「あなたを遣わす」

使徒言行録 26章12~18節
歴代誌上 29章10~17節

 

 内村鑑三(1861-1930)は伝道者、無教会の創始者、教育者、新聞記者、論説家など多くの働きを為したキリスト者です。20歳で札幌農学校を卒業時に同級生の新渡戸稲造・宮部金吾と、二つのJ(JesusとJapan)に生涯を捧げることを誓い合ったといいます。しかしその内村は1891年第一高等中学校の教員時代、教育勅語奉読式の際に天皇の署名に最敬礼しなかったことが不敬であるとバッシングを受けて職を追われ、心労で伴侶も失いました。

 日清戦争開戦に際してはこれを “義戦” とした内村でしたが、戦争は何も生まないと知り、日露戦争に際しては少数者となっても非戦論を貫きました。その後、欧米のキリスト教国が第一次大戦に突き進むことに失望し、再臨運動に参加しています。

 愛用の聖書に内村は “I for Japan;Japan for the World;The World for Christ;And All for God.” と記し、これは墓碑にも刻まれています。一つ一つの働きにもまして、彼の事績は生涯キリストに仕える旅人であったことにあると思います。私の罪を赦してくださいと、涙ながらに祈る晩年であったといいます。

 ダビデ王は神殿建設に向けて、わたしは主から派遣された15「寄留民」として生涯において17「正しい心」を捧げますと祈りました。伝道者パウロも自らの回心を振り返り、18「闇から光」へと導かれる主イエスに仕え18「恵み」を分かち合うべく17「遣わ」されたのだと語りました。16「起き上がれ、自分の足で立て」との言葉は、私たち一人一人にも告げられていましょう。私たちがこの時・この場所に遣わされたことにも、主のみ旨と期待があるはずです。

「あなたを見出される方」

サムエル記上 9章14~21節
ローマの信徒への手紙 11章33~36節

 

 約束の地カナンに定着後、イスラエルはしばらくの間士師と呼ばれるさばきづかさが指導しました。その最後の一人である14「サムエル」は15「サウル」に油を注ぎ(10:1~)、イスラエル最初の王としたのでした。

 二人の出会いの経緯が今日の箇所にあります。サウルはいなくなった父の20「ろば」を捜して家を出ましたが見つけることができず、遠くこの町に至りました。一度は諦めかけたサウルでしたが(5節)、供の若者の言葉と配慮、出会った水くみの娘たちらに不思議に支えられ導かれ、サムエルに出会ったのでした。いっぽう主はサムエルに予め、16「明日…遣わす」男に油を注ぎ王とせよと告げていました。

 いなくなったろばは20「もう見つかっています」と触れられているように、すべては主のみ手の内にありました。サウルはろばをなかなか 4・5「見つけ出せ」なかったと繰り返されていますが、そのサウルはすでに主に見出されていたのです。

 わたしは21「最も小さな」者ですとサウルは驚き恐れましたが、主は小さな者をも見出されみ旨の内にとり用いられます。ここにイスラエルの新しい時代が開かれていきました。

 伝道者パウロは32「不従順」や誤りをも抱え持つ私たちにも目を留めて救いのご計画を実現されゆく神のみ旨とみ業に感嘆し、36「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」とその信仰を言い表しています。出会う課題に一喜一憂する小さな私たちも神の大いなるみ旨とみ業の内に置かれていることを仰ぎ、日々の歩みに向かいゆきたく願います。

「この旅を養われる方」

列王記上 17章1~7節、19章1~8節
ルカによる福音書 12章24節

 

 24「烏」は汚れた鳥として律法でも食用を禁じられていますが(レビ11:15)、主イエスは “空の鳥・野の花” の譬を語られる際に敢えて烏を取り上げられました。嫌われる烏をも神は養い、自由を与えられると語られたのでしょう。

 エリヤは北イスラエルにあって悪政を行った 1「アハブ」王と王妃イゼベルに立ち向かった預言者であり(18:18等)、新約時代にも預言者の代表格として覚えられていました(ルカ9:30等)。権力を欲しいままにする王に立ち向かうのは大変なことです。エリヤは最初の預言として干ばつの罰を告げたのち、 3「ケリトの川のほとり」に身を隠しました。その際、朝晩パンと肉を運んでくる烏に養われたのでした。

 その後、エリヤは450人のバアルの預言者と対決し、これに勝利します(18:20~)。が、復讐を誓う王妃イゼベルの言葉に恐れて荒れ野に逃げ、 4「もう十分です」と意気消沈したのでした。眠りから覚めると 6「パン菓子と水」があり、 5・7「起きて食べよ」と呼びかけられたのです。エリヤは烏に養われた時のことを思い起したのではないでしょうか。あのときエリヤは 1「生きておられる」主を証しすべく、預言者に立てられたのです。起きて食べたエリヤは神の山ホレブに向かい、そこで生ける主と出会い再び力満たされて働きに戻っていったのでした。

 7「起きて食べよ。この旅は長く…耐え難いからだ」との言葉は、私たちにも与えられていましょう。生涯の旅には起伏もあり、時に意気消沈することもあるからです。生ける神に出会いその言葉に養われてこそ、旅を続けることができます。

「預言者のともがらが」

列王記下 4章38~41節
ルカによる福音書 22章31~34節

 

 38「預言者の仲間たち」は口語訳で「預言者のともがら」と訳されており、神と人に仕える預言者たるべく励まし合う仲間らであることがよりわかります。そしてこの言葉は、この章をはじめエリシャが登場する場面に多く現れます。38「ギルガル」は恩師エリヤと別れた時の思い出の地でした(2:1)。エリシャはそこに「預言者のともがら」を集め、情熱をこめて薫陶したのでした。

 さて38「飢饉」に際しては、彼らの食事についても骨折ったことが記されています。大鍋で煮物を作っていると、一人が野生のうりを抱えて帰ってきました。おかげで彩り豊かな煮物となりましたが、うりは毒をもっていたのです。40「鍋には死の毒が入っています」との叫び声に、いちばん青くなったのはうりを取ってきた当人に違いありません。しかしエリシャは麦粉をもってその毒を消したのでした。

 毒のうりを食べさせようとしたのは、大きな失敗でした。がエリシャは育ちゆく者の思いを無にすることなくその失敗をも受けとめてやったのです。主イエスは弟子ペトロの挫折を見抜きつつ、32「わたしはあなたのために…祈った。だから…立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。のち初代教会の指導者となったペトロは、折に触れこの主の言葉を思い出し力としたことでしょう。同様に、この預言者もこの失敗そして恩師エリシャの思い出を糧に自らの働きに向かったのではないでしょうか。

 私たちも同様の多くの配慮・世話そして祈りを頂いて、今を得ているのではないでしょうか。それは、あなたも同じようにしなさいとの指し示しでもあります。

1月のおたより

 新しい年2020年の1月となりました。でも世界には、1月にクリスマスを祝う国もあります。エチオピアは独自な暦の関係で1月7日に主イエス・キリスト降誕を祝い、これを “ゲンナ” といいます。

 この国の伝説によると、降誕の喜びを最初に告知された羊飼いたちがこの “ゲンナ” をしていたのだとか。“ゲンナ” とは、何とホッケーのこと。このことを覚えてエチオピアでは、この日みんながホッケーを楽しみ、また大きな大会の決勝戦が行われるのだそうです。

 杖をスティックに、羊の毛をボールに、確かに羊飼いたちならすぐにゲームが始められそうです。野山を移動して野宿という厳しい生活の彼らにも、こうした楽しみがあったのかもしれない、とイメージが膨らみました。

新年礼拝 「新しいことを私は行う」

イザヤ書 43章16~20節
マルコによる福音書 2章21~22節

 

 18「初めのこと」18「昔のこと」とは、16~17節に記されている出エジプトを指しています。その叫びに耳を傾け歴史にみ手を伸ばされてイスラエル人をエジプトから脱出させられた主のみ業は主の民に対する救済の出来事であり、信仰の原点でした。殊にB.C.587国を失い捕囚とされた民にとって、心の拠り所であったに違いありません。ところが預言者は今、それらを18「思い出すな」18「思いめぐらすな」と言うのです。

 それは、主は生きておられて19「見よ、新しいことをわたしは行う」と宣言されるからです。19「今や、それは芽生えて」おり、19「荒れ野に道が敷」かれるだろうと告げられています。それは驚くべき仕方でB.C.538、バビロン捕囚からの解放として成就しました。

 私たちもそれぞれに、感謝すべき原点や拠り所を持っていることでしょう。それは大切にしつつ、私たちの思い・あり方を超えてみ旨を顕わされる主を仰ぎ歩みたく願います。主イエスは22「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と教えられました。しなやかな革袋を用意しなければ、22「新しいぶどう酒」のフレッシュな活動に応えることはできないからです。生きて日々導かれる主に養われ私たちも新しくされ、与えられた2020年に踏み出しましょう。

「神の計画の内に」

テトスへの手紙 2章11~15節
ヨハネの黙示録 22章16~20節

 

 1月6日にまもられるエピファニー(公現日)は東方の学者たちが降誕の主イエスを来訪した日(マタイ2:1~)とされ、この日までクリスマスのお祝いは続きます。エピファニーはエピ(上から)とファニー(現れる)とのギリシャ語から成っており、主イエスの栄光が世に顕わされたことを表します。

 今日開いたテトスの手紙の11「現れました」の語が、エピファネーという動詞です。イエス・キリスト降誕の出来事は、ついには十字架によってすべての人々を14「あらゆる不法から贖い出し」祝福に結び合わせようとの神の大いなる恵みの計画が顕わされた出来事であったとの意味です。

 加えて、13「現れ」がエピファネイアとの名詞です。こちらでは13「イエス・キリストの栄光の現れ」、すなわち歴史を司られる神による希望の完成を13「待ち望む」ことが教えられています。大いなる希望はすでに与えられつつも、それは未だこの世界を覆ってはいません。私たちは “すでに” と “未だ” の間を歩んでいます。

 66巻の聖書が「初めに、神は天地を創造された」(創1:1)との宣言に始まり、20「アーメン、主イエスよ、来てください」との祈りで閉じられることにもそのことは示されています。多くの悩み・課題・歪みがあろうとも世界と歴史はそれ自体では完結せず、神の計画の内に置かれていることを銘記せよ、と指し示されています。世の諸力に取り込まれることなく、12「この世」すなわちあなたが派遣された時と場所で希望を仰ぎつつ、12「思慮深く」歩めと私たちは告げられています。

クリスマス礼拝 「泣きやむがよい」

マタイによる福音書 2章13~23節
エレミヤ書 31章15~17節

 

 画家D.ギルランダイオには、今年のクリスマス案内に載せたのとは別の “東方三博士の礼拝” の作品があります。構図は似ていますが、羊飼いらに告知する天使や成人した洗礼者ヨハネなど福音書の様々な記事が描き込まれています。よく見ると、ヘロデ王の命令による幼児虐殺(16節)の場面も描かれています。この絵が、フィレンツェの孤児養育院の祭壇のために描かれたこととも関係していましょう。

 主イエスの降誕に不安を感じた(3節)ヘロデ王は、保身のために幼子を殺すという闇の業に走りました。これを記す福音書は、何を告げようとしているのでしょうか。続けて、エレミヤ31:15~の預言が引用されています。B.C.6世紀に起こった亡国と捕囚に際し子どもを奪われた母親たちから激しい嘆きが起こったことが、祖先ラケルに仮託した形で述べられています。このような母親の嘆き悲しみはこれまでも繰り返されてきた、そうした罪と闇の世の只中に主イエスは降誕を遂げられたことが指し示されています。

 そして今日共にしたように、福音書が引用した預言には後半があり、そこには16「泣きやむがよい…涙をぬぐいなさい」との主の言葉があります。この預言を実現し、嘆きを希望へと変えゆくためにこの救い主は降誕されたことが加えて指し示されています。

 ヘロデの闇の業に際してはエジプトに逃れて嘆きを免れた母マリアでしたが、30数年後わが子の十字架に「剣で心を刺し貫かれ」る(ルカ2:35)思いをしました。が、復活に慰められ希望の実現を仰ぐ者とされたのです(使徒1:14)。

 紹介した絵には、博士に紹介されて主イエスを拝する孤児の姿もあります。傷ついた小さな者もこの救い主によって慰められ、希望を与えられるとのメッセージでしょう。