「むなしくは終わらない」

ルカによる福音書 7章1~10節
創世記 1章1~5節

 

 ローマ軍で100人程度の兵卒を指揮する 2「百人隊長」は、一兵卒が昇進していって就くことができる最高の階級であったといいます。 8「権威」そして命令は絶対という軍隊にあって、この 2「百人隊長」は厳しく苦しい経験を重ねてきたことでしょう。それでいて 2「部下」をこのように思いやり、さらには占領統治している 3「ユダヤ人の長老たち」から好意をもたれているのですから、その人格の高さが窺われます。

 が、その彼が自らを 7「ふさわしくない」と言うのです。キーワードは“言葉”(7・8節)です。 8「行け」 8「来い」 8「これをしろ」との軍隊の命令は絶対に果たされても、 2「病気」そして生死にあって自らの言葉はむなしく響かざるを得ないことを彼は噛みしめたのでしょう。そしてむなしくは終わらない言葉をください、と主イエスを依り頼んだのです。

 創世記冒頭の創造物語は 3「光あれ」との神の言葉に 3「こうして、光があった」、さらに与えられた言葉で世界のすべては創造されたと、神の言葉が無から有を生みすべてを成し遂げることを告げています。この神から主イエスは来られ、前章ではその言葉に聞きそして生きなさいと教えられていました(6:46~49)。

 どこかで破れざるを得ない言葉に生きる私たちは、確固たる言葉を必要としています。イザヤ55:8~は、そのような私たち一人一人も神の言葉によって派遣されそれぞれ使命を与えられていると告げています。それは私たちが破れを抱えつつも、それを繕って余りある神の言葉を帯びているということでもあります。

「聞き、行う人」

ルカによる福音書 6章16~49節
サムエル記下 23章1~7節

 

 “平地の説教”(6:20~49)も平行箇所の“山上の説教”(マタイ5:1~7:29)も、主の47「言葉を聞き…行う」ことの大切さで締めくくられています。

 48「洪水」とは、時に巡り来る試練を指していましょう。震災研修に来た高校生から“被災経験をたくさん聞いて、苦しく泣きそうなこの思いをどうしたらいいでしょう”と訊ねられ、私自身たじろぎながらも“痛く厳しい出来事の中にも何かを意味を見いだす時、思いは変えられていくのだと思うよ”と答えました。試練のただ中にも立ち現れる“意味”は自ら掴めるものではなく、然るべき時に与えられるのだと思います。試練にも神の栄光を見いだし(ヨハネ9:1~)、無から有を呼び出し(ローマ4:17)、死に救いを顕わされた(24:46~47)主なる神を私たちは仰ぎ、試練にも復活の光が与えられることを信じ求めるのです。十字架と復活という深い48「土台」に根ざした47「言葉」に聞き、生きなさいと教えられています。

 イスラエル史上最も偉大な王とされる 1「ダビデ」の最後の言葉を記すに際し聖書は、もともと羊飼い 1「エッサイの子」であった彼が主に 1「高く上げられ」 1「油注がれた」のだとその生涯を総括します。そしてダビデ自身も 5「神と共にあって私の家は確かに立つ」のであり、自らの愚かさと罪を超えて(サムエル下11:1~12:23) 4「光」 5「救い」 5「喜び」は神から来ると告白したのでした。 2「主の言葉」に生きる者の幸いと強さを思います。

平和主日礼拝 「あなたの裁きを求めます」

ルカによる福音書 6章37~38節
イザヤ書 26章7~12節

 ガリラヤ宣教の途中、多くの聴衆に語られた “平地の説教” (17節)の一部です。ここで主イエスは37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。」という形で、37「罪人だと決めるな」37「赦しなさい」38「与えなさい」と教えられました。この言葉は、人に優しく寛大にせよとの教えに留まりません。むしろ人は破れを抱え、罪人として裁かれ、赦され、与えられねばならない存在であることが告げられていましょう(39~42節)。

 誰が世と私たちを正しく裁き赦しへと導き得るのか、それは全てをご存じであり完成へと導かれる主なる神によってです。併せ開いたイザヤ26:7~には、主は混乱・混沌を超えて12「すべての業を成し遂げ」12「平和」へと導かれるのであり、その 9「裁きが地に行われるとき、世界に住む人々は正しさを学ぶ」と歌われています。 7「神に従う者の行く道は平ら」とは、その主に信頼する者は出会う困難をも乗り越え平和を待ち望み得ることを指していましょう。

 私たちは別のことと捉えがちですが、主のもとで裁きと赦しはつながっています。そのことは主ご自身が人となり、罪の裁きを十字架で受けとめられて裁きと赦しが一つにされたことに示されています。あなたがたはこのように37「赦され」豊かに38「与えられ」ている、だから隣人をも37「赦し」38「与えなさい」と告げられています。

「安息日の主」

ルカによる福音書 6章1~5節
出エジプト記 20章8~11節

 

 1「安息日」は十戒で休息と神礼拝のときと定められたもので、金曜日没~土曜日没の一日がこれに当たります。11「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから」と神による天地創造がその根拠として挙げられています。そしてユダヤ人のみならず全ての人さらには家畜にも、言わば創られたすべての命がこの休息に与るべきと指し示されています。

 安息日規定はもう一つ申5:12~にもあり、ここでは15「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばして…導き出された」と出エジプトの出来事が根拠とされています。

 なぜこの日は10「いかなる仕事もしてはならない」とされるのか、それは命の基本的なあり方を思い起こすためです。仕事は何かを生み出し手にするためになされます。でも“持つ”ことが命を保障するのではありません。それに先立ち命は与えられ救われて“在る”のであり、この基本を忘れるとき命は根拠を見失い隷属に逆戻りしていくのです。

 ところがこうした伝統を受け継いでいるはずの 2「ファリサイ派」の人たちは、弟子たちのしたことは収穫・脱穀にあたるから律法違反だと見咎めたのです。こうした変質を主イエスは嘆きつつ、 5「人の子は安息日の主である」と言われました。この言葉をどのように受け止めたらよいでしょう。主イエスは、安息日がすべての人の祝福と解放の日であることを宣言されると共に、その平和に人々を呼び帰すためにご自身 5「人の子」として降り立たれたのでした。この主を仰ぐ信仰者たちはのち、主が復活を遂げられた日を安息日・主日としました。

 ここの 5「人の子」との言葉はすべての命をも指していましょう。私たちも主日の礼拝において命が主なる神の恵みと救いの内に置かれているその基本を確かめ、一週の旅路へと出発するのです。

「新しい布、新しい革袋、新しい生き方」

ルカによる福音書 5章33~39節
イザヤ書 42章1~9節

 

 皆が33「断食」しているのに33「あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしている」とその常識外れを問われたとき、主イエスは36「新しい…布切れ」37「新しいぶどう酒」の譬を語られました。晒していない36「新しい…布」は収縮度が高く37「新しいぶどう酒」はガスを含んでいて、36「古い服」37「古い革袋」を損なってしまいます。そのように主イエスのみ業はダイナミックであって、古いあり様では受け止めきれないことを教えられたのでした。

 併せ開いたイザヤ42章でも人の思いを超えゆく主のみ業が語られています。 9「成就した」 9「初めのこと」とは、異国ペルシアの王キュロスによるバビロン捕囚からの解放でした。これも思いもしなかった天の配剤でしたが、さらにこれを超えゆく 9「新しいことを…告げよう」と主は語られたのでした。

 3「傷ついた葦を折ることなく…裁きを…確かなものとする」 1「僕」とは、仕える仕方で福音を告げ知らせ自ら十字架へと進まれた主イエスを思わせます。さらにこの主が今も生きて、私たちの思いと行いに先立ち 9「新しいこと」を起こして歴史を導かれることがここでは指し示されていましょう。

 主イエスは先の譬を語られると共に、福音がもたらされた今は34「婚礼」にも比すべき喜びの時なのだと告げられました。私たちは礼拝において、この喜びに立ち戻ります。バビロン捕囚から帰還した民は「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。…主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」との呼びかけのもと礼拝を再開し、共々に喜び祝いました(ネヘミヤ 8:10~12)。私たちも主の臨在とそのみ業を喜び祝う中で、新しい一週を新しく生きるべく派遣されて行くのです。

「床を担いで家に帰りなさい」

ルカによる福音書 5章17~26節
詩編 78編40~58節

 

 当時の18「家」は箱型で外階段があり19「屋根」は木の枝や日干し煉瓦・土などで出来ていましたから、穴をあけることは難しいことではありませんでした。が、19「人々」が集まっているその真上から穴をあけ19「病人を床ごとつり降ろした」というのは、あまりに大胆そして非常識な行動です。

 この病人と連れてきた18「男たち」は強い絆で結ばれていたのでしょう。主イエスの評判を聞きつけ、重荷を一刻も早く取り除いてほしいと18「床」に乗せた彼を懸命に運んで来たのです。主イエスは20「その人たちの信仰を見て」、20「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言されたのでした。

 ところが人々の一部から訝りが起こりました、21「神のほかに…だれが罪を赦すことができるだろうか」。これに対し主イエスは、23「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と訊ねられたとあります。口で罪の赦しを言うのは簡単だ、と人々は考えたかも知れません。が、主イエスのこの宣言は容易く発せられたものではありませんでした。

 20「罪」の原意は“的を外す”ということです。神の恵みの許に創られ養われながら繰り返しこれを裏切ったイスラエルの民を指弾する詩78編は、その罪について57「真実を失い、狂った弓のようにねじれた」(口語訳)と記しています。喜びを希望を平和を願いながら互いに傷つけあう世と私たちは、このねじれを断ちがたく纏っています。この罪の呪縛から神の大いなる祝福へと世と被造物を解放するために、主イエスは十字架へと進まれたのです。

 癒された彼に、主イエスは24「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。24「家」とはこれからの歩みのこと、24「床」は彼がしてもらった重荷の担い合いを指していましょう。神の赦しのもと互いに支え合い生きること、それが罪に勝って生きる道だと主は彼を、人々を、そして私たちを送り出されたのです。

「人間をとる漁師」

ルカによる福音書 5章1~11節
エレミヤ書 16章16~18節

 

 神の国の宣教を始められた主イエスが、 8「シモン・ペトロ」10「ヤコブ」10「ヨハネ」らガリラヤ湖の漁師を弟子に召された場面です。10「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」との主イエスの呼びかけに、彼らは11「すべてを捨ててイエスに従った」のでした。いったい何が彼らを動かしたのでしょう。

 主イエスは彼らのことをしっかりと 2「ご覧になっ」ていました。彼らが徒労感の中で 2「網を洗っていた」こと、おそらく 5「夜通し苦労」したのに全くの不漁であったことなどをです。その後 3「舟から群衆に教え」られたとき一番そばにいながら必ずしも聞いていなかったシモン・ペトロに、主イエスは彼らの生業である 4「漁」を通してみ業を顕わされたのでした。

 10「人間をとる漁師」との表現には、併せ開いた16「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる…わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている」との旧約の言葉が響いています。ここには人の18「罪と悪」を見逃すことなく、ついには救いに導かれる主のみ業が語られています。

 彼らはそのような眼差しでこの私をも見つめ召される主イエスに出会い、そのような神の漁へといざなわれたのです。ここから始まった彼ら10「人間をとる漁師」の歩みは大いなる充実と祝福に溢れたものとなりました。シモン・ペトロは種々の失敗や挫折を経験しつつもそれらを凌駕する赦しと派遣を繰り返し与えられ、主に従う生涯を全うしました。同様に主に捉えられて従い、その生涯を充実の内に歩んだ多くの信仰者を私たちは知っています。

「福音の種蒔き」

ルカによる福音書 4章42~44節
イザヤ書 28章23~29節

 

 新島襄ゆかりのカタルパを教会前庭に植樹してより3年、40cmほどだった苗木は180cm位にまで成長しました。その後も同志社関係者の尽力によって福島の牧人会本部・福岡の警固教会などに苗木が植えられ、それぞれ元気に成長しているようです。

 宣教の業に入られた主イエスは、31「カファルナウム」の町を拠点としてガリラヤ伝道を始められました。悪霊や病気など様々な力に囚われ苦しむ41「一人一人に手を置き」これを癒される主イエスの評判は広まり、多くの者たちが押し寄せるようになったのです。ある42「朝」、主イエスは42「人里離れた所」で祈っておられたとあります(マルコ1:35)。主イエスとても悩める一人一人と向き合い癒すことは力を注ぎ出すことであり、主なる神との深い交わりを必要としたことを知らされます。でもその場にも人々は押し寄せ42「自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」のでした。

 でも主イエスは43「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」とこの町を発って行かれました。なお癒しが待たれているにも拘らず、主イエスはなぜ離れて行かれたのでしょうか。

 主イエスは43「神の国」、神の支配の到来を告げる43「福音」の種蒔きをしておられたからです。悪霊や病気の癒しは神の支配の実現、言わばその実りとして与えられたものでした。種はすぐに実りに到らなくてもやがて「三十倍…六十倍…百倍」の喜びに至る力を秘めている、これを仰げと主イエスは繰り返し教えられました(マルコ4章など)。

 カファルナウムの人々にも、そして私たち一人一人にもその種はすでに蒔かれています。その成長は大いなる29「主の計らい」の内に置かれており、喜びの実りへと導かれゆくのだと併せ開いたイザヤ28:23~に告げられています。

「主の恵みの年」

ルカによる福音書 4章16~21節
詩編 90編1~12節

 

  ローマ世界において古代から中世まで広く使われた暦は、B.C.45年にローマの執政官ユリウス・カエサルが制定したユリウス暦でした。当時の人はこの暦を用いつつ、ローマ建国年や皇帝即位年などを起点として年を数えていました。がA.D.525年に神学者ディオニュシウスがキリスト降誕を起点とする紀年法を提案、これがキリスト紀元(西暦)となりました。後年、キリスト降誕以後がA.D.(Anno Domini=ラテン語で主の年)、以前はB.C.(Before Christ=キリスト以前)と呼ばれるようになったのです。

 国や元首を暦の起点とするのは、時・歴史への支配権を示すものです。キリスト紀元は時・歴史を人間の支配から解き放ち、主なる神に帰す役割をも持っていました。そしてB.C.は天地創造、A.D.は主の完成へも遥かに接続されたのでした。

 今日開いた詩編90:1~12には神のみが時の主であること、実に 4「一時」に過ぎない私たちの生がでも確かに神の歴史に刻まれ覚えられていることが告げられています。

 ルカによる福音書によると主イエスは宣教開始から間もなく出席された安息日礼拝の場でイザヤ61:1~2を朗読され、大いなる解放と自由の訪れを告げる19「主の恵みの年」が21「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されました。その究極的な実現は主の完成の時を待たざるを得ないでしょう。しかしこの世界に来られた主イエスの福音を21「耳にした」ところからそれはすでに始まっているのです。私たちの日々にもそのような主の意思と恵みが刻まれていることを仰ぎ、大切に今を歩む者とされたく願います。