「主が共におられた」

創世記 39章1~9節
コリントの信徒への手紙 二 8章1~7節

 

 17歳で(37:2)エジプトに奴隷として売られたヨセフは、主人ポティファルの信頼を得て重用されました。が、その妻の誘惑を拒んで監獄に送られることになります(20節)。その監獄の中でファラオの家来たちの夢を解いたことから(40:8~19)、その後ヨセフはファラオの見た不思議な夢を解くべく召し出されます(41:1~14)。それは7年の豊作と7年の飢饉の訪れを告げるものだと見事解いたことによって、ヨセフはエジプトの宰相に任じられるのです(41:15~46)。

 一見、とんとん拍子の物語に思えます。このときヨセフは30歳になっていました(41:46)。奴隷と獄中の期間が13年あったということです。そうした逆境の時代を記す39章で創世記は 2・3・21・23「主が…共におられた」と重ねて記すのです。物事がうまく進むときにだけ主が共におられるのではない、むしろ悩みたじろぐあなたを主は支えられるのだと告げられています。

 ユダヤ人教会と異邦人教会をつなぐ献金運動を呼びかける書簡でパウロは神の 1・9「恵み(カリス)」について語っています。原文ではこの章に、同じカリスとの語はあと4回出て来ます。 4・6・7「慈善の業」20「募金」です。私たちは恵みとは豊かになること、慈善や募金は貧しくなることと考えていないでしょうか。でも受けるときにも出すときにも、そこには 1「神の恵み」があるのだと指し示されています。

 物語で主に支え導かれ、救いを得たのはヨセフだけではありませんでした。飢饉に備えたためにエジプトや近隣の民が(41:56~57)、さらには父ヤコブや兄弟たちもが救われたのです(42:1~)。私たちは大いなる主のみ旨・み業の内に置かれています。

「希望によって救われている」

創世記 37章1~11節
ローマの信徒への手紙 8章12~25節

 

 数週に亘って、創世記のヨセフ物語を味わいたく思います。ヨセフは、神の民の父祖の一人に数えられる(出3:6等)ヤコブの11番目の息子です。が、彼らは必ずしも立派な者たちではありませんでした。今日の箇所には3回も 4・5・8「憎」んだとの語が現れます。原因は父ヤコブにも、兄弟たちにも、ヨセフ本人にもあったのです。こうしてヨセフは兄たちによって、ついにはエジプトへ売られていくことになります(37:28)。

 そのような多くの問題に染まった人物と家族に、主なる神は関わりこれを導かれたとヨセフ物語は告げるのです。それは同様に弱さを悩みを問題を抱える私たちをも、主は支え導かれることを示しています。

 ヨセフ物語のキーワードは 5・9「夢」です。ヨセフが夢を見、夢を解く(40~41章)中で、彼と家族そしてその子孫たちは数奇な歩みを辿ることになります。

 ここの 5・9「夢」は私たちの思いを超える主の指し示し、導きを象徴していましょう。併せ開いた新約で、伝道者パウロは14「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」と述べ、種々の課題に22「うめ」く者も主の御業と約束に導かれるとき24「希望によって救われて」いくのだと語っています。

「全世界に行って」

マルコによる福音書 16章14~18節
イザヤ書 42章5~9節

 

 マルコ16:9~は本来のマルコ福音書には無く、後につけ加えられたものと考えられています。それゆえ、新共同訳でも[ ]に入れて記されています。たしかに、復活の主イエスが弟子たちをおとがめになったとの記述(14節)などには違和感も感じます。

 他方、ここには15「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」との命令があります。世界と人間そしてすべての被造物は多くの課題と困難を負っていますが、神の創造の祝福にあってそれらは存在し、その回復のためにこそ主イエスはこの地に十字架の救いを据えられたのでした。主イエスの15「福音」は全被造物の「うめき」を分かち、これを大いなる希望へと向けるものなのです(ローマ8:18~25)。

 イザヤ42:5~でも、 5「天」 5「地」と生けるものへの祝福、そして 6「主」に連なる者の使命が語られています。生きて働かれる主(9節)に従い、正義と平和の実現のために労することです(7節)。

 17「信じる者」に伴う17「しるし」とは順に、罪の支配からの解放、主の言葉に養われ生きること、誘惑に打ち勝つこと(創3:1~)、世に勝つ主に連なること、愛と癒しに向かうことと受けとめることができましょう。

 復活の主イエスは、私たちがたとえば教会といった限られた場所だけで喜ばしく生きることを望んではおられません。それぞれが遣わされた15「世界」で15「福音」を生き、分かち合うことへと召しておられます。

イースター礼拝 「あなたがたより先に」

マルコによる福音書 16章1~8節
創世記 50章15~21節

 

 最初の復活の証人となったのは、十字架から3日目の朝に墓を訪ねた女性たちでした。そこに主イエスはおられず、御使いと思われる若者から 6「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」 7「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。…そこでお目にかかれる。」と告げられたのでした。

 この 7「先に…行かれる」との語(プレアゴー)は、受難の待ち受けるエルサレムに向けて「イエスは先頭になって進んで行かれた」(10:32)、救い主を求めて旅をした占星術の学者たちを「星が先立って進み」(マタイ2:9)などの箇所で用いられており、いずれも人の思いを超えた神の導きが指し示されています。

  7「ガリラヤ」とは人々の喜怒哀楽がある生活の場であり、主イエスが宣教を始められた場所です(1:14)。主は復活の力を帯びてそこでもう働いておられる、だからあなたがたも追いていきなさいと呼びかけられています。思いを超えた道に踏み出していくのは勇気が要ることでしょう。でもそのようにして学者たちは、大きな喜びにあずかったのです。

 かつて弟を妬んでエジプトに売り飛ばした兄たちがその罪を悔いたとき、弟ヨセフは20「あなたがたは…悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救」われたと思いを超える神のみ業を仰ぎ、これを赦したのでした。限りある人の思いと業を主は復活の力をもって、神に連なる希望と和解と完成へと結んでくださるのです。この招きに信仰をもって追いていきたく願います。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」

マルコによる福音書 15章33~41節
イザヤ書 53章1~6節

 

 24「十字架」は手足を釘付けにし、苦痛と衰弱によって死に到らせるという残酷な刑罰です。しかしその苦痛のあり様を福音書は必ずしも描写していません。

 福音書が着目しているのは、主イエスが“捨てられた”との事実です。十二弟子の一人ユダによって裏切られ(14:10)、捕縛に際して他の弟子たちも見捨てて逃げ去り(14:50)、ペトロはイエスを知らないと言ったのです(14:68)。5日前に歓喜して迎えた(11:9)人々は「十字架につけろ」と叫びました(14節)。

 のみならず、絶命直前に34「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と、主イエスは最も信頼していた神にも見捨てられる経験をなさったと福音書は告げるのです。主イエスがご自身を重ねておられたに違いないイザヤ53章の苦難の僕の預言は、それは 5「わたしたちの背き…私たちの咎のため」であったと告げ、Ⅱコリント5:21は「わたしたちはその方によって神の義を得ることができた」のだと記します。

 神の赦しは罪を見逃すことではありません。罪は裁かれねばならないことを見据えて主イエスは十字架を担われ、神と人に捨てられる裁きを引き受けられたのです。

 この凄まじい主イエスの決意と業は、私たちにとって赦しであり慰めです。私たちはいかなる時も、共におられる主イエスとその愛を見いだすからです。 5「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と告げられている通りです。

教会創立131周年記念礼拝 「良心を手腕に」

テモテへの手紙 一 1章18~19節
エレミヤ書 20章7~9節

 

 当教会は、同志社の分校ともいう形で1886(明治19)年に開校した宮城英学校(のちの東華学校)の教員・学生たちを中心にその翌年創立されました。ここには、自由教育と自治教会によって日本に福音を根づかせようとした新島襄の願いが表れています。

 新島は1888(明治21)年に公にした同志社大学設立の旨意において、“…教育ハ、決して一方に偏したる智育にて達し可き者に非す、…唯た上帝を信し、真理を愛し、人情を敦くする基督教主義の道徳に存する…”と智育と徳育の両方の必要を述べ、 “…良心を手腕に運用する人物を出さんことを勉めたりき” とそれらを結びつける良心の重要性を語っています。

 今日開いた聖書にも19「良心」との語があります。原語には “共に見る” との意味があり、開かれた態度で他者と共に見ること、究極的には神と共に見ることが指し示されています。上記の旨意の後段には、“…立憲政体を百年に維持せんと欲せは、…智識あり、品行あり,自から立ち、自から治むるの人民たらざれば能はず” とあります。今日の状況に対する、130年前の警句として受けとめるべきでしょう。

 エレミヤはB.C.7~6世紀の激動期に、時流に流されず逆境にあっても神の言葉を語り続けた預言者でした。それは 9「主の言葉は…心の中、骨の中に…火のように燃え上が」るからだと、エレミヤ自身が告白しています。

 知識・技術の運用を間違えれば、地球規模の破滅を招きかねない時代に私たちは生きています。神の真実を仰ぎ、良心を手腕に知識・技術そして時代を運用することは今日そして将来のための重要な課題です。

東日本大震災7周年を覚えての礼拝 「記念として語り伝える」

マルコによる福音書 14章3~9節
イザヤ書 52章4~6節

 

 3月11日には、あの時の具体的な体験とも相まっていろいろな思いがあるでしょう。突然の喪失、人間の小ささ、その驕りなどその多くは痛く苦しいことながら、この日は東北にある者に忘れ得ぬ日となりました。

 今日開いた旧約で、預言者はイスラエルに与えられた苦難の歴史を思い起こしています。 4「エジプト」での奴隷の時代、 4「アッシリア」の搾取、そしてバビロン捕囚(5節)…、でもその中で 6「わたしの民はわたしの名を知るであろう」と告げられています。主は民の嘆きにご自身心震わせつつそこにおられるのであり、民は右往左往した後 6「見よ、ここにいる」と宣言される主を見いだすからです。事実、旧約文書の多くはこれら苦難の歴史の中から編まれてきました。

 主イエスが最後の晩餐の場で告げられた「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)との言葉は、十字架に刻まれた主の救いを信仰者が想起し追体験する聖餐の制定語となりました(Ⅰコリント11:23~)。記念するとはただ振り返るにとどまらず、今を生きる私に意味あることとして受けとめることです。

 十字架の数日前、主イエスに只ならぬ様子を感じたのでしょう、一人の女性が 3「純粋で非常に高価なナルドの香油」を主イエスの頭に注ぎかけたとき、主は 9「福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と言われたのでした。忘れ得ぬ震災の出来事においても、私たちはその只中に立たれていた主に出会うことができるでしょう。また今とこれからに意味あることとして、記念することができます。

「業を成し遂げるために」

ヨハネによる福音書 17章1~8節
創世記 32章23~31節

 

 十字架前日の訣別説教に続いて、主イエスが神と 6「世」の間に立たれ執り成しを願った “大祭司の祈り” の箇所を開きました。

 このヨハネ福音書ではこれまで「時はまだ来ていなかった」(2:4、7:6・30、8:20)と繰り返し語られていましたが、ここで主イエスは 1「父よ、時が来ました」 4「わたしは…業を成し遂げ」ますと祈られたのでした。 4「成し遂げ」との語は十字架上の主の口からも語られており(19:30)、十字架が神の救いの歴史の頂点であることを指し示しています。

 旧約の時代、人は神の栄光を直接見ることは許されず(出33:20)、その名もなかなか明かされることはありませんでした(創32:30)。がここでヨハネ福音書は、今や十字架において神の 1・4・5「栄光」、そして 6「御名」が顕わされようとしていると語ります。主イエスの受肉と十字架にこそ、 6「世」とそこに生きる者を何としてでも救うとの神の意思、その愛が示されているからです。

 やがてこの神の業を 8「知り」 8「信じ」る者が起こされ、希望と13「喜び」が分け与えられていくだろうと告げられています。そして祈り末尾において、ついには21「世」も26「御名」すなわち神の意志を受けとめ、ついには22「一つにな」って平和と喜びを分かち合うようになるとのゴールが指し示されています。神の民は今も生きて働かれる主と共に、神の国を目指す旅路を歩むのです。

「わたしは道であり、真理であり、命である」

ヨハネによる福音書 14章1~10節
出エジプト記 3章13~15節

 

 いわゆる最後の晩餐の席で主イエスは、 6「わたしは道であり、真理であり、命である」と自らを顕わされました。この福音書には、 “わたしは~である” と語られる主イエスがよく現れます(6;48、8:12、10:9・11等)。それは、主なる神が「わたしはある」(出3:14)との言葉でご自身を顕わされたことに重なります。

 別離を予感し 1「心を騒がせ」る弟子たちに、私は 6「父」なる神へと続く 6「道」となるためにここから出ていくのだと主イエスは語られました。

 ヘブル語の “道” との語は “踏みつける” に由来します。あなたがたは私を踏みつけて 6「父」なる神へと到りなさい、そのために私は十字架へと進むと告げられたのです。主イエスの十字架こそ、私たちに向けられた 6「真理」と 6「命」にほかなりません。

 主イエスご自身が私たちの 6「道」となってくださる、これは剣道・書道・茶道…の“道”に似ているかもしれません。これらはどこかへの通路を意味するのではなく(5節)、剣に書に茶そのものに生きることを指しています。主イエスという 6「道」を歩むとは、主イエスと共に 6「真理」と 6「命」を生きることです。

「荒れ野で」

マルコによる福音書 1章1~8節
申命記 8章1~10節

 

 3・4「荒れ野」とは野草や灌木しか生えない未耕地のことで、35「人里離れた所」とも訳されています。そうした荒れ野で洗礼者ヨハネは 4「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えました。主イエスは宣教の働きに入られる前に13「四十日間…サタンから誘惑を受けられ」ましたし、しばしばそうした場所で祈られました。それは何故だったでしょう。

 出エジプトの指導者モーセは民に 2「四十年の荒れ野の旅を思い起こ」させ、それは 3「人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを…知らせるため」だったと告げました。ヘブル語で 2「荒れ野」を意味する言葉の語源には“語る・告げる”との意味があります。人が寄りつかない荒れ野は人が神と出会い、その言葉を聞き、向き直って歩み出す場所なのです。 “荒れ野の40年” は、約束の地で神の民として再出発する上で必要な期間・経験でした。

 レント(受難節)は灰の水曜日からイースターの前日までの40日間と6つの主日から成る期間であり、主の十字架を想起し悔い改めを覚える時です。 4「悔い改め」とは単に反省することではなく、神の許で方向転換することです。このことは、私たちも虚心に神の言葉に聞き歩みを確かめ再び歩み出すことの必要・大切さを指し示しています。