「踊りの主」

ルカによる福音書 7章31~35節
サムエル記下 6章12~22節

 

 “笛吹けども踊らず”との諺は、今日の聖書の箇所から来ています。結婚式ごっこをしようと笛を吹きお葬式ごっこをしようと歌を歌ったのに、誰も応えてくれないと子どもが嘆いているというのです。主イエスはこれが31「今の時代の人たち」のあり様だと言われています。

 洗礼者ヨハネは自らも禁欲的な生活をし、人々に悔い改めを求めました(3:3~等)。主イエスは神の国の福音を説き、人々と親しく食卓を囲みました(5:30等)。が、30「ファリサイ派の人々や律法の専門家たち」は批判をするだけで、耳を貸そうともしなかったのです。

 批評をするばかりで腰を上げようとしないという点では、31「今の時代」はむしろ今日の様子に重なります。自らを中心に置いてものを見、他者の喜びや痛みに共感できない冷笑的なあり様に社会も私たちも影響されてはいないかと恐れます。

 今日共にする讃美歌290の原題はLord of Dance(踊りの主)です。“私は踊った、世界が始まったその朝に、…そして天から降りてきて、地上で踊った、ベツレヘムで…”と原詞にはあります。原初の創造の業に、降誕の出来事に、主イエスの言葉と業に、世を愛する神の熱い働きかけが込められているというのです。それなのに冷笑的に通り過ぎて良いのか、神の呼びかけに応え福音に生き、その喜びに踊る者とされよう、とこの讃美歌は歌っています。

 死をも打ち破り復活を遂げられた主イエスの踊りは、全被造物がその命を祝い共に踊るまで続きます。私たちもその命を、今日を喜び、踊りの輪に加わりましょう。

9月のおたより

 過日、T兄から1枚の絵画が教会に寄贈されました。もと教会員のC姉の作品「花もようのついたオルガン」です。1985年に描かれたすてきなこの絵は翌年の河北美術展に出品され、入選受賞しています。

 描かれているのは、昨年3月の「おたより」でご紹介した1913(大正2)年製造のリードオルガンです。

 絵画は寄贈を受けて教育館階段の踊り場に設置を考えましたが、壁面の強度不足でむずかしいことがわかり、2階の「会議室A」に飾ることとなりました。ちょうどこの部屋には描かれたオルガンが修復されて設置されており、今ふたつとも然るべき場所を得たといった感じで並んでいます。

 2階に昇りにくい方もおられるので、9月16日の礼拝時に絵を礼拝堂でもご披露しました。可能な方はぜひ階段を昇って、当教会の歴史の証人でもある絵画とオルガンをご覧頂きたく思います。

「新たに生まれることができる」

ヨハネによる福音書 3章1~15節
エゼキエル書 37章1~10節

 

 この 1「ニコデモ」は 1「ユダヤ人たちの議員」で10「イスラエルの教師」とありますから、教養豊かで地位や尊敬も得ていた老人だったと推察します。その彼が主イエスを訪ね、あなたは 2「神のもとから来られた教師」ですと尊敬と信頼を言い表したのです。もっとも 2「夜」訪れたというところに、 1「ファリサイ派」としての体面を気遣ったことがわかります。

 彼を迎えての主イエスの言葉、 3「はっきり言っておく」の原文は“アーメン、アーメン、私はあなたに言う”です。また“聖書の中の聖書”とも呼ばれる16節の言葉が彼に向けて告げられている点からも、主イエスが喜んで彼を迎えていることがわかります。

 このことを踏まえ、あえて否定形で語られている主イエスの言葉を肯定的に受けとめ直すとこうなりましょう。“人は年を重ねても、新たに生まれて神の国の祝福に与ることができる”(3節)。“驚くには及ばない、神のもとから風のように自由に吹き来たる霊に生かされることだ”(7・8節)。“あなたが見たこと知ったことをそのまま受けとめ、生きなさい”(11節)。“真理の力を信じて光に歩みなさい”(21節)。

 このときのニコデモの応答は記されていません。が、その後ファリサイ派らの集まりで主イエスの弁護を試み(7:50~)、十字架に際して主イエスの遺体を受け取り埋葬したのでした(19:39~)。彼はもはや恐れることなく真理に従い、光に歩む者とされたのです。

 併せ開いたエゼキエル37章は、神の霊こそが私たちを生かし希望で満たすことを印象的な仕方で告げています。吹き来たる神の息吹に生かされ導かれて、日々を歩みましょう。

「止められた葬列」

ルカによる福音書 7章11~17節
ルツ記 1章19~22節

 

 ガリラヤの町11「ナイン」で主イエスと一行は、12「町の門」から外の墓へ向かう葬列とすれ違いました。このとき12「ある母親」は、ただ一人の家族であった12「一人息子」を亡くしたのでした。その痛み悲しみを我が事のように感じとられた主イエスは(13節)、13「もう泣かなくともよい」との言葉と共に葬列を止められたのです。

 虚無へと向かう葬列を人は止めることはできません。が、これをなし得る方が私たちと共におられ、み言葉を与え、み業を振われるのです。主イエスは一人息子を死から起こし、葬列は喜びへそして新たな生活へと方向転換したのでした。

 ルツ記は夫と息子を亡くしたナオミとこれに従った異邦人の嫁ルツが、22「モアブ」から19「ベツレヘム」に帰ってきたことに始まる物語です。わが身の不幸を嘆くナオミの言葉(20~21節)は、先の12「ある母親」の思いに重なりましょう。さてこの1章には2122「帰」る(シューヴ)という語が11回も現れます。“向き直る”“立ち帰る”とも訳せる言葉です。全てを失った二人は、このとき主なる神のみ手の内に立ち帰ったのでした。この後ナオミも異邦人のルツも、わが思いを超えゆく生ける神の御手そして連なる人々に出会い失意から祝福へと導かれていくのです。

 主イエスが宣べられた「悔い改め」(マルコ1:15、ルカ5:32等)も、虚無から神へ、失意から祝福へと方向転換することです。それを可能とする神の言葉とみ業はあなたのそばにある、と告げられています。

「反省する前に愛を知ろう」

マタイによる福音書 18章21~35節

説教  栗原 健 兄 (宮城学院大学准教授)

 

 私たちは「悔い改め」と「反省」を混同しがちです。本当の悔い改めとは何でしょうか。ヒントとなる言葉があります。「愛のない赦しはない。和解とは、罪を犯した人が身を低くした結果ではなく、二人の人間の出会いである。」(G・グティエレス)。この「和解」は「悔い改め」にも言い換えられます。愛である神に出会い直すことが悔い改めであり、反省はその一部だけなのです。

 今日の物語を読むと、私たちは“この家来のように、私も神に対して莫大な負い目(罪)がある。けれども、神は主の十字架を通じて私の負い目を赦して下さった。だから私も人を赦さなくては。反省ッ!”と考えるのが普通です。しかし、この話はもっと深く読み込むべきです。主イエスのたとえ話にはしばしば、当時の人にとって“なんでやねん!”と突っ込みたくなるような部分が含まれています。この物語にある“なんでやねん!”はどこでしょうか。家来の無神経さでしょうか。そうではなく、王が借金を棒引きしたことです。

 1万タラントン(6千億円)を失うことは大変な痛みです。にもかかわらず王が赦したのは、どのような宝よりもこの家来のことを大切に思い、そばにいてほしいと思ったからです。王が怒ったのは、自分の愛が理解されずにむげに扱われた悲しみのためなのです。

 主イエスの十字架と復活が示すように、神は私たち一人ひとりのことをも、どんな犠牲を払ってでも自分の傍にいていてほしいと願うような、大切な存在として見て下さっています。神にそこまで愛されているから、私たちも過去の痛みを手放そうという心になれるのです。他の人が自分に与えた傷は確かに苦しいものだった。けれども、そうした傷が私という人間を決めるのではない。これほどまで神に受け入れられているということが、私が誰であるかを決めるのだ。だからこの痛みを手放しても自分は大丈夫だ、22「七の七十倍」でもやり直せる。そう信じることができるのです。神の愛に出会い直して新たな道に進む、この悔い改めの道に生きて行きましょう。

めぐみの森 夏まつり

 当教会付属の「仙台めぐみ幼稚園」は、2011年3月末をもって37年間の働きを閉じましたが、教会の親子の活動は「めぐみの森」活動として継続されています。

 教会学校めぐみの礼拝、中高生の会、こひつじ文庫、親子グループめだか、子育てママの集いわかぎといったそれぞれの働きがつながって、森のような豊かな場になることを願っています。

 このめぐみの森全体のおまつりが25日(土)14:30~16:00に、教会で開かれます。わたあめ・ケーキ・スーパーボールすくい・工作ひろば・めぐみ劇場など楽しいコーナーが用意され、100円のチケットで全コーナーをまわることができます。

 どなたもおいでいただけます。子どもたちに声をかけて、おいでになりませんか。楽しみにお待ちします。

「むなしくは終わらない」

ルカによる福音書 7章1~10節
創世記 1章1~5節

 

 ローマ軍で100人程度の兵卒を指揮する 2「百人隊長」は、一兵卒が昇進していって就くことができる最高の階級であったといいます。 8「権威」そして命令は絶対という軍隊にあって、この 2「百人隊長」は厳しく苦しい経験を重ねてきたことでしょう。それでいて 2「部下」をこのように思いやり、さらには占領統治している 3「ユダヤ人の長老たち」から好意をもたれているのですから、その人格の高さが窺われます。

 が、その彼が自らを 7「ふさわしくない」と言うのです。キーワードは“言葉”(7・8節)です。 8「行け」 8「来い」 8「これをしろ」との軍隊の命令は絶対に果たされても、 2「病気」そして生死にあって自らの言葉はむなしく響かざるを得ないことを彼は噛みしめたのでしょう。そしてむなしくは終わらない言葉をください、と主イエスを依り頼んだのです。

 創世記冒頭の創造物語は 3「光あれ」との神の言葉に 3「こうして、光があった」、さらに与えられた言葉で世界のすべては創造されたと、神の言葉が無から有を生みすべてを成し遂げることを告げています。この神から主イエスは来られ、前章ではその言葉に聞きそして生きなさいと教えられていました(6:46~49)。

 どこかで破れざるを得ない言葉に生きる私たちは、確固たる言葉を必要としています。イザヤ55:8~は、そのような私たち一人一人も神の言葉によって派遣されそれぞれ使命を与えられていると告げています。それは私たちが破れを抱えつつも、それを繕って余りある神の言葉を帯びているということでもあります。