「人間をとる漁師」

ルカによる福音書 5章1~11節
エレミヤ書 16章16~18節

 

 神の国の宣教を始められた主イエスが、 8「シモン・ペトロ」10「ヤコブ」10「ヨハネ」らガリラヤ湖の漁師を弟子に召された場面です。10「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」との主イエスの呼びかけに、彼らは11「すべてを捨ててイエスに従った」のでした。いったい何が彼らを動かしたのでしょう。

 主イエスは彼らのことをしっかりと 2「ご覧になっ」ていました。彼らが徒労感の中で 2「網を洗っていた」こと、おそらく 5「夜通し苦労」したのに全くの不漁であったことなどをです。その後 3「舟から群衆に教え」られたとき一番そばにいながら必ずしも聞いていなかったシモン・ペトロに、主イエスは彼らの生業である 4「漁」を通してみ業を顕わされたのでした。

 10「人間をとる漁師」との表現には、併せ開いた16「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる…わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている」との旧約の言葉が響いています。ここには人の18「罪と悪」を見逃すことなく、ついには救いに導かれる主のみ業が語られています。

 彼らはそのような眼差しでこの私をも見つめ召される主イエスに出会い、そのような神の漁へといざなわれたのです。ここから始まった彼ら10「人間をとる漁師」の歩みは大いなる充実と祝福に溢れたものとなりました。シモン・ペトロは種々の失敗や挫折を経験しつつもそれらを凌駕する赦しと派遣を繰り返し与えられ、主に従う生涯を全うしました。同様に主に捉えられて従い、その生涯を充実の内に歩んだ多くの信仰者を私たちは知っています。

「福音の種蒔き」

ルカによる福音書 4章42~44節
イザヤ書 28章23~29節

 

 新島襄ゆかりのカタルパを教会前庭に植樹してより3年、40cmほどだった苗木は180cm位にまで成長しました。その後も同志社関係者の尽力によって福島の牧人会本部・福岡の警固教会などに苗木が植えられ、それぞれ元気に成長しているようです。

 宣教の業に入られた主イエスは、31「カファルナウム」の町を拠点としてガリラヤ伝道を始められました。悪霊や病気など様々な力に囚われ苦しむ41「一人一人に手を置き」これを癒される主イエスの評判は広まり、多くの者たちが押し寄せるようになったのです。ある42「朝」、主イエスは42「人里離れた所」で祈っておられたとあります(マルコ1:35)。主イエスとても悩める一人一人と向き合い癒すことは力を注ぎ出すことであり、主なる神との深い交わりを必要としたことを知らされます。でもその場にも人々は押し寄せ42「自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」のでした。

 でも主イエスは43「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」とこの町を発って行かれました。なお癒しが待たれているにも拘らず、主イエスはなぜ離れて行かれたのでしょうか。

 主イエスは43「神の国」、神の支配の到来を告げる43「福音」の種蒔きをしておられたからです。悪霊や病気の癒しは神の支配の実現、言わばその実りとして与えられたものでした。種はすぐに実りに到らなくてもやがて「三十倍…六十倍…百倍」の喜びに至る力を秘めている、これを仰げと主イエスは繰り返し教えられました(マルコ4章など)。

 カファルナウムの人々にも、そして私たち一人一人にもその種はすでに蒔かれています。その成長は大いなる29「主の計らい」の内に置かれており、喜びの実りへと導かれゆくのだと併せ開いたイザヤ28:23~に告げられています。

「主の恵みの年」

ルカによる福音書 4章16~21節
詩編 90編1~12節

 

  ローマ世界において古代から中世まで広く使われた暦は、B.C.45年にローマの執政官ユリウス・カエサルが制定したユリウス暦でした。当時の人はこの暦を用いつつ、ローマ建国年や皇帝即位年などを起点として年を数えていました。がA.D.525年に神学者ディオニュシウスがキリスト降誕を起点とする紀年法を提案、これがキリスト紀元(西暦)となりました。後年、キリスト降誕以後がA.D.(Anno Domini=ラテン語で主の年)、以前はB.C.(Before Christ=キリスト以前)と呼ばれるようになったのです。

 国や元首を暦の起点とするのは、時・歴史への支配権を示すものです。キリスト紀元は時・歴史を人間の支配から解き放ち、主なる神に帰す役割をも持っていました。そしてB.C.は天地創造、A.D.は主の完成へも遥かに接続されたのでした。

 今日開いた詩編90:1~12には神のみが時の主であること、実に 4「一時」に過ぎない私たちの生がでも確かに神の歴史に刻まれ覚えられていることが告げられています。

 ルカによる福音書によると主イエスは宣教開始から間もなく出席された安息日礼拝の場でイザヤ61:1~2を朗読され、大いなる解放と自由の訪れを告げる19「主の恵みの年」が21「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されました。その究極的な実現は主の完成の時を待たざるを得ないでしょう。しかしこの世界に来られた主イエスの福音を21「耳にした」ところからそれはすでに始まっているのです。私たちの日々にもそのような主の意思と恵みが刻まれていることを仰ぎ、大切に今を歩む者とされたく願います。

「神の前にいるのです」

使徒言行録 10章23~33節
詩編 82編1~8節

 

 年度が改まって間もなく、来任教師の就任式が相次いで行われています。これは、それまで他人であった者が主の前に出会い、共なる出発を果たしていく式とも言えましょう。

 23「ペトロ」と24「コルネリウス」も聖霊の不思議な導きによって、このとき初めて出会いました。加えて両者の間には、ユダヤ人と異邦人を隔てる壁がありました。両者はそれぞれに与えられた具体的な経緯を紹介しつつ、それぞれ、互いに26「ただの人間です」、33「わたしたちは…神の前にいるのです」と述べたのでした。

 きっかけや経緯は種々ありましょう。それらもさることながら、共々に33「神の前に」出会い、恵みそしてみ旨を分かち合うべく招かれているということが原点であり、それゆえに教会では互いを兄弟姉妹と呼ぶのです。

 み旨に導かれこの原点を確かめつつ、ペトロそして教会は(11:20)壁をのり越え、ユダヤ人と異邦人が共に福音にあずかる新たな時代へと踏み出していきました。私たちの間には主のとりなしと祝福があり、それゆえに私たちは恵みを分かちみ旨を求めていける、私たちにはこうした立ち返る原点があることを大切にしたく願います。

6月のおたより

 5月29~30日(火~水)、2018年度の東北教区総会が開かれ、当教会より小西牧師・H兄、教区教会婦人委員長としてK姉が出席しました。

 今年は例年の来賓のほか、台湾基督長老教会嘉義中会より4名の牧師が出席されました。今総会で、東北教区と同中会との間で宣教協約を結ぶ議案が取り上げられたためです。この議案は2日目に審議され可決、その場で協約の取り交わしがなされました。

 日本キリスト教団と同教会は1963年に宣教協約を結び、主にある協力を重ねてきました。2011年東日本大震災が起こった際、同教会は繰り返しボランティアを派遣くださり、その人数は延べ268名にのぼりました。こうした中から、台湾の南西部に位置する同教会嘉義中会との出会いが与えられ、相互訪問するなど交流を重ね、今回の宣教協約締結に至ったのです。

 協約には、一人の主にあって過去を振り返り今を分かち合い将来を展望すること、互いの理解を深め協力して宣教に向かうこと、原発事故の反省に立ち被造世界の保全を目指すことなどが盛られています。今後、青年や婦人層などより具体的な交流が深まることが期待されます。

 この宣教協約とは別ですが、当教会青年のY姉がこの8月教団主催による台湾での青年交流に参加されることになりました。主のもとにある交流・共働が豊かに祝され、意義深く進められていきますように。

子どもの日・花の日合同礼拝 「子どものように」

列王記下 5章1~14節

 

 1「ナアマン」は、イスラエルの仇敵アラムの軍司令官です。家には、かつて戦乱の際捕虜としたイスラエルの 2「少女」がいました。 1「重い皮膚病」を患っていた彼はこの少女の助言を得て、預言者エリシャによる癒しを求めてイスラエルに赴く決意をします。

 彼は地位もあり、重用されていたのでしょう。アラム王からイスラエル王への親書も得、外交使節のようにやって来たのでした。が、策略が企まれているに違いないと、イスラエル王はこの求めを拒絶してしまいます。

 ナアマンはエリシャの家を直接訪ねました(9節)。が、エリシャは顔を合わせようともせず、10「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」との伝言を与えただけだったのです。怒ったのはナアマンでした。この無礼でいいかげんな対応は何かと憤慨し立ち去ろうとした彼でしたが、家来たちがこれをなだめ思い留まらせました。ナアマンが14「神の人の言葉どおりに」軍服や武器そして心の鎧をも脱ぎ去ってその身を14「ヨルダンに七度浸した」時、体は14「小さい子供の…ように」清くされたのでした。

 このお話では、体面や駆け引きまたプライドに縛られる人のあり様と、2「少女」や14「神の人の言葉どおりに」したナアマンの姿が対比されています。14「小さい子供」のようなあり様が主の前にむしろ尊く、敵味方の壁をも乗り越えさせると告げられています。

同志社高校礼拝 「私はここにいます」

サムエル記 上 3章1~10節

 

<地球の真ん中>

 私は東北、仙台の教会から来ました。教会は市内にありますが、車で1時間ほど離れた太平洋岸に研修所を持っています。海に面した岬の上に立つログハウスです。ここの岬に立つと、太平洋の水平線が広がります。そして、その水平線はほんの少しカーブを描いていて、地球が丸いのだということを実感させてくれます。

 以前、教会は幼稚園を運営していて、年に一度子どもたちとここに泊まりに行って、岬で話をしました。“地球は大きいね。そして “私”というのはほんとうに小さいね。あの水平線を見るとよくわかるね。でもちょっと考えてみて、みんなは地球の真ん中に立っているんだよ。”わかりますか?。地球はボールのように丸いのです。だから、どこにいてもそれは地球の真ん中になります。地球上に生きている人で、地球のはじっこに立っている人はいません。みんなが必ず真ん中に立っているんです。そう“私”は確かに小さい小さいけれど、でもその小さな“私”は地球の真ん中に立っています。

<今日の聖書で>

 さて、今日の聖書を開きましょう。

 神殿、今でいえば教会のようなところに寝泊まりしていた少年サムエルは、夜中、呼ぶ声を聞きました。「サムエルよ」。エリ先生に呼ばれたと思ったサムエルは、先生のところへ急ぎました。「お呼びになったので参りました」。ところがエリ先生は「はて、わたしは呼んでないぞ。戻っておやすみ」。と言うのです。不思議に思いながら戻って休むと、再び声がしました。「サムエルよ」。再びサムエルは先生のところへ急ぎました。「お呼びになったので参りました」、「いやいや、わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」。でもやっぱり三度めにサムエルは呼ばれたのです。「サムエルよ」。「先生、お呼びになったので参りました」。「えぇい、さっきから呼んでないと言っとるじゃろが!・・・。いや、ちょっと待てよ。サムエル、お前を呼んでいるのは主なる神さまご自身かもしれん。もし四度目に呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言ってごらん」。

 サムエルが戻って休むと、四度目に声がしたのです。「サムエルよ」。サムエルは答えました、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」。ここから、サムエルが主なる神さまに用いられつつ、新しい時代を切り開いていく物語が始まりました。

<自分探し>

 神さまは、サムエルの名前をくり返し呼びました。他の誰でもないサムエルだからできる働きを託すために、神さまは呼ばれたのです。サムエルははじめ気づきませんでしたが、ついには「どうぞお話しください。僕は聞いております。」と神さまに向き合うことができました。

 この私だからできること、世界の真ん中に立つこの私にこそできること、これを見つけることを“自分探し”といいます。サムエルは失敗も含めた自分探しの中で、神さまから大切な働きを受け取っていったのだと思います。

 皆さんは今、高校生というとても大切な時を歩んでいます。もう40年前のことですから大昔話ですが、高校時代私は多くのよき友人を得ました。友人たちと時に楽しく、時に真剣にやり取りした中で私は二つのことを知りました。一つ目は “私は世界中の誰とも違う私だ”ということ、そして二つ目は“私は信頼できるつながりにあってこそ私になれる”ということでした。これが私の出発点となりました。

 サムエルの物語から受け取ることができるメッセージを、三つ挙げたく思います。

 ひとつ目。サムエルがそうであったように、私たちにも神さまは繰り返し声をかけその名を呼ばれているのかもしれません。但し、それは夜中に名が呼ばれるという仕方とは限りません。友だちとのやり取りの中で、学校の授業や経験を通して、大切なこのことに気づきなさい、世界で一人のあなたでありなさい、と既に呼びかけられているかもしれません。

 ふたつ目。神さまの呼びかけに向き合い正しく受け取るまでには、失敗・試行錯誤があり得るし時には必要かもしれない、ということです。「お呼びになったので参りました」とサムエルは三度間違いを繰り返しました。でもそれは正しい路を選び取るのに必要なことだったのです。

 みっつ目。サムエルにはエリ先生というよき導き手がいました。私たちは他者とのつながり・やり取りの中で、“わたしはここにいます”と自らの位置を確かめ、「どうぞお話しください。僕は聞いております。」と神さまに向き合うことができるようにされていきます。

 高校の時代は大切な自分探しの時です。世界の真ん中に立つあなたには、あなただからできる大切な働きがあるはずです。すぐには見つからないかもしれません。必要な失敗もあるかもしれません。それを経て“わたしはここにいます”と自らを見出すとき、世界の真ん中に立つあなたの働きが、その道が始まっていくのです。

 よき高校生活を歩まれるよう、お祈りします。

「こういうことが三度あり」

使徒言行録 10章9~20節
創世記 8章15~22節

 

 各地の教会を巡り歩いていた(9:32)ペトロが、神を求める異邦人たちと出会った場面です。当時、両者の間には隔ての壁がありました。ユダヤ人は選民思想に立つ律法を持ち、異邦人との交流を避けていたからです(28節)。これを常識のように、教会またキリスト者も受け継いでいました。加えて 1「コルネリウス」は、ユダヤを占領支配するローマ帝国の駐留軍隊長でした。

 この両者に、主が働きかけられました。コルネリウスはペトロを招けと促され(5節)、ペトロは一つの幻を与えられました(11~16節)。それは、旧約以来食べることを禁じられているもの(レビ11章等)を食べよと繰り返す、不思議なものでした。

思えば、ペトロは16「三度」ということに縁のある人物です。主イエスの捕縛に際して三度主を否んで自らの弱さに敗れ(ヨハネ18:15~)、その痛恨の思いを受けとめてくださった復活の主から三度「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21:17)と再度の召しを受けて再出発をしたのです。そうしたペトロですから、16「三度」の呼びかけに主の強い意志と指し示しを感じたに違いありません。

 そこには隔ての壁を打ち壊して、福音を世界にもたらすとのみ旨がありました。このみ旨に導かれ励まされ、ペトロ、また教会は(11:20)ユダヤ人と異邦人が共に福音にあずかる新たな時代へと踏み出していったのです。

 洪水の後に主が言われた21「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」との言葉は、人間の悪を直視しつつ忍耐をもって向き合われる主の深い慈しみを示しています。世界と私たちはそのような繰り返しての憐れみと指し示しを頂いていることを、胸に刻みたく願います。

「新たな旅路へ」

使徒言行録 9章10~19節
創世記 50章15~21節

 

 ヨセフ物語は20「あなたがたは…悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え…救」いをもたらされる、との言葉で閉じられます。数々の愚かを重ね断絶を招いたヤコブの一家を、神は人の思いを超えるみ業をもって和解と祝福に導かれました。そしてその生けるみ手はその後も神の民に伴い、これを導いていると物語は告げているのです。

 今日開いた新約に現れる10「アナニア」と11「サウロ」も、厳しい断絶のこちら側と向こう側に立っていました。サウロはファリサイ派に立つ熱心な「教会の迫害者」(フィリピ3:6)であり、アナニアはこの時狙われていたダマスコの教会メンバーであったからです(2・10節)。ところが二人はそれぞれ、思いがけない生ける神の働きに捉えられました。サウロは激しく迫害を加えていた 5「イエス」こそが、熱心に従ってきたわが 5「主」であることをはっきりと示されました。そしてアナニアはあろうことか仇であるはずのサウロを訪ねて癒せ、15「行け」と有無を言わせず押し出されたのです。およそ理解そして承服し難い思いだったろう彼がそれでも従い17「兄弟サウル」と呼びかけたとき、二人の間の「敵意という隔ての壁」(エフェソ2:14)は崩されたのです。18「目からうろこ」の体験をしたのはサウロだけではありませんでした。アナニアも、そして教会も人の思いを超えゆく聖霊の働きとそれに応えた者たちの手助けによって、断絶から和解へと導かれたのです(26~28節)。

 人の罪、その頑なさはどの時代にも対立と断絶を生んでいます。が、それを超えゆく生ける神の働きがある、このことに励まされ導かれて歩み行きたく願います。

ペンテコステ礼拝 「派遣そして同行」

創世記 45章25節~46章7節
コリントの信徒への手紙 二 4章7~15節

 

 帰還した息子たちから26「ヨセフがまだ生きています」と知らされた父ヤコブは喜びに溢れ、再会を願いました。が彼には、祖父アブラハム・父イサクから受け継いだ約束の地を離れて良いのかとの迷いがあったはずです(28:4・13~15)。そうした彼に神は、エジプトへ下ることを恐れるなと告げられました(3節)。 4「わたしがあなたと共に…下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す」との呼びかけに、ヤコブは若かりし頃旅立った際に聞いた神の言葉(28:15)を思い起こした筈です。まことにその約束に違わずわが人生が主のみ旨とみ業の内に置かれていることに信頼し、晩年にして新たな世界へと 5「出発した」のでした。

 エジプトでファラオと会見したヤコブは自らの流転の歩みを振り返りつつ、その生涯を「旅路」と語っています(47:9)。この言葉には、貧しい「土の器」(Ⅱコリント4:7)のような生涯にも神が大いなる祝福を盛ってくださったとの感謝、そしてやがてはその神に帰り着くとの信頼が込められていましょう。

 今日は、この神のみ旨が今も生きて世界と私たちを導かれることを仰ぐ聖霊降臨日です。小さな私たち一人一人もこの主なる神からそれぞれの旅路へと派遣されていること、そしてこの生ける方の同行にあって日々を歩み得ていることを心に刻みたく願います。