヤコブは喜びに溢れ、再会を願いました。が彼には、祖父アブラハム・父イサクから受け継いだ約束の地を離れて良いのかとの迷いがあったはずです(28:4・13~15)。そうした彼に神は、エジプトへ下ることを恐れるなと告げられました(3節)。 4「わたしがあなたと共に…下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す」との呼びかけに、ヤコブは若かりし頃旅立った際に聞いた神の言葉(28:15)を思い起こした筈です。まことにその約束に違わずわが人生が主のみ旨とみ業の内に置かれていることに信頼し、晩年にして新たな世界へと 5「出発した」のでした。

 エジプトでファラオと会見したヤコブは自らの流転の歩みを振り返りつつ、その生涯を「旅路」と語っています(47:9)。この言葉には、貧しい「土の器」(Ⅱコリント4:7)のような生涯にも神が大いなる祝福を盛ってくださったとの感謝、そしてやがてはその神に帰り着くとの信頼が込められていましょう。

 今日は、この神のみ旨が今も生きて世界と私たちを導かれることを仰ぐ聖霊降臨日です。小さな私たち一人一人もこの主なる神からそれぞれの旅路へと派遣されていること、そしてこの生ける方の同行にあって日々を歩み得ていることを心に刻みたく願います。

「わたしたちは知っている」

創世記 44章18節~45章3節
ローマの信徒への手紙 5章1~11節

 

 今日開いた18~34節は、兄たちが2度目にエジプトを訪れた際のユダの嘆願の言葉です。先に持ち帰った穀物は底をついてしまい、再びの買い付けが必要となりました。ですがその際は、末の弟ベニヤミンを同行させるのが約束だったのです(43:1~)。ヨセフに代わってベニヤミンを溺愛し渋るヤコブを、「わたしが保証します。その責任をわたしに負わせてください」(43:9)と説得したのがユダでした。

 エジプトに赴いた弟ベニヤミンと再会しヨセフは涙しつつも(43:30)、或る企てをします。弟が盗みを働いたとの嫌疑をかけ、奴隷として捕え置くと迫ったのです(44:1~17)。ユダは許しを乞い、33「この子の代わりに、この僕を…奴隷として」くださいと願ったのでした。

 あのとき、父の偏愛を受けるヨセフを憎んでエジプトに売り飛ばしたのがこのユダでした(37:26)。その彼が弟の安全を保障し、そのためには自ら身代わりになろうと言ったのです。この背後には、先週見た兄たちの悔い改めがありました(42:21~22)。22年の時を経て、彼らも変わったのです。この兄の言葉にヨセフはもはや耐えきれず 1「身を明かし」、兄弟はついに和解を果たしたのでした。

 併せ開いた箇所で伝道者パウロは、キリストの犠牲にあってもたらされた 1「平和」10「和解」について高らかに語っています。神の身分から人へ、さらには十字架の死へと、思えば大きく変わられたのは 1「主イエス・キリスト」にほかなりません。それは私たちの救いのためでした。この方こそ 2「希望」であり生の根拠であると 3「わたしたちは知っている」、こう呼びかけられています。

「御心に適った悲しみ」

創世記 42章1~25節
コリントの信徒への手紙 二 7章8~11節

 

 ヨセフが解いた通り(41:25~)飢饉が訪れ、 3「十人の兄たち」は買い出しに来て 6「エジプトの司政者」となっていた 6「ヨセフを拝した」のでした。あの 9「夢」(37:7)が現実となったのです。が、自分たちが売り飛ばした弟が20年経ってエジプトの宰相となっているとは考えもしない兄たちは、ヨセフに気づきませんでした。

 強い立場のヨセフは兄たちにスパイ容疑をかけて監禁し、最終的には13「末の弟」ベニヤミンを連れてこさせようとします。ヨセフは報復をしようとしたのでしょうか。でも彼は陰で24「泣」き、厚遇をもって兄たちを帰らせています(25節)。

 ヨセフは兄たちに過去の気づきを願ったのでしょう。13「もう一人は失いました」とヨセフを売ったことをまるで他人事のように語っていた兄たちも、これらのやり取りの中で21「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ」と悔い改めへと導かれていったのです。

 伝道者パウロは異端に翻弄されるコリント教会に 9「悔い改め」を求める厳しい 8「手紙」(10~13章の部分)を書き送りました。そのことに触れ、悲しみにはただ滅びゆく10「世の悲しみ」もあれば、人知を超えて10「救いに通じる」10「神の御心に適った悲しみ」もある、とパウロは語ります。

 ヨセフ物語は「あなたがたは…悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え…救」いをもたらされるとの言葉で閉じられます(50:20)。時に主は私たちに、痛みや悲しみをも与えられます。その中にもみ旨を求める祈りを与えられたく願います。

「主の希望を共々に仰ぎ、日々の歩みに向かおう」

テモテへの手紙 一 4章1~10節
創世記 1章24~31節

 

 今日開いたⅠテモテ4:10は2018年度宣教活動計画案の聖書箇所、説教題は主題です。

 2世紀初め、教会は国家の弾圧など外との戦いのみならず、異端という内なる戦いを経験しました。この手紙には、霊・精神を尊いものとし物質・肉体を価値低いものとするグノーシス主義の影響を受けた者たちが 2「偽りを語る者」と名指しされています。こうした霊肉二元論は3節に見られるように禁欲主義として、また時には逆に放縦となって現れます。でもそれは、神ならぬものに判断を委ねていく逃げの姿勢であり、そうした隙から人はやがて諸力に支配されていくのだと警告されています。

 4「神がお造りなったものはすべて良いもの」であり、主なる神は10「すべての人…の救い主」であると断言されています。主なる神は、私たちの魂も身体をも祝福の内に造られました。ゆえに教会と信仰者は、一人一人の尊厳や自由が奪われゆくことに抗し、放射能による健康被害とも戦うのです。聖書は創造の原初、すべては31「極めて良かった」と告げます。今は罪の力の挑発を受けつつも10「生ける神」は世界そしてすべての者をこの祝福へと導こうとされている、私たちはこの希望を仰ぎ10「労苦し、奮闘する」のだと呼びかけられています。

 2018年の東北にも響くこの言葉に励まされつつ、主が導かれる日々の歩みに踏み出しましょう。

「主が共におられた」

創世記 39章1~9節
コリントの信徒への手紙 二 8章1~7節

 

 17歳で(37:2)エジプトに奴隷として売られたヨセフは、主人ポティファルの信頼を得て重用されました。が、その妻の誘惑を拒んで監獄に送られることになります(20節)。その監獄の中でファラオの家来たちの夢を解いたことから(40:8~19)、その後ヨセフはファラオの見た不思議な夢を解くべく召し出されます(41:1~14)。それは7年の豊作と7年の飢饉の訪れを告げるものだと見事解いたことによって、ヨセフはエジプトの宰相に任じられるのです(41:15~46)。

 一見、とんとん拍子の物語に思えます。このときヨセフは30歳になっていました(41:46)。奴隷と獄中の期間が13年あったということです。そうした逆境の時代を記す39章で創世記は 2・3・21・23「主が…共におられた」と重ねて記すのです。物事がうまく進むときにだけ主が共におられるのではない、むしろ悩みたじろぐあなたを主は支えられるのだと告げられています。

 ユダヤ人教会と異邦人教会をつなぐ献金運動を呼びかける書簡でパウロは神の 1・9「恵み(カリス)」について語っています。原文ではこの章に、同じカリスとの語はあと4回出て来ます。 4・6・7「慈善の業」20「募金」です。私たちは恵みとは豊かになること、慈善や募金は貧しくなることと考えていないでしょうか。でも受けるときにも出すときにも、そこには 1「神の恵み」があるのだと指し示されています。

 物語で主に支え導かれ、救いを得たのはヨセフだけではありませんでした。飢饉に備えたためにエジプトや近隣の民が(41:56~57)、さらには父ヤコブや兄弟たちもが救われたのです(42:1~)。私たちは大いなる主のみ旨・み業の内に置かれています。

「希望によって救われている」

創世記 37章1~11節
ローマの信徒への手紙 8章12~25節

 

 数週に亘って、創世記のヨセフ物語を味わいたく思います。ヨセフは、神の民の父祖の一人に数えられる(出3:6等)ヤコブの11番目の息子です。が、彼らは必ずしも立派な者たちではありませんでした。今日の箇所には3回も 4・5・8「憎」んだとの語が現れます。原因は父ヤコブにも、兄弟たちにも、ヨセフ本人にもあったのです。こうしてヨセフは兄たちによって、ついにはエジプトへ売られていくことになります(37:28)。

 そのような多くの問題に染まった人物と家族に、主なる神は関わりこれを導かれたとヨセフ物語は告げるのです。それは同様に弱さを悩みを問題を抱える私たちをも、主は支え導かれることを示しています。

 ヨセフ物語のキーワードは 5・9「夢」です。ヨセフが夢を見、夢を解く(40~41章)中で、彼と家族そしてその子孫たちは数奇な歩みを辿ることになります。

 ここの 5・9「夢」は私たちの思いを超える主の指し示し、導きを象徴していましょう。併せ開いた新約で、伝道者パウロは14「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」と述べ、種々の課題に22「うめ」く者も主の御業と約束に導かれるとき24「希望によって救われて」いくのだと語っています。

「全世界に行って」

マルコによる福音書 16章14~18節
イザヤ書 42章5~9節

 

 マルコ16:9~は本来のマルコ福音書には無く、後につけ加えられたものと考えられています。それゆえ、新共同訳でも[ ]に入れて記されています。たしかに、復活の主イエスが弟子たちをおとがめになったとの記述(14節)などには違和感も感じます。

 他方、ここには15「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」との命令があります。世界と人間そしてすべての被造物は多くの課題と困難を負っていますが、神の創造の祝福にあってそれらは存在し、その回復のためにこそ主イエスはこの地に十字架の救いを据えられたのでした。主イエスの15「福音」は全被造物の「うめき」を分かち、これを大いなる希望へと向けるものなのです(ローマ8:18~25)。

 イザヤ42:5~でも、 5「天」 5「地」と生けるものへの祝福、そして 6「主」に連なる者の使命が語られています。生きて働かれる主(9節)に従い、正義と平和の実現のために労することです(7節)。

 17「信じる者」に伴う17「しるし」とは順に、罪の支配からの解放、主の言葉に養われ生きること、誘惑に打ち勝つこと(創3:1~)、世に勝つ主に連なること、愛と癒しに向かうことと受けとめることができましょう。

 復活の主イエスは、私たちがたとえば教会といった限られた場所だけで喜ばしく生きることを望んではおられません。それぞれが遣わされた15「世界」で15「福音」を生き、分かち合うことへと召しておられます。

イースター礼拝 「あなたがたより先に」

マルコによる福音書 16章1~8節
創世記 50章15~21節

 

 最初の復活の証人となったのは、十字架から3日目の朝に墓を訪ねた女性たちでした。そこに主イエスはおられず、御使いと思われる若者から 6「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」 7「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。…そこでお目にかかれる。」と告げられたのでした。

 この 7「先に…行かれる」との語(プレアゴー)は、受難の待ち受けるエルサレムに向けて「イエスは先頭になって進んで行かれた」(10:32)、救い主を求めて旅をした占星術の学者たちを「星が先立って進み」(マタイ2:9)などの箇所で用いられており、いずれも人の思いを超えた神の導きが指し示されています。

  7「ガリラヤ」とは人々の喜怒哀楽がある生活の場であり、主イエスが宣教を始められた場所です(1:14)。主は復活の力を帯びてそこでもう働いておられる、だからあなたがたも追いていきなさいと呼びかけられています。思いを超えた道に踏み出していくのは勇気が要ることでしょう。でもそのようにして学者たちは、大きな喜びにあずかったのです。

 かつて弟を妬んでエジプトに売り飛ばした兄たちがその罪を悔いたとき、弟ヨセフは20「あなたがたは…悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救」われたと思いを超える神のみ業を仰ぎ、これを赦したのでした。限りある人の思いと業を主は復活の力をもって、神に連なる希望と和解と完成へと結んでくださるのです。この招きに信仰をもって追いていきたく願います。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」

マルコによる福音書 15章33~41節
イザヤ書 53章1~6節

 

 24「十字架」は手足を釘付けにし、苦痛と衰弱によって死に到らせるという残酷な刑罰です。しかしその苦痛のあり様を福音書は必ずしも描写していません。

 福音書が着目しているのは、主イエスが“捨てられた”との事実です。十二弟子の一人ユダによって裏切られ(14:10)、捕縛に際して他の弟子たちも見捨てて逃げ去り(14:50)、ペトロはイエスを知らないと言ったのです(14:68)。5日前に歓喜して迎えた(11:9)人々は「十字架につけろ」と叫びました(14節)。

 のみならず、絶命直前に34「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と、主イエスは最も信頼していた神にも見捨てられる経験をなさったと福音書は告げるのです。主イエスがご自身を重ねておられたに違いないイザヤ53章の苦難の僕の預言は、それは 5「わたしたちの背き…私たちの咎のため」であったと告げ、Ⅱコリント5:21は「わたしたちはその方によって神の義を得ることができた」のだと記します。

 神の赦しは罪を見逃すことではありません。罪は裁かれねばならないことを見据えて主イエスは十字架を担われ、神と人に捨てられる裁きを引き受けられたのです。

 この凄まじい主イエスの決意と業は、私たちにとって赦しであり慰めです。私たちはいかなる時も、共におられる主イエスとその愛を見いだすからです。 5「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と告げられている通りです。

教会創立131周年記念礼拝 「良心を手腕に」

テモテへの手紙 一 1章18~19節
エレミヤ書 20章7~9節

 

 当教会は、同志社の分校ともいう形で1886(明治19)年に開校した宮城英学校(のちの東華学校)の教員・学生たちを中心にその翌年創立されました。ここには、自由教育と自治教会によって日本に福音を根づかせようとした新島襄の願いが表れています。

 新島は1888(明治21)年に公にした同志社大学設立の旨意において、“…教育ハ、決して一方に偏したる智育にて達し可き者に非す、…唯た上帝を信し、真理を愛し、人情を敦くする基督教主義の道徳に存する…”と智育と徳育の両方の必要を述べ、 “…良心を手腕に運用する人物を出さんことを勉めたりき” とそれらを結びつける良心の重要性を語っています。

 今日開いた聖書にも19「良心」との語があります。原語には “共に見る” との意味があり、開かれた態度で他者と共に見ること、究極的には神と共に見ることが指し示されています。上記の旨意の後段には、“…立憲政体を百年に維持せんと欲せは、…智識あり、品行あり,自から立ち、自から治むるの人民たらざれば能はず” とあります。今日の状況に対する、130年前の警句として受けとめるべきでしょう。

 エレミヤはB.C.7~6世紀の激動期に、時流に流されず逆境にあっても神の言葉を語り続けた預言者でした。それは 9「主の言葉は…心の中、骨の中に…火のように燃え上が」るからだと、エレミヤ自身が告白しています。

 知識・技術の運用を間違えれば、地球規模の破滅を招きかねない時代に私たちは生きています。神の真実を仰ぎ、良心を手腕に知識・技術そして時代を運用することは今日そして将来のための重要な課題です。