「その犠牲によって」

ルカによる福音書 23章44~49節
エレミヤ書 15章5~9節

 

 主イエスのエルサレム宣教は、ついにご自身の十字架に至りました。が、釘づけられ命を注ぎ出すこの犠牲こそ、福音を成就させる業だったのです。

 十字架上の死に際し、44「全地は暗くなり…太陽は光を失っ」たとはどういうことでしょうか。併せ開いたエレミヤ15章には、エルサレムの背きに神の怒りと裁きが下る時 9「太陽は日盛りに沈み」人々は 9「絶望する」とあります。主イエスはこのとき本来なら世が受けるべきこの神の怒りと裁き、そして絶望を引き受けられたのでした。

 45「神殿の垂れ幕」とは、エルサレム神殿の最奥、聖所と至聖所を隔てる幕のことです。これを越えて至聖所に入ることは年に一度、贖いの儀式を行う大祭司にしか許されていませんでした(レビ16:1~)。これが45「真ん中から裂けた」ということは、人と神の隔てが取り払われたことを意味しています。「神の国は近づいた」(マルコ1:15)と始められた福音宣教の業は、ここに成就したのです。

 伝道者パウロはより広い視点でこれを捉え、世はキリストの十字架によって神との和解を与えられたのであり、この大いなる恵みに与る者はそれぞれ和解のために奉仕する任務を与えられているのだと述べています(Ⅱコリント5:17~)。

 主の十字架の出来事は私たち一人一人に最も深いところで慰めと平安を与え、世界と歴史に希望と方向を指し示すものであることを心に刻みましょう。

「お前がキリストなら」

ルカによる福音書 22章63~71節
エゼキエル書 18章21~29節

 

 主イエスは祈っておられた39「オリーブ山」で捕縛され、まずユダヤ66「最高法院」の、次いでローマ帝国総督23:1「ピラト」の裁判を受けられました。裁く彼らは口々に67「お前がメシアなら」、70「お前は神の子か」、23:3「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問したとあります。原文では “なら・なのか” に相当する “エイ” が文頭に付くだけで、もしそれを省けば、告発者らが「お前がメシア」「お前は神の子」「お前がユダヤ人の王」と告白したかのように書かれています。

 主イエスはご自身、キリストだとも神の子だとも王だとも言われませんでした。無論知らずにですが、主イエスを死に追いやった者が十字架という驚くべき神の救いの業に加担し、主イエスがどなたであるのか言い表したのでした。

 祭司長や律法学者らユダヤ教当局者たち、ピラト、主イエスを引き渡したユダ、見捨てたペトロ、殺せと叫んだ群衆…、福音書は主イエスを十字架に追いやった人間の様々な姿を描き出しています。そして私たちは、その中に自らの姿を見いださざるを得ません。自己中心をという人間の罪が束になって主イエスを十字架につけた、そしてその十字架は人間をその罪から解放するための神の救いの業であった、と福音書は告げているのです。

 23「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか」と主は呼びかけられています。十字架は主イエスを死に追いやった者、そして私たちのためでもありました。続けて23「彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜」ぶ、と告げられています。主イエスの十字架は、世と生けるものが滅びから命へと向き直り歩み出すために、この世に固く据えられています。

「誘惑に陥らぬよう、祈っていなさい」

ルカによる福音書 22章39~46節
箴言 1章8~19節

 

 先週開いた箇所に「ユダの中に、サタンが入った」(22:3)とありました。荒れ野で「時が来るまでイエスを離れた」(4:13)サタンは来たる十字架を前に使徒を、そして主イエスをも誘惑したのです。

 オリーブ山で、主イエスは誘惑と激しく戦われました。十字架とは苦しみまた死のみならず、37「犯罪人の一人に数えられ」ること、神の呪いをわが身に受けることでした(ガラテヤ3:13)。42「御心なら、この杯を…取りのけてください」と祈られながらも、42「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と誘惑を振り切り十字架を引き受けられたのです。

 私たちにも及ぶ誘惑の力を侮れないことは、主イエスが「誘惑に陥らないように、祈りなさい」(40・46節)と繰り返しておられることからもわかります。誘惑は14「我々と運命を共にせよ。財布もひとつにしようではないか。」と迫るのだと、箴言は語っています。命や尊厳より豊かさを優先させてしまう世の有様に、人間の脆さは如実に示されています。

 40「誘惑に陥らない」ためには、40「祈りなさい」と教えられています。わが思い・力を超える主なる神と連なり、頼ることが祈りです(マルコ9:29)。世と生けるものを呪いから解き放ち祝福へと結ぶために戦われ勝利された主イエスが、私たちと共におられます。 “主よ、ともに宿りませ” (讃美歌218)と口ずさみつつ、歩み行きたく願います。

「み業は進んだ」

ルカによる福音書 22章1~13節
出エジプト記 12章5~14節

 

 昨年9月の説教で讃美歌290に触れ、十字架につけられ踊れなくされた主イエスは復活を遂げ今も踊っておられると語りましたが、釘づけられた受難の時こそ実は渾身で踊っておられたのではなかったかと後に思い直しました。

 今日開いた前半には、主イエスを亡きものとしたい者たちの計略が進んでいった様子が記されています。あろうことか使徒の一人ユダに 3「サタンが入った」のです。ユダの心の内は知り得ませんが、サタンは彼の罪に働きかけたのでした。あの荒れ野で誘惑した「悪魔は…時が来るまでイエスを離れた」(4:13)とありました。ついにその時が来たのです。

 後半には13「過越の食事」が備えられたことが記されています。これは旧約で開いたように、主なる神がみ腕を伸ばしイスラエルの民をエジプトから解放されたことを記念する行事です。その際には必ず 7「小羊を屠る」ことになっていました。さて準備に際して、主イエスはすべてを見通しておられたとあります。この主は 2「祭司長たちや律法学者たち」の企て、さらには 3「サタン」の誘惑、 3「ユダ」の思いをもご存じだったと読むべきです。

 ここには、人の企てと神の計画が重ねられています。主イエスは罪に操られる人の愚かさと悲しみを知りつつ、自ら犠牲の 7「小羊」となることを選びとられたのです。それは世と生けるものを罪の束縛から解放することこそ、神の計画でありご自身の使命であったからです。まことに “悪が力をふるう中も、み業は進んだ” (讃美歌290④)のでした。

 この主イエスご自身を指し示す 7「過越の小羊」に、破れある使徒たちもそしてユダもあずかったのです。主イエスの限りない慈しみを感じます。

教会創立132周年記念礼拝 「主にある絆を覚えて」

ローマの信徒への手紙 10章8~15節
申命記 26章16~19節

 

 日本に会衆主義の伝統をもたらすこととなった海外宣教団体アメリカン・ボードは、Haystack Movement(干草の運動)と呼ばれる19世紀初頭の大学生たちの熱心な祈りをきっかけに生まれました。

 このボードの宣教師として帰国した新島襄が同志社英学校を創立した翌年の1876年、熊本から一群の学生たちが合流します。熊本洋学校でL.L.ジェーンズの薫陶を受け花岡山で奉教趣意書に署名した、信仰と伝道に燃える若者たちでした。強烈な個性を放つ彼らは、やがて “熊本バンド” と呼ばれるようになります。

 熊本バンドは、横浜バンド・札幌バンドと並んで日本プロテスタント三大源流とされますが、ほかにも静岡バンド・弘前バンドなど各地で信仰者の群れが起こされました。山崎為徳・片桐清治らの系譜は水沢バンドと呼びうるものだと考えます。いずれの群れにおいても、若者たちがキリスト教信仰を生涯の道として自覚的に選び取って行ったことに大きな特徴があります。

 彼らは共々に 9「口でイエスは主であると公に言い表し」、 9「心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じ」て福音を生きたのでした。そして15「遣わされ」て15「良い知らせを伝える者」となったのです。当教会にも連なる伝統の源流に、信仰を生き連帯の内に生涯を歩みゆこうとの熱心な信仰が息づいていたことを覚えたく思います。

東日本大震災8周年を覚えての礼拝 「主に立ち帰ろう」

哀歌 3章10~40節
使徒言行録 14章14~17節

 

 東日本大震災発生から8年を数える礼拝をまもっています。 “発生” と加えるのは、今も震災の課題の中を歩んでいる人がいるからです。震災の体験と思いは個々人まちまちです。そうした私たちが集まって記念の礼拝をもつ意味を、改めて考えてみました。様々な違いがあるからこそ主なる神の前に集まり、静まり、それぞれの出来事の深淵を振り返ると共にそれを分かち合う、そこに意味があるのではないでしょうか。

 今日共にした哀歌は、B.C.6世紀亡国とバビロン捕囚の苦難の中で編まれた歌です。今日開いた箇所で、詩人は呻吟しつつもその苦難もまた主から与えられたものであることを見つめ、その意味を問うています(1節)。すべてを37「あらしめ」得るのは、主だけであるからです(37~38節)。その原点に立ち18「ただ主を待ち望もう」40「主に立ち帰ろう」と思い定めたとき、33「人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではな」く、22「慈しみ」22「憐れみ」をもって日々新たなことを起こしてくださる主の23「真実」を見い出したと詩人は歌っています。

 私たちも震災と向き合う中で、それぞれに自らの小ささと、その小さな者をみ旨をもって養い新たな業をもって導かれる主に出会ってきたのではないでしょうか。25「主に望みをおき尋ね求め」つつ、これからもそれぞれの道を歩み行きたく願います。

「その日と今」

ルカによる福音書 21章29~38節
ヨエル書 2章11~14節

 

 ルカ福音書によればエルサレム宣教の間、主イエスと弟子たちは37「『オリーブ畑』と呼ばれる山」で野宿していたとあります。飼い葉桶に降誕され、「人の子には枕する所もない」(9:58)と言われた主イエスは、十字架の待ち受ける都にとどまってその時に備えておられたということです。

 7節以降、神によってもたらされる世の完成・終わり=終末を巡る教えが続いていますが、その日だけが注目されているのではありません。 9「世の終わりはすぐには来ないからである」と述べられ、29「いちじくの木や、ほかの…木を見」るように今を見つめること、与えられた一日一日を大切に生きること(34節)が指し示されています。不意に襲うかもしれない35「その日」とは終末の日であると共に、思いがけない転機や人生を閉じる日のことだと受け取ることもできます。

 8年前の大震災を通し私たちもまた、 “今” を大切にしてこそ35「その日」に備えられること、35「その日」を覚える中で“今”が位置づけられることを学びました。

 主イエスは限りある私たちにまことの命を分け与えるために、世の流れゆく “今” に降誕を遂げられ、宿られたのです。時に平凡とも思える “今” にも私たちに向けられた生ける主のみ旨とみ業があることに気づかされます。

「人の見るところ、神のまなざし」

ルカによる福音書 21章1~6節
サムエル記上 16章5~13節

 

 1「目を上げて」 2・3「見て」 6「見とれて」と、今日の箇所では眼差しが意識されています。人々は 1「金持ちたち」のたくさんの献金に注目し、エルサレム神殿の 5「見事な石と奉納物」に目を留めるのです。が、主イエスは 2「貧しいやもめ」のわずかな献金に込められた信実をご覧になり、歴史の流転を超えてなお残るものは何かと問われるのです。

 サウルに代わるイスラエル王を選ぶ際、主は 7「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と告げられ、羊の番をしていた末の子ダビデを選ばれたのでした。主なる神は真実を見通され、世と私たちはその眼差しの内に置かれています。

 ある講演で、時代はポスト・モダンを突き抜けてポスト・トゥルースに入ってしまったとの言葉を聞きました。真実の多様化どころか、もはや真実は重要ではなく個人の感情に訴えるものが影響力をもつ時代との指摘です。“ポスト・トゥルース”はオックスフォード英語辞典により2016年を象徴する言葉に選ばれています。

 社会からは共通の価値が見失われ、依って立つ基盤は流動化していきます。私たちは何に価値を置き、何をどう見極めていきましょうか。いや、まずそれ以前にあなた自身また世界と歴史が真実なる眼差しの内に置かれているとの主の言葉に耳を傾けてこそ、私たちに確かな基盤が与えられることを銘記する必要があります。