「大きな淵」

ルカによる福音書 16章19~26節
創世記 11章1~9節

 

 今日の譬に登場する20「ラザロ」の名前は、“神は助け”という意味です。彼は毎日20「門前」で助けを求めていました。21「犬」はやって来て彼を慰めたようですが、その家の19「金持ち」は食べ物も治療も提供することなく無視を決め込んでいました。その必要もないということなのか、19「金持ち」については名前も告げられていません。

 やがて二人は地上の生涯を終え、20「ラザロ」は神の国の(13:28)アブラハムの許に、19「金持ち」は陰府に置かれたのだといいます。人と神の判断は異なるということです(6:20~)。思わず19「金持ち」はアブラハムに助けを求めますが、26「間には大きな淵があって」行き来できないと告げられたのでした。

 この26「大きな淵」とは、無視・無関心という形で今も人を世界を隔てる断絶を思わせます。今日併せ開いたバベルの塔の物語は、他者の上に立ち神に成り代わろうとの罪は交わりを分断し結局は疎外をもたらすことを告げています(創11:1~)。

 最後で31「死者の中から生き返る者」があれば、と示唆されています。主イエスはその十字架と復活によって人間の築いた罪の隔て、26「大きな淵」を打ち砕かれました。人の愚かさ・罪・隔てを主は砕かれる、この希望を仰ぎ、主の指し示しに歩むものとされたく願います。

子どもの日・花の日合同礼拝 「たとい、そうでなくとも」

ダニエル書 3章1~18節

 

 12「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ」、ずいぶん変わった名前ですが、これは彼らを捕囚とした新バビロニア帝国が自国風に改名させたものです(1:6)。名前は奪われた彼らでしたが、真実なる神のみに仕える信仰を携えて歩みました。

 三人はネブカドネツァル王の建てた金の像を拝むことを拒否し、燃え盛る炉に投げ込まれました。が神に守られた三人は火の中を自由に歩き回ってなんの害も受けず、王は真の神の権威を認めざるを得ませんでした(19~30節)。

 でも、いつもこのように窮地を脱することができるでしょうか。三人は18「そうでなくとも」、すなわち願いどおりにならなくとも、主のみに従いますと言明しました。ヘブライ11:32~は彼ら三人をはじめ信仰の勝利を証しした者も信仰のゆえに苦しみ犠牲を払った者も、共に神に認められた信仰の証人であり、ついには大いなる祝福にあずかるのだと語っています。

 いついかなる時にも真実をもって私たちに向き合ってくださる主なる神が、順境のときも逆境のときも私たちの支えであり力です。

ペンテコステ礼拝 「再び来たり給うを待ち望む」

使徒言行録 1章6~11節
創世記 28章10~17節

 

 1935年に創刊され、現在40カ国語に翻訳されている “アパ・ルーム(The Upper Room)” という祈りの手引書があります。このタイトルは弟子たちが集まって祈りを合わせた13「上の部屋」のことです。ここは最後の晩餐がもたれた「二階の広間」(ルカ22:12)なのかもしれませんし、聖霊降臨(2:1~)もこの場所で起こったのでしょう。

 この使徒言行録冒頭では、 9「天」と 8「地」が意識的に描かれているように思います。弟子たちは主イエスが帰られすべ治め給う 9「天」に思いを向け、その指し示しを求めました。そしてその彼らに 9「天」から聖霊の大きな力が降り注いだのです。同様に私たちも 9「天」からみ旨を受けとる13「上の部屋」を持たねばなりません。それはまず、毎主日共に集う礼拝です。

 と共に、天を見つめる弟子たちは11「なぜ天を見上げて立っているのか」と指し示されたのです。私たちは命を分け与えられ派遣された 8「地」上の日々に、熱心に向かい行かねばなりません。そこには多くの課題もありますが、主イエスの足跡によって 8「地」は 9「天」としっかり結びあわされています。

 ヤコブが天の眼差しに気づかされ、畏れつつ力与えられて旅をつづけたように(創28:10~)、主のみ旨と励ましを求めつつ、与えられた日々に向かい行きましょう。

「畑に宝が隠されている」

マタイによる福音書 13章44~46節
申命記 32章7~12節

 

 アメリカのエッセイスト、R.フルガムは著書 『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』 で、“人間、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々送ればいいか、本当に知っていなくてはならないことを、わたしは全部残らず幼稚園で教わった。人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、日曜学校の砂場に埋まっていた。” と書きました。

 先週の東北教区総会で、61年の歴史を数えてきた鏡石伝道所の廃止が決定され、厳粛な思いにさせられました。が今年その跡地には認定子ども園の新園舎が完成し、子どもたちの讃美歌が響いています。子どもたちが園の生活の中から大切な44「宝」を掘り出し成長を遂げるならば、伝道所の歴史は決して無にはならないでしょう。

 44「畑に…隠され」た44「宝」とは私たちも歩む日常の中にも見いだし得る福音、神の祝福を意味しており、それを見いだすことは大きな喜びであり価値であることが告げられています。

 でも本当は、福音において見いだされているのは私たち自身なのです。10「主は…彼を見いだし、…これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた」と告げられている通りです。小さく破れある私が大いなる方に見い出され宝とされている(申7:6~)、このことこそ驚きであり喜びであり大いなる価値であると告げられています。

「もう管理を任せておくわけにはいかない」

ルカによる福音書 16章1~8節
コヘレトの言葉 8章9節

 

 1「もう管理をまかせておくわけにはいかない」と怠慢を咎められ、知恵を巡らし 5「主人に借りのある者」の債務を勝手に減じた管理人。しかも棒引きにした油50バトス(6節)とは1800 ℓ、小麦20コロス(7節)とは720 ℓという膨大な量です。  8「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」とは一体どういうことなのでしょう。

 1「主人」とは大地主であり、 1「管理人」は主人と小作人の間に立って財産管理をしていた者です。旧約の律法には、同胞また貧しい者からは利息をとってはならないとの規定がありました(出22:24、申23:20等)。ですが実際には利息が科せられ、膨らんだ債務に苦しむ小作人が多かったようです。立場が危うくなった管理人は心を入れ替え、小作人のためまたひいては主人のためになるよう仕事に打ち込んだというのです。

 人間は神が造られた世界の管理責任を帯びている、と聖書は語ります(創1:28、9:1~)。が、命を損ない、地球環境すら脅かしている人間はその責任を果たし得ているのでしょうか(コヘレト8:9)。 1「もう管理をまかせておくわけにはいかない」と告げられているのは、今日の世界そして私たちかもしれません。そうだとすると、何を為しどの道に進むことが命をまもりみ旨に沿うこととなるのか、今こそ私たちは熱心に求め取り組まねばならない、と主イエスの語られた譬は告げていることになります。

「油の用意を」

マタイによる福音書 25章1~13節
列王記上 17章8~16節

 

 今日開いた箇所の最後に13「だから、目を覚ましていなさい」と告げられていますが、譬に現れる 1「十人のおとめ」たちは 5「皆…眠り込んで」しまっています。この背景には、いつ主イエスが再臨されるか13「その日、その時を知らない」信仰者はどのように備えるべきか、との問題意識がありましょう。私たちは始終緊張して待つことはできません。居眠りは許容されています。

 当時の10「婚宴」は夜も含め、数日続いたようです。ですから欠かすことができないのは闇を照らす 1「ともし火」でした。発せられる光は不安を打ち消し、希望を指し示してくれます。 1「十人のおとめ」とも 1「ともし火」は用意していました。が、 3「油の用意」の有無が明暗を分けたのでした。

 1「ともし火」とは、歩み行く道を照らし出すみ言葉を指していましょう(詩119:105)。信仰者はみ言葉に励まされ導かれ進み行きます。では 3「油の用意」とは何でしょうか。

 Ⅰヨハネ2:27は「あなたがたの内には、御子から注がれた油があります…。この油が万事について教えます。…だから…御子の内にとどまりなさい。」と、油とは聖霊のことだと示唆しています。

 預言者エリヤ、やもめと一人息子は危機的な状況下、不思議に尽きることのない16「壺の粉…瓶の油」によって養われました。 1「ともし火」も 3「油の用意」を欠いては、やがて消えてしまいます。私たちは自力で油を補給することはできません。それをなし得る方との日々の交わりにあって、闇を照らし、道を進み行くことができるのです。

「パンを三つ貸してください」

ルカによる福音書 11章5~13節
エレミヤ書 29章10~14節

 

 今日の譬え話では、はた迷惑な人たちの姿が描かれています。まず 5「真夜中」に訪ねて来た 6「旅行中の友達」です。日中の暑さを避けて夜間に旅をすることは通常のことであり、イスラエル人は旅人を大切にすべしと言い習わされてきた(申10:19など)とはいえ、です。そして、その旅人をもてなそうと 5「パンを三つ貸してください」と真夜中に扉を叩き続ける 5「友達」です。あの家なら今日パンが残っているはずだ、と互いの台所事情まで知って押しかける親しさと信頼関係が見てとれます。

 迷惑をかけ合いながらも助け合って生きている、そうした庶民の姿に愛着を感じつつ主イエスは13「悪い者」と言っておられるように思います。

 いろいろ迷惑をかけて生きている “悪い奴” であるあなたがたも、助け合い、子供を愛することを知っている。ましてあなたたちを愛する13「天の父」は本当に必要なものを与えてくださる、と主イエスは教えられたのでした。

 13「聖霊を与えてくださる」とあります。伝道者パウロは、聖霊が働くとき私たちは神を「アッバ、父よ」と親しく呼べるようになるのだと語っています(ガラテヤ4:6、ローマ8:15)。

 バビロン捕囚期の預言者エレミヤは、苦難をも含めて主は11「平和の計画」で私たちを導かれるのであり、13「わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、私に出会うであろう」と告げました。祈りとは父なる神との絆を確かめ、その方に出会う道です。

「あなたたちもぶどう園に行きなさい」

マタイによる福音書 20章1~16節
箴言 29章25~26節

 

 主イエスの語られた譬え話を味わっていきたく思います。

 収穫期の 1「ぶどう園」では多くの労働者が必要です。一日1デナリオンの約束で、夜明けに人々が雇い入れられました。加えて9時、12時、午後3時、午後5時にも雇われた人がありました。さて日没、賃金が支払われる段となり 8「最後に来た者」が呼ばれて1デナリオンを受けとったのです。 8「最初に来た者」は訝しく思ったかもしれませんが、10「もっと多くもらえる…と思って」待ちました。ところが自分も受け取ったのは1デナリオンだったのです。

 これは今日の私たちから見ても、おかしな待遇です。 8「最初に来た者」のように不平を言いたくなります。しかし13「主人」は不当なことはしていない、15「私が善いので、あなたの眼が悪くなっている」のだ(田川建三訳)と言われるのです。

 なぜ不当だと思うのか、それは比較の物差しを持ち込んでいるからです。この世はその物差しで計られ、私たちもそのような見方に染まって一喜一憂するのです。でも神の国はそのような物差しで計ることはできない、と主イエスは言われるのです。

 1「ぶどう園」とは、神の祝福を受けたこの世界を表しています(イザヤ5章)。課題が山積し様々な思いが交錯するこの世界にも神の祝福は注がれている、そのことを見誤らずに 4「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と呼びかけられています。そう考えると、ぶどう園で長く働いた者こそ実は幸いなのかもしれません。

「主の真実に生かされ、その恵みを分かち合い歩もう」

コリントの信徒への手紙 1章1~9節
イザヤ書 42章5~9節

 

 今日開いたⅠコリント1:9は2019年度宣教活動計画案の聖書箇所、説教題は主題です。

 異端の誘惑を受け多くの問題を抱えていたコリント教会に、パウロは 2「神の教会」 2「聖なる者」と呼びかけます。それは破れや誤りを含み持つ私たちを、神はイエス・キリストの十字架によって招いて 3「恵みと平和」に与らせてくださったからです。この 9「神」の 9「真実」は揺らぐことなく、コリントの信徒たちも必ずや福音に立ち帰るだろうとの希望にパウロは立っています。

 9「真実」との原語は、人間が主語となるとき“信仰”と訳されます。神の真実に私たちは信仰にあってどのように応答し得るか、これがコリントの信徒への手紙のテーマです。

 Ⅱコリント5:17~でパウロは、恐れと悩みに満ちた世もキリストの十字架によって神との和解を与えられたのであり、私たちはこの神の和解に連なって奉仕するのだと語っています。

 出エジプトの民に十戒が与えられ神と契約を結んだとき、モーセと70人の長老らは11「神を見て、食べ、また飲んだ」のでした。神と共に生きることは、恵みと希望の分かち合いへと私たちを押し出すのです。主の真実に養われ導かれ、与えられた2019年度を意義深く歩みたく願います。