「あなたがたを遣わす」

ルカによる福音書 9章1~6節
エゼキエル書 28章25~26節

 

 ガリラヤ宣教の主イエスの許から派遣された 1「十二人」は、主に養われその恵みを広く分かち合うべくそれぞれの生活へと遣わされる後世の信仰者をも象徴していましょう。その派遣に際し、 3「何も持って行ってはならない」と厳しいことが告げられています。それは主なる神にこそ信頼し支えられるその大切さ重さを知るためだったでしょう。 1「力と権能」を授けられた 1「十二人」でしたが、時に無力をも露呈したのです(9:40)。まことの養い主イエスから派遣されたこと自体が、最大の 1「力と権能」であることを彼らは知ったのでした(22:35)。

 被災者支援センターエマオには東日本大震災発生以来これまでに9000名近いボランティアがやって来てくれました。その中には、何の見返りもない働きの中で大切な経験をし、自らの方向を見いだしていった若者もいます。

 併せ開いたエゼキエル書に、養われる民が26「ぶどう園を植え、安らかに住み着く」ことを通して、主なる神はご自身25「聖なることを…示す」とあります。26「ぶどう」は荒れ地にも育ちますが、良い実をつけるまで10年近くかかる作物です。生活に地道に向き合い取り組むこともまた、主の派遣に応え祝福にあずかる働きであることを教えられます。

11月のおたより

 11月11日(日)午後、恒例の教会バザーが開かれました。好天に恵まれて暖かい中、地域の方がおいでくださり、ひとときを過ごされました。

 全体人数は例年より少なめだったかもしれませんが、買い物後も礼拝堂に設けられた休憩コーナーでゆっくり楽しんでくださった方が多かったように感じました。おかげさまで、手作りケーキ・味噌おでん・焼きそば・コーヒーなど完売。こひつじ文庫・男声合唱「コーロ・リベーロ」のステージも好評でした。

 収益はすべて、諸団体の福祉活動・社会活動に送られます。

 ご準備・奉仕・応援くださった皆さん、おつかれさまでした。

 

収穫感謝合同礼拝 「十頭のらくだ」

創世記 24章9~21節

 

 息子イサクにふさわしい嫁を探してきて欲しいと主人アブラハムから頼まれた僕は、10「十頭」の10「らくだ」と一緒に旅に出ました。らくだは重い荷物を載せて長旅ができると共に、たくさんの乳を出してくれる頼もしい動物です。

 加えて僕にはもう一つ考えがあったようです。辿りついた井戸べで、僕は14「らくだにも飲ませてあげましょう」と言ってくれる女性をお示しください、と主に祈りました。すると一人の女性がやって来て、汲んだ水がめから僕に飲ませると共に19「らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と言ったのです。ベトエルの娘リベカでした。

 らくだに持久力があるのは体内に脂肪や水を蓄えているからで、そのぶん一度に大量の水を飲みます。10「十頭」の10「らくだ」はおよそ1トンの水を飲んだはずで、リベカはその水を汲む苦労を厭わなかったのです。

 こうしてリベカはイサクの妻となりました(24:67)。アブラハムはこの結婚が、ついには人類全体への祝福へとつながることを見通していました(6節、12:3)。リベカの優しさと労苦は、主の遠大な計画の中で尊く用いられたのです。僕たちが汲んだ水をぶどう酒に変えて、「最初のしるし」を顕わされた主イエスのみ業を思い起こします(ヨハネ2:11)。私たちの思いを超えてみ旨を実現される主を仰ぎ、それぞれの業に向かい行きたく願います。

キリスト教入門講座 (第15期)

キリスト教に触れてみたい方、もう一度基礎を学んでみたい方に向けた講座です。

小西牧師がお話します。内容は第14期までと同じです。特に申し込みは必要ありません。

いずれも水曜日、19:00~20:30、仙台北教会にて。

 

第1回 : 11月7日  「名をもつ神」

第2回 : 11月14日  「イエス・キリスト」

第3回 : 11月21日  「十字架と復活」

第4回 : 11月28日  「神の国を生きる」

第5回 : 12月5日  「聖書」

第6回 : 12月12日  「召し出された者の群れ-教会」

召天者記念礼拝 「安心して行きなさい」

ルカによる福音書 8章40~56節
詩編 116編8~14節

 

 今日の箇所では、違った状況に置かれた二人の癒しが組み合わされて語られています。主イエスと共に死にそうな42「十二歳ぐらいの一人娘」の許へと急ぐ会堂長ヤイロでしたが、そこに43「十二年このかた出血が止まらず」苦しんでいた女性が現れ主イエスは立ち留まるのです。父親ヤイロは気を揉んだことでしょう。そして、娘の死を告げる知らせが届いたのです。

 不思議に年数が符合しています。わずか42「十二歳」で生涯を閉じなければならないかもしれない、43「十二年」も苦しみ続けた、との違いはありつつも、ここには如何ともし難い中から叫ぶ思いが共通しています。そうした人のあり様に主イエスは立ち留まり、耳を傾け、み業を振われるのです。

 女性の苦しい43「十二年」を主イエスは48「信仰」と呼ばれ、48「安心して行きなさい」と救いを宣言されました。傷心のヤイロにも50「恐れることはない」と呼びかけ、娘を死から起こされました。彼らは身体を癒されただけでなく、どんなときにも祝し伴われる主を知ったのでした。詩編116編には、救いを経験した者の感謝と告白が歌われています。たとえ苦境にあるときも(10・11節) 9「命あるものの地にある限り…主の御前に歩き続けよう」と、女性またヤイロと娘もこのとき誓ったことでしょう。

 50「恐れることはない」48「安心して行きなさい」と呼びかけられる主に信頼し歩み得る、信仰者の生涯の幸いを思います。

「悪霊はどこに」

ルカによる福音書 8章26~39節
ゼカリヤ書 13章1~2節

 

 22「向こう岸に渡ろう」と嵐のガララヤ湖をも越えて主イエスがやって来られたのは、この地にも主の癒しを必要とした人がいたからでした。

 27「悪霊」が名乗った30「レギオン」とは、6000人から成るローマ帝国の軍団の名です。すなわちこの人は強大な非人間的力に捕らえられ、他者からのさらには自己からの疎外に苦しんでいました。主イエスは悪霊を豚の中へと追放され、この人を解放されたのでした。

 このとき悪霊は根絶やしにされた訳ではありませんでした。その力は仲間の解放を共に喜べなかった村人(37節)に及んだのかもしれませんし、この後主イエスを憎む者また弟子たちや群集にも働いて真理を証しする主イエスを十字架につけていくのです。その悪しき支配は主イエスの十字架の贖いと復活によって打ち破られましたが、その残滓は主なる神による完成の時までなお世界と生けるものを縛り支配しようと狙っていることを私たちは警戒せねばなりません(ゼカリヤ13:2)。

 ファンタジー文学を特集した『信徒の友』 2018年11月号でM.エンデの『モモ』が紹介されていました。少女モモがみんなの豊かな時間を取り返すべく対決した時間泥棒のことを、紹介者は今日のインターネット技術になぞらえていました。インターネットは一般人が国家や権力者に対抗するための有用なツールとしても機能していますからそうとも言い切れませんが、アメリカをはじめとする国々が運用するエシュロンのシステムによって世界中の通信が傍受・管理されているといった報道に触れるにつけて、祝されるべき命を支配しねじ曲げていこうとする27「悪霊」の脅威はなお今日的なことであることを思うのです。

10月のおたより

近年子どもが少なくなって、教会学校の礼拝がさびしくなっていました。でも考えてみれば、礼拝には子どもも大人もなくみんな神さまの家族!ということで、5月より“めぐみの礼拝”と名づけて誰もが参加できる礼拝としてリニューアルしました。

 世界のさまざまな賛美を取り入れてみる、聖書も出席者に読んでもらう、献金にあわせて一週のふり返りと分かち合いの時をもつ、などみんなでつくりあげる親しみやすい礼拝を心がけています。聖書箇所も歌詞もプログラムにプリントするようにしたので、あちこちめくることもなく、スムーズに礼拝が進むようになりました。

 今、お話は使徒言行録から引き続いて、教会草創期の信仰者の歴史を辿っています。

 こうして教会学校スタッフのほかに、早く教会においでになった大人の方も参加くださるようになってきました。あと、子どもたちがうれしく集うようになってくれたらいいなぁ、というのが祈りであり願いです。

「わたしの母、わたしの兄弟」

ルカによる福音書 8章19~21節
創世記 2章18~24節

 

 創2:18~は、結婚式の準備会の際に開く箇所です。18「人が独りでいるのは良くない」18「彼に合う助ける者」と、人のつながりについて多くを教えられます。また24「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。それまで育ってきた血縁の絆は尊く強いものですが、人格・愛の関係はそれを越えて二人を結び合わせていくのです。

 主イエスにはヤコブ・ヨセ・ユダ・シモンという弟が、また妹もいたと福音書にあります(マルコ6:3)。その兄弟らと母マリアが訪ねてきて面会を求めたとき、主イエスはそれにすぐには応えずに21「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われました。

 この章では神の言葉が実りに向けて蒔かれていること(4節~)、18「どう聞くべきかに注意」すべきことが告げられていました。そして21「神の言葉を聞いて行う」ことこそ、神と深く連なる道であると主イエスは教えられたのです。

 主イエスは「アッバ、父よ」(マルコ14:36)と祈られました。「アッバ」は幼児語、言わば“お父ちゃん”です。同じように、私たちも主イエスに連なる家族として神を求め祈ることができるのだと、伝道者パウロは告げています(ガラテヤ 4:6)。