「人の見るところ、神のまなざし」

ルカによる福音書 21章1~6節
サムエル記上 16章5~13節

 

 1「目を上げて」 2・3「見て」 6「見とれて」と、今日の箇所では眼差しが意識されています。人々は 1「金持ちたち」のたくさんの献金に注目し、エルサレム神殿の 5「見事な石と奉納物」に目を留めるのです。が、主イエスは 2「貧しいやもめ」のわずかな献金に込められた信実をご覧になり、歴史の流転を超えてなお残るものは何かと問われるのです。

 サウルに代わるイスラエル王を選ぶ際、主は 7「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と告げられ、羊の番をしていた末の子ダビデを選ばれたのでした。主なる神は真実を見通され、世と私たちはその眼差しの内に置かれています。

 ある講演で、時代はポスト・モダンを突き抜けてポスト・トゥルースに入ってしまったとの言葉を聞きました。真実の多様化どころか、もはや真実は重要ではなく個人の感情に訴えるものが影響力をもつ時代との指摘です。“ポスト・トゥルース”はオックスフォード英語辞典により2016年を象徴する言葉に選ばれています。

 社会からは共通の価値が見失われ、依って立つ基盤は流動化していきます。私たちは何に価値を置き、何をどう見極めていきましょうか。いや、まずそれ以前にあなた自身また世界と歴史が真実なる眼差しの内に置かれているとの主の言葉に耳を傾けてこそ、私たちに確かな基盤が与えられることを銘記する必要があります。

「神のものは神に」

ルカによる福音書 20章20~26節
イザヤ書 31章1~9節

 

 エルサレムで宣教を始められた主イエスに対する19「律法学者たちや祭司長たち」の敵意は深まっていきました(1・19節)。そこで20「回し者を遣わし」訊ねさせたのです。22「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」。これはローマ帝国から課されていた人頭税のことで、ユダヤ人には占領国への従属を象徴するものとして悩みの種となっていました。22「適っている」と言えば民衆は離反する、22「適っていない」との答を引き出せば反ローマ主義者としてイエスを告発できる、そうした23「たくらみ」が込められていました。

 このとき主イエスは、25「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのでした。これは一見納税を是認したように見えつつ、皇帝はあなたたちはそして誰もが本当に25「神のもの」を25「神に返し」ているかとの深く鋭い問いかけの言葉です。

 明日は “信教の自由を守る日” です。嘘や隠蔽が横行し力のみがまかり通るような中で、命の尊厳を守る人権・自由・平和…がすり替えられ奪われていくことを恐れます。大国 1「エジプト」と 8「アッシリア」の狭間で右往左往していたB.C.8~7世紀の南王国ユダにあって、それらはまやかしの 7「偶像」に過ぎないと預言者イザヤは語り、 2「御言葉を無に帰されることはない」真実なる方をこそ求めることの確かさを指し示しました。

 伝道者パウロは「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が…内に住んでいることを知らないのですか」(Ⅰコリント 3:16)と語っています。一人一人に神から託された尊厳は、日々のともし火また糧として生涯携え、ついには主なる神にお返しするものです。これを、すり替えられたり奪われたりしてはなりません。

「隅の親石となった」

ルカによる福音書 20章9~19節
詩編 118編22~25節

 

 9「ぶどう」は荒地に実りをもたらす作物であり、 9「ぶどう園」とは神の祝福を受けたこの世界を表しています(イザヤ5章)。従って13「主人」とは主なる神であり、私たちはこの世界なる 9「ぶどう園」を預かっている 9「農夫」ではないか、と語られています。

 9「農夫たち」は13「主人」から正しい管理とよき実りを期待されていました(創1:26~31)。ところが、送られた10・11・12「僕」たちを排斥し、13「愛する息子」を殺してしまうのです。14「そうすれば…我々のものになる」との言葉は、あのバベルの塔を建てて神に成り代わろうとした罪の姿そのものです(創11:4)。

 話の余りの展開に 1「民衆」は16「そんなことがあってはなりません」と応えましたが、その彼らを主イエスは17「見つめ」られました。数日後の主イエスの捕縛に際し、彼らが「その男を殺せ」「十字架につけろ」と叫ぶのです(23:18・21)。

 ここで主イエスが語られた17「隅の親石」とはもともと、亡国・バビロン捕囚を辿った無用の石ころのような民イスラエルを世界の祝福の基とされた驚くべき神のみ業を賛美する言葉です(詩118:22~、イザヤ28:16~)。主イエスはご自身に迫る十字架に、人間の罪の深さと共に、それをも貫いて救いへと導かれる神のみ業を見つめておられたのです。

 主は今日の世界と私たちをも17「見つめ」られていましょう。それは時代と私たちの愚かさを見通す眼差しであり、それでもなおこれを捨てず平和と祝福へと導こうとされる慈しみの眼差しです。私たちはどう応え得るでしょう。

「その権威を与えたのはだれか」

ルカによる福音書 20章1~8節
イザヤ書 45章2~9節

 

 1「神殿の境内」とは、主イエスが商売人を追いだすという実力行使をなさった “異邦人の庭” のことです(19:45)。集うあらゆる人々に 1「福音を告げ知らせておられ」た主イエスのもとに、 1「祭司長や律法学者たち…長老たち」すなわちユダヤ教当局者たちがやってきて詰問したのです。 2「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」

 こう問う以上、彼らは正しい権威しかも神に由来する権威を帯びていると自負していたのでしょう。が主イエスの反問によって、それは怪しげになっていきました。洗礼者ヨハネを認めていなかった彼らの本心は、その 4「洗礼は…人からのものだった」です。が彼らは 6「民衆」を恐れて、 7「分からない」と偽ったのです。

 嘘・偽りにあって 2「権威」は自壊していきます。不適切な勤労統計の隠蔽問題、放射能汚染水をめぐる虚偽説明など、多くの嘘が満ちることによって私たちの社会がますます劣化・弱体化していくことを危惧します。

 もちろん主イエスの 2「権威」は神からのものでありつつ、ご自身はそれを主張されませんでした。それは主イエスの十字架の福音に代々の人々がいかに生かされてきたかに、自ずから示されています。

 使徒4章には、ペンテコステ後にペトロ・ヨハネが神殿で捕えられ、やはりユダヤ教当局者たちからその 2「権威」を問われたことが記されています。しかし二人は堂々と証しして、神に連なるその 2「権威」を垣間見せたのでした。

 今日の旧約に 5「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。」と、すべての 2「権威」はここに発することが告げられています。そしてその神から命を分け与えられたものは、皆その一端を帯びています。分け与えられた自らのそして他者の尊厳を大切に、また尊重する私たちでありたく願います。

「強盗の巣にした」

ルカによる福音書 19章45~48節
イザヤ書 56章3~7節

 

 主イエスの時代のエルサレム神殿は中央に聖所が建ち、それを取り囲むように庭が区切られていました(図参照)。異邦人は “異邦人の庭” まで、イスラエル人の婦人は “婦人の庭” まで、イスラエル人の男性は “イスラエル人の庭” まで、と立ち入りが制限されていました。 “祭司の庭” と聖所には祭司しか、さらに奥の至聖所には大祭司が年に一度しか入ることができませんでした。

 45「境内」とは “異邦人の庭” のことです。そこで賽銭用貨幣や献げ物の動物を扱う者たちが45「商売をしていた」のを主イエスは追い出し、ここは46「祈りの家」だと宣言されたのでした。主イエスは何に対して怒られたのでしょう。

 46「祈りの家」との表現は、今日併せ開いたイザヤ56:7にあります。バビロン捕囚から帰還を果たした民がやっとエルサレム神殿を再建した頃のこの預言において、以前は礼拝を許されなかった 3「異邦人」や 3「宦官」もやがてこの場に招かれることが示されました。 4・6「安息日を…守り…わたしの契約を…守る」者は誰でも大いなる祝福に結ばれる、と主は告げておられます。

 多くの者は、至聖所が最も尊いと考えていたかもしれません。が主イエスにとってはこの“異邦人の庭”が、誰もが神と向き合い得る最も聖なる庭、ないがしろにしてはならない場所だったのです。

 4・6「安息日を…守り…わたしの契約を…守る」とは、私たちにとって礼拝を大切にし 1「正義」と 1「恵みの業」に生きることです。ですから教会に集う主日も、生活に歩む週日も共に大切です。それぞれにおいて主のみ旨を訊ね生きる者は誰でも、 7「わたしの…喜びの祝いに連なることを許す」と告げられています。

「石も叫び出す」

ルカによる福音書 19章28~40節
ゼカリヤ書 9章9~10節

 

 レント・イースターまで、主イエスのエルサレムでの宣教を振り返りたく思います。9:51以降、ガリラヤからの旅を続けてこられた主イエスと弟子たちは、ついに都エルサレムに到着したのでした。待ち受けていたのは、十字架の受難と死でした(18:31~)。28「イエスは…先に立って進」まれたことに、この最大の使命に自ら進まれたその決意が表されています。

 弟子たちの歓呼の中、主イエスは30「子ろば」に乗ってエルサレムに入城されました。それはこの方が「諸国の民に平和」(ゼカリヤ9:10)をもたらすために来られたことを意味していました。そして高まる賛美の声を押しとどめようとした人々に、この人たちを黙らせても40「石が叫びだす」だろうと主イエスは言われたとあります。

 当教会玄関横に、旧会堂正面に嵌め込まれていた壁石が置かれています。1914年の献堂当初 “DeForest Memorial Church” と刻まれていましたが、戦時中、敵性語を廃すべしとの圧力にあって教会はこの文字を削りました。ですからこれは、平和を求めきれなかった私たちの自戒の石でもあります。そうした思いも込め2007年に説明板を設置した際、平和を求める願いは絶えることなくついには40「石が叫びだす」だろうとのこの言葉を記しました。

 こうして主イエスは平和を求める叫び、賛美の歌声を祝し、ご自身のみ業へと向かわれたのです。このとき30「子ろば」そして40「石」をも用いられた主は、欠けを含む私たちをも祝し導き用いてくださるでしょう。

新年礼拝「笑みつつここで歩みなさい」

創世記 26章1~25節
ヨハネによる福音書 17章15~19節

 

 1「イサク」とは、 “彼は笑う” との意味です(21:6)。父アブラハムが、主なる神は大いなる慈しみをもって自分たちの愚かな笑いを(17:17、18:12)を朗らかな笑いへと変えてくださったとこう名づけたのでした。今日の26章には、そのイサクが主人公の物語が記されています。

 彼が住むパレスチナ地方に 1「飢饉」が起こりました。この危機に彼は父がしたように(12:10~)エジプトに避難しようと考えましたが、主はそれを許されませんでした。 3「あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいて…祝福」するとの主の言葉を信じ、イサクは12「その土地に…種を蒔」いたとあります。飢饉に種を蒔く、この無駄と思える業を主は祝して収穫は百倍にもなったのでした。

 すると今度はそれが14「ねた」みの原因となり、周囲のペリシテ人は迫害を加えました。がイサクは争わず、土地を移って繰り返し18・21・22「井戸」を掘ったのです。雨が少ないパレスチナで井戸を掘ることは大変なことですが、イサクと僕たちはこうした労苦を重ねたのでした。

 ここの 1「飢饉」・諍いは、今日の世界・社会にも山積する諸課題を意味していましょう。でも主はそこに留まることを指し示され、イサクは命を守るために12「種を蒔」き18・21・22「井戸」を掘り続けたのです。主はそうした労苦を祝し、ついには 4「地上の諸国民…すべて」の祝福に向けて用いられると約束されました。

 十字架の前の晩に主イエスは弟子たちについて、願いはどこか素晴らしいところへ彼らを連れ去ることではなく、課題ある世に真理によって聖別して遣わすことだと主なる神に祈られました(15~19節)。私たちも主のご計画の内に、それぞれの生へと派遣されています。笑みつつ与えられた場での働きに向かい行く者とされたく願います。

「別の道を通って」

マタイによる福音書 2章7~12節
イザヤ書 7章10~14節

 

 当教会のページェントは、幼子主イエスの降誕に立ち会った者たち全員による “もろびとこぞりて” の合唱で終わります。恐れと悩みを抱える世界と生けるもののために神自らおいでになられた恵みを受け取り、10「喜びにあふれた」のです。

 1:23に引用されたインマヌエル預言が記されたイザヤ7:10~を、併せ開きました。ここには人の罪と、それをも凌駕しゆく主のみ業が記されています。B.C.8世紀シリア・エフライム戦争の危機に際し(2節)、預言者イザヤは主に信頼しての平静を指し示しました(4・11節)。がアハズ王は敬虔を装いつつ、軍事同盟に解決の道を求めたのです(12節)。イザヤはその頑なさを諌めつつ、主がみ業をもって歴史に介入されることを告げたのでした。

 神我らと共にいます14「インマヌエル」の約束は、それから700年後の主イエス降誕において決定的に実現したのです。10「喜びにあふれた」学者たち、羊飼いたちはずっとそこに留まったのではありません。それぞれに課題ある日常へと帰って行きました。学者たちは12「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」、羊飼いたちは「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(ルカ2:20)と記されています。立ち向かう課題がありつつも、み旨をもって導きみ業を顕わされる主が共におられることに喜びと希望を受けとりつつそれぞれの歩みに帰って行ったのです。私たちもまた、クリスマスの喜びから新たな歩みを始められるはずです。

クリスマス礼拝 「恵みと真理とに満ちていた」

ヨハネによる福音書 1章14~18節
出エジプト記 34章4~10節

 

 原初からそしてすべてを在らしめる 1「言」なる 1「神」が14「肉となって、わたしたちの間に宿られた」と、ヨハネ福音書は独特の仕方で降誕を語ります。そしてこの出来事を通して、世界と生けるものは14「恵みと真理とに満ち」た神の栄光を見たのだと告げます。

 14「恵みと真理」、この言葉とほど遠い時代・社会の中に私たちは歩んでいます。一方、聖書は一貫してこの言葉を世界に向けて語り続けています。十戒をモーセを通して授けられた際、主なる神はご自身を 6「慈しみとまことに満ち」る者と告げられました。十戒そして律法は祝福の内に歩むための指針でしたが、民はそれを十分に生きることができず、混乱と悩みを重ねました。それゆえついに主は17「イエス・キリスト」として降誕を遂げられたのです。

 ヨハネ福音書において、この後14・16・17「恵み」との語は現れません。それは主イエスのみ旨とみ業にすべて顕わされているからです。一方14・17「真理」との語は繰り返し現れますが、それらは「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)との宣言そして十字架へと連なっていくのです。

 14「恵みと真理」とは“恵み、すなわち真理”との意味です。世界と生けるものが祝福の内に生きるべく、主なる神が古えから今日に至るまで私たちを呼び続け、ついには降誕そして十字架にまで降られた恵みに真理が顕わされているのです。