「もとの牧場に帰らせる」

エレミヤ書 23章1~6節
マタイによる福音書 18章10~14節

 

 南王国ユダの滅亡とバビロン捕囚の後、エレミヤが語った預言です。 1「災いだ」と処断されている 1「牧者たち」とは、王国末期の王たちのことです。正義を行わず私欲に走った彼らの姿は(22:13~30)、主を忘れ目先の利益・安定を求め続けたイスラエルの罪の象徴でした。こうした牧者たちを廃し、 3「このわたしが…羊を…もとの牧場に帰らせる」と主は宣言されたのでした。

 直接には、およそ半世紀後捕囚からの解放そして故国への帰還を実現された主のみ業の預言と解せます。のみならず、世界と生けるものの 6「救い」のため主自ら降られた降誕の出来事が指し示されていましょう。

 5「正義と恵みの業」とは正しくふるまうことにとどまらず、愛と真実をもって迷い誤った者をもついには正しい関係へと導き帰されるみ業を指しています。私たちにも向けられたこの主のみ旨を、主イエスは迷い出た一匹の羊を捜す牧者の譬で語られました(マタイ18:10~14)。

 この真の牧者が連れ帰られる 3「もとの牧場」とは、創造の原初に主が被造物に与えられた祝福のあり様です。課題と悩みを抱える世界と生けるものを祝福と平和に連れ帰るべく主は降誕を遂げられ、今も働いておられることを仰ぎましょう。

「今日、希望がある」

イザヤ書 60章1~7節
ペトロの手紙 一 2章9~10節

 

 教会機関紙 “カケスだより” 最新号で松本寛之兄が紹介してくれた “だから今日、希望がある” を歌います。人権と正義のため働いたフェデリコ・J・パグーラ牧師が作った詞に、アルゼンチン・タンゴの曲がつけられた印象的な讃美歌です。1979年に軍事政権下のアルゼンチンで生まれ、広く中南米そして世界で歌われるようになりました。

 主イエスの生涯のゆえに、暗黒の中にも希望があると歌われています。メッセージの一つは“今日、希望がある”と告げられていることです。歴史の完成による正義の実現は将来のことであっても、それを約束し照らし出す主イエスの降誕・十字架・復活はすでに世界と私たちに実現したことであるからです。10「今は神の民であり…今は憐れみを受けている」と告げられている通りです。

 イザヤ60章の預言はB.C.6世紀のバビロン捕囚からの解放直後、 2「暗黒が国々を包んでいる」中(59:13~15)で告げられました。が主の慈しみにより 2「あなたの上には主が輝き出」る、だからその光を受けて諦めとつぶやきのあり様から 1「起きよ、光を放て」、そうすればその希望に 4「みな集い」 5「喜び」を共にするだろう、と告げられています。

 パグーラ牧師が2016年に召天された際、オラフ.F.トヴェイトWCC総幹事は“神の国が人間の歴史に現れ、具現化することを同牧師は説いておられました”と書簡に記しました。降誕に始まる主イエスの福音は、混乱や悩みもある今にも私たちを支え生かし究極の希望に向かって歩ませる力です。世界にある同信の友と共に歌いましょう。

「わたしを何者だと言うのか」

ルカによる福音書 9章18~27節
出エジプト記 3章13~14節

 

 先週もたれた第23回教区の集いで、マルコ福音書の通読が行われました。通して語られるのを聞いて、主イエスの福音は言葉・業・十字架・復活そのすべてをもって私たちに与えられているのだと改めて思わされました。この主イエスの力強い言葉と業に接したガリラヤの人々の間には、この方は18「何者」だろうとの驚きが広がりました。19「洗礼者ヨハネ」19「エリヤ」19「昔の預言者」の再来だなど様々な噂が交わされていますと報告する弟子たちに、主イエスは20「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。

 ペトロが「神のキリストです」(口語訳)と答えました。ここで大切なのは彼が正しく答えたかではなく、自らの信仰を言い表したことです。ペトロは、あなたこそ私の救い主ですとまことをもって告白したのでした。

 当教会の受洗志願書の信仰告白を記す欄には、“自分にとってイエスとは誰であるかを書いてください”とあります。ここに記され信仰告白会で語られる内容は一人一人異なりつつ、そこから主と共なる旅路が始まっていくのです。

 信仰を告白したペトロも、続けて告げられた主の十字架予告は理解できませんでした(マルコ8:32)。また十字架に際し主を否んだ(22:54~)ペトロでしたが、主の赦しと再びの招きにあって生涯主と共に歩んだのです。“イエスとは誰であるか”とは、私たちにとっても生涯の問いです。紆余曲折がありつつも主と共に歩みゆく者は、その旅路において27「神の国を見る」であろうと告げられています。

「あなたがたを遣わす」

ルカによる福音書 9章1~6節
エゼキエル書 28章25~26節

 

 ガリラヤ宣教の主イエスの許から派遣された 1「十二人」は、主に養われその恵みを広く分かち合うべくそれぞれの生活へと遣わされる後世の信仰者をも象徴していましょう。その派遣に際し、 3「何も持って行ってはならない」と厳しいことが告げられています。それは主なる神にこそ信頼し支えられるその大切さ重さを知るためだったでしょう。 1「力と権能」を授けられた 1「十二人」でしたが、時に無力をも露呈したのです(9:40)。まことの養い主イエスから派遣されたこと自体が、最大の 1「力と権能」であることを彼らは知ったのでした(22:35)。

 被災者支援センターエマオには東日本大震災発生以来これまでに9000名近いボランティアがやって来てくれました。その中には、何の見返りもない働きの中で大切な経験をし、自らの方向を見いだしていった若者もいます。

 併せ開いたエゼキエル書に、養われる民が26「ぶどう園を植え、安らかに住み着く」ことを通して、主なる神はご自身25「聖なることを…示す」とあります。26「ぶどう」は荒れ地にも育ちますが、良い実をつけるまで10年近くかかる作物です。生活に地道に向き合い取り組むこともまた、主の派遣に応え祝福にあずかる働きであることを教えられます。

収穫感謝合同礼拝 「十頭のらくだ」

創世記 24章9~21節

 

 息子イサクにふさわしい嫁を探してきて欲しいと主人アブラハムから頼まれた僕は、10「十頭」の10「らくだ」と一緒に旅に出ました。らくだは重い荷物を載せて長旅ができると共に、たくさんの乳を出してくれる頼もしい動物です。

 加えて僕にはもう一つ考えがあったようです。辿りついた井戸べで、僕は14「らくだにも飲ませてあげましょう」と言ってくれる女性をお示しください、と主に祈りました。すると一人の女性がやって来て、汲んだ水がめから僕に飲ませると共に19「らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と言ったのです。ベトエルの娘リベカでした。

 らくだに持久力があるのは体内に脂肪や水を蓄えているからで、そのぶん一度に大量の水を飲みます。10「十頭」の10「らくだ」はおよそ1トンの水を飲んだはずで、リベカはその水を汲む苦労を厭わなかったのです。

 こうしてリベカはイサクの妻となりました(24:67)。アブラハムはこの結婚が、ついには人類全体への祝福へとつながることを見通していました(6節、12:3)。リベカの優しさと労苦は、主の遠大な計画の中で尊く用いられたのです。僕たちが汲んだ水をぶどう酒に変えて、「最初のしるし」を顕わされた主イエスのみ業を思い起こします(ヨハネ2:11)。私たちの思いを超えてみ旨を実現される主を仰ぎ、それぞれの業に向かい行きたく願います。

召天者記念礼拝 「安心して行きなさい」

ルカによる福音書 8章40~56節
詩編 116編8~14節

 

 今日の箇所では、違った状況に置かれた二人の癒しが組み合わされて語られています。主イエスと共に死にそうな42「十二歳ぐらいの一人娘」の許へと急ぐ会堂長ヤイロでしたが、そこに43「十二年このかた出血が止まらず」苦しんでいた女性が現れ主イエスは立ち留まるのです。父親ヤイロは気を揉んだことでしょう。そして、娘の死を告げる知らせが届いたのです。

 不思議に年数が符合しています。わずか42「十二歳」で生涯を閉じなければならないかもしれない、43「十二年」も苦しみ続けた、との違いはありつつも、ここには如何ともし難い中から叫ぶ思いが共通しています。そうした人のあり様に主イエスは立ち留まり、耳を傾け、み業を振われるのです。

 女性の苦しい43「十二年」を主イエスは48「信仰」と呼ばれ、48「安心して行きなさい」と救いを宣言されました。傷心のヤイロにも50「恐れることはない」と呼びかけ、娘を死から起こされました。彼らは身体を癒されただけでなく、どんなときにも祝し伴われる主を知ったのでした。詩編116編には、救いを経験した者の感謝と告白が歌われています。たとえ苦境にあるときも(10・11節) 9「命あるものの地にある限り…主の御前に歩き続けよう」と、女性またヤイロと娘もこのとき誓ったことでしょう。

 50「恐れることはない」48「安心して行きなさい」と呼びかけられる主に信頼し歩み得る、信仰者の生涯の幸いを思います。

「悪霊はどこに」

ルカによる福音書 8章26~39節
ゼカリヤ書 13章1~2節

 

 22「向こう岸に渡ろう」と嵐のガララヤ湖をも越えて主イエスがやって来られたのは、この地にも主の癒しを必要とした人がいたからでした。

 27「悪霊」が名乗った30「レギオン」とは、6000人から成るローマ帝国の軍団の名です。すなわちこの人は強大な非人間的力に捕らえられ、他者からのさらには自己からの疎外に苦しんでいました。主イエスは悪霊を豚の中へと追放され、この人を解放されたのでした。

 このとき悪霊は根絶やしにされた訳ではありませんでした。その力は仲間の解放を共に喜べなかった村人(37節)に及んだのかもしれませんし、この後主イエスを憎む者また弟子たちや群集にも働いて真理を証しする主イエスを十字架につけていくのです。その悪しき支配は主イエスの十字架の贖いと復活によって打ち破られましたが、その残滓は主なる神による完成の時までなお世界と生けるものを縛り支配しようと狙っていることを私たちは警戒せねばなりません(ゼカリヤ13:2)。

 ファンタジー文学を特集した『信徒の友』 2018年11月号でM.エンデの『モモ』が紹介されていました。少女モモがみんなの豊かな時間を取り返すべく対決した時間泥棒のことを、紹介者は今日のインターネット技術になぞらえていました。インターネットは一般人が国家や権力者に対抗するための有用なツールとしても機能していますからそうとも言い切れませんが、アメリカをはじめとする国々が運用するエシュロンのシステムによって世界中の通信が傍受・管理されているといった報道に触れるにつけて、祝されるべき命を支配しねじ曲げていこうとする27「悪霊」の脅威はなお今日的なことであることを思うのです。

「わたしの母、わたしの兄弟」

ルカによる福音書 8章19~21節
創世記 2章18~24節

 

 創2:18~は、結婚式の準備会の際に開く箇所です。18「人が独りでいるのは良くない」18「彼に合う助ける者」と、人のつながりについて多くを教えられます。また24「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。それまで育ってきた血縁の絆は尊く強いものですが、人格・愛の関係はそれを越えて二人を結び合わせていくのです。

 主イエスにはヤコブ・ヨセ・ユダ・シモンという弟が、また妹もいたと福音書にあります(マルコ6:3)。その兄弟らと母マリアが訪ねてきて面会を求めたとき、主イエスはそれにすぐには応えずに21「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われました。

 この章では神の言葉が実りに向けて蒔かれていること(4節~)、18「どう聞くべきかに注意」すべきことが告げられていました。そして21「神の言葉を聞いて行う」ことこそ、神と深く連なる道であると主イエスは教えられたのです。

 主イエスは「アッバ、父よ」(マルコ14:36)と祈られました。「アッバ」は幼児語、言わば“お父ちゃん”です。同じように、私たちも主イエスに連なる家族として神を求め祈ることができるのだと、伝道者パウロは告げています(ガラテヤ 4:6)。