「悪霊はどこに」

ルカによる福音書 8章26~39節
ゼカリヤ書 13章1~2節

 

 22「向こう岸に渡ろう」と嵐のガララヤ湖をも越えて主イエスがやって来られたのは、この地にも主の癒しを必要とした人がいたからでした。

 27「悪霊」が名乗った30「レギオン」とは、6000人から成るローマ帝国の軍団の名です。すなわちこの人は強大な非人間的力に捕らえられ、他者からのさらには自己からの疎外に苦しんでいました。主イエスは悪霊を豚の中へと追放され、この人を解放されたのでした。

 このとき悪霊は根絶やしにされた訳ではありませんでした。その力は仲間の解放を共に喜べなかった村人(37節)に及んだのかもしれませんし、この後主イエスを憎む者また弟子たちや群集にも働いて真理を証しする主イエスを十字架につけていくのです。その悪しき支配は主イエスの十字架の贖いと復活によって打ち破られましたが、その残滓は主なる神による完成の時までなお世界と生けるものを縛り支配しようと狙っていることを私たちは警戒せねばなりません(ゼカリヤ13:2)。

 ファンタジー文学を特集した『信徒の友』 2018年11月号でM.エンデの『モモ』が紹介されていました。少女モモがみんなの豊かな時間を取り返すべく対決した時間泥棒のことを、紹介者は今日のインターネット技術になぞらえていました。インターネットは一般人が国家や権力者に対抗するための有用なツールとしても機能していますからそうとも言い切れませんが、アメリカをはじめとする国々が運用するエシュロンのシステムによって世界中の通信が傍受・管理されているといった報道に触れるにつけて、祝されるべき命を支配しねじ曲げていこうとする27「悪霊」の脅威はなお今日的なことであることを思うのです。

「わたしの母、わたしの兄弟」

ルカによる福音書 8章19~21節
創世記 2章18~24節

 

 創2:18~は、結婚式の準備会の際に開く箇所です。18「人が独りでいるのは良くない」18「彼に合う助ける者」と、人のつながりについて多くを教えられます。また24「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。それまで育ってきた血縁の絆は尊く強いものですが、人格・愛の関係はそれを越えて二人を結び合わせていくのです。

 主イエスにはヤコブ・ヨセ・ユダ・シモンという弟が、また妹もいたと福音書にあります(マルコ6:3)。その兄弟らと母マリアが訪ねてきて面会を求めたとき、主イエスはそれにすぐには応えずに21「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われました。

 この章では神の言葉が実りに向けて蒔かれていること(4節~)、18「どう聞くべきかに注意」すべきことが告げられていました。そして21「神の言葉を聞いて行う」ことこそ、神と深く連なる道であると主イエスは教えられたのです。

 主イエスは「アッバ、父よ」(マルコ14:36)と祈られました。「アッバ」は幼児語、言わば“お父ちゃん”です。同じように、私たちも主イエスに連なる家族として神を求め祈ることができるのだと、伝道者パウロは告げています(ガラテヤ 4:6)。

世界聖餐日礼拝 「ともし火を信頼して」

ルカによる福音書 8章16~18節
エレミヤ書 1章9~12節

 

 暗闇に身を置く経験をされたことがあるでしょうか。そこで灯される光は小さなものであっても、私たちを力づけてくれます。ここの16「ともし火」は18「どう聞くべきか」とあるように、11「神の言葉」のことです。

 先週開いた4節~とも重なりますが、私たちは日々どのようにみ言葉を聞いているでしょうか。東日本大震災発生直後3月13日の礼拝は、なんとか集い得たメンバーで停電の中まもりました。特別なことがなされた訳ではありませんでしたが、み言葉また聖餐のパンと杯に心が震えたことを思い起こします。

 18「持っている人は更に与えられ…」とは、み言葉をわが身に受けとめこれを生きる者は真の意味で富む者となり、これを顧みない者は乏しくなるとの意味です。エレミヤは春を察知しその訪れを告げる11「アーモンドの枝」に必ず12「成し遂げ」られる主のみ旨を見て、旧約の歴史に名を刻む預言者に立てられていきました。

 17「隠れているもので、あらわにならないものはなく…」と、16「ともし火」なるみ言葉はいくら押し止めようともそれを撥ね退けついにはすべてを照らすのだと主イエスは教えられました。希望のゴールを照らし出す16「ともし火」なるみ言葉を信頼し、力づけられて今を歩み行きたく願います。

「耕し、種蒔かれる方」

ルカによる福音書 8章4~8節
イザヤ書 28章23~29節

 

 今日開いたイザヤ28:23~は、南王国ユダが強大なアッシリアに脅かされている中で語られた預言者イザヤの言葉です。種蒔きから収穫まで順次進められる農夫の仕事は、それぞれ深い意味をもって歴史を導かれる主のみ業を表しています。目の前の危機だけに目を奪われることなく、その背後にある主のみ旨を畏れ信頼しようとイザヤは語りました。

 主イエスの語られた譬で、この農夫はえらく気前よく種を蒔くのです。結果、 5「道端」 6「石地」 7「茨の中」に落ち、実りに至らなかった種もありました。 5「種」は11「神の言葉」であり、四つの土地とはそれを受けとめる人のあり様だと主イエスご自身によって説き明かされています(11節~)。四種類の人がいるのではなく、私の中に四つの土地があるのです。

 神の言葉は 8「良い土地」に落ちるならば必ずや 8「生え出て、百倍の実を結」ぶ、と告げられています。この農夫は成長そして実りを信じて種を蒔き続け、 5「道端」 6「石地」 7「茨」の土地を 8「良い土地」にすべく苦闘して耕し続けるのです。主のみ旨とみ業はそのように今日もこの世界そしてあなたに向けて進んでいる、そのことに気づきなさいと主イエスは 8「大声で」呼びかけられています。

 

「踊りの主」

ルカによる福音書 7章31~35節
サムエル記下 6章12~22節

 

 “笛吹けども踊らず”との諺は、今日の聖書の箇所から来ています。結婚式ごっこをしようと笛を吹きお葬式ごっこをしようと歌を歌ったのに、誰も応えてくれないと子どもが嘆いているというのです。主イエスはこれが31「今の時代の人たち」のあり様だと言われています。

 洗礼者ヨハネは自らも禁欲的な生活をし、人々に悔い改めを求めました(3:3~等)。主イエスは神の国の福音を説き、人々と親しく食卓を囲みました(5:30等)。が、30「ファリサイ派の人々や律法の専門家たち」は批判をするだけで、耳を貸そうともしなかったのです。

 批評をするばかりで腰を上げようとしないという点では、31「今の時代」はむしろ今日の様子に重なります。自らを中心に置いてものを見、他者の喜びや痛みに共感できない冷笑的なあり様に社会も私たちも影響されてはいないかと恐れます。

 今日共にする讃美歌290の原題はLord of Dance(踊りの主)です。“私は踊った、世界が始まったその朝に、…そして天から降りてきて、地上で踊った、ベツレヘムで…”と原詞にはあります。原初の創造の業に、降誕の出来事に、主イエスの言葉と業に、世を愛する神の熱い働きかけが込められているというのです。それなのに冷笑的に通り過ぎて良いのか、神の呼びかけに応え福音に生き、その喜びに踊る者とされよう、とこの讃美歌は歌っています。

 死をも打ち破り復活を遂げられた主イエスの踊りは、全被造物がその命を祝い共に踊るまで続きます。私たちもその命を、今日を喜び、踊りの輪に加わりましょう。

「新たに生まれることができる」

ヨハネによる福音書 3章1~15節
エゼキエル書 37章1~10節

 

 この 1「ニコデモ」は 1「ユダヤ人たちの議員」で10「イスラエルの教師」とありますから、教養豊かで地位や尊敬も得ていた老人だったと推察します。その彼が主イエスを訪ね、あなたは 2「神のもとから来られた教師」ですと尊敬と信頼を言い表したのです。もっとも 2「夜」訪れたというところに、 1「ファリサイ派」としての体面を気遣ったことがわかります。

 彼を迎えての主イエスの言葉、 3「はっきり言っておく」の原文は“アーメン、アーメン、私はあなたに言う”です。また“聖書の中の聖書”とも呼ばれる16節の言葉が彼に向けて告げられている点からも、主イエスが喜んで彼を迎えていることがわかります。

 このことを踏まえ、あえて否定形で語られている主イエスの言葉を肯定的に受けとめ直すとこうなりましょう。“人は年を重ねても、新たに生まれて神の国の祝福に与ることができる”(3節)。“驚くには及ばない、神のもとから風のように自由に吹き来たる霊に生かされることだ”(7・8節)。“あなたが見たこと知ったことをそのまま受けとめ、生きなさい”(11節)。“真理の力を信じて光に歩みなさい”(21節)。

 このときのニコデモの応答は記されていません。が、その後ファリサイ派らの集まりで主イエスの弁護を試み(7:50~)、十字架に際して主イエスの遺体を受け取り埋葬したのでした(19:39~)。彼はもはや恐れることなく真理に従い、光に歩む者とされたのです。

 併せ開いたエゼキエル37章は、神の霊こそが私たちを生かし希望で満たすことを印象的な仕方で告げています。吹き来たる神の息吹に生かされ導かれて、日々を歩みましょう。

「止められた葬列」

ルカによる福音書 7章11~17節
ルツ記 1章19~22節

 

 ガリラヤの町11「ナイン」で主イエスと一行は、12「町の門」から外の墓へ向かう葬列とすれ違いました。このとき12「ある母親」は、ただ一人の家族であった12「一人息子」を亡くしたのでした。その痛み悲しみを我が事のように感じとられた主イエスは(13節)、13「もう泣かなくともよい」との言葉と共に葬列を止められたのです。

 虚無へと向かう葬列を人は止めることはできません。が、これをなし得る方が私たちと共におられ、み言葉を与え、み業を振われるのです。主イエスは一人息子を死から起こし、葬列は喜びへそして新たな生活へと方向転換したのでした。

 ルツ記は夫と息子を亡くしたナオミとこれに従った異邦人の嫁ルツが、22「モアブ」から19「ベツレヘム」に帰ってきたことに始まる物語です。わが身の不幸を嘆くナオミの言葉(20~21節)は、先の12「ある母親」の思いに重なりましょう。さてこの1章には2122「帰」る(シューヴ)という語が11回も現れます。“向き直る”“立ち帰る”とも訳せる言葉です。全てを失った二人は、このとき主なる神のみ手の内に立ち帰ったのでした。この後ナオミも異邦人のルツも、わが思いを超えゆく生ける神の御手そして連なる人々に出会い失意から祝福へと導かれていくのです。

 主イエスが宣べられた「悔い改め」(マルコ1:15、ルカ5:32等)も、虚無から神へ、失意から祝福へと方向転換することです。それを可能とする神の言葉とみ業はあなたのそばにある、と告げられています。

「反省する前に愛を知ろう」

マタイによる福音書 18章21~35節

説教  栗原 健 兄 (宮城学院大学准教授)

 

 私たちは「悔い改め」と「反省」を混同しがちです。本当の悔い改めとは何でしょうか。ヒントとなる言葉があります。「愛のない赦しはない。和解とは、罪を犯した人が身を低くした結果ではなく、二人の人間の出会いである。」(G・グティエレス)。この「和解」は「悔い改め」にも言い換えられます。愛である神に出会い直すことが悔い改めであり、反省はその一部だけなのです。

 今日の物語を読むと、私たちは“この家来のように、私も神に対して莫大な負い目(罪)がある。けれども、神は主の十字架を通じて私の負い目を赦して下さった。だから私も人を赦さなくては。反省ッ!”と考えるのが普通です。しかし、この話はもっと深く読み込むべきです。主イエスのたとえ話にはしばしば、当時の人にとって“なんでやねん!”と突っ込みたくなるような部分が含まれています。この物語にある“なんでやねん!”はどこでしょうか。家来の無神経さでしょうか。そうではなく、王が借金を棒引きしたことです。

 1万タラントン(6千億円)を失うことは大変な痛みです。にもかかわらず王が赦したのは、どのような宝よりもこの家来のことを大切に思い、そばにいてほしいと思ったからです。王が怒ったのは、自分の愛が理解されずにむげに扱われた悲しみのためなのです。

 主イエスの十字架と復活が示すように、神は私たち一人ひとりのことをも、どんな犠牲を払ってでも自分の傍にいていてほしいと願うような、大切な存在として見て下さっています。神にそこまで愛されているから、私たちも過去の痛みを手放そうという心になれるのです。他の人が自分に与えた傷は確かに苦しいものだった。けれども、そうした傷が私という人間を決めるのではない。これほどまで神に受け入れられているということが、私が誰であるかを決めるのだ。だからこの痛みを手放しても自分は大丈夫だ、22「七の七十倍」でもやり直せる。そう信じることができるのです。神の愛に出会い直して新たな道に進む、この悔い改めの道に生きて行きましょう。