「石も叫び出す」

ルカによる福音書 19章28~40節
ゼカリヤ書 9章9~10節

 

 レント・イースターまで、主イエスのエルサレムでの宣教を振り返りたく思います。9:51以降、ガリラヤからの旅を続けてこられた主イエスと弟子たちは、ついに都エルサレムに到着したのでした。待ち受けていたのは、十字架の受難と死でした(18:31~)。28「イエスは…先に立って進」まれたことに、この最大の使命に自ら進まれたその決意が表されています。

 弟子たちの歓呼の中、主イエスは30「子ろば」に乗ってエルサレムに入城されました。それはこの方が「諸国の民に平和」(ゼカリヤ9:10)をもたらすために来られたことを意味していました。そして高まる賛美の声を押しとどめようとした人々に、この人たちを黙らせても40「石が叫びだす」だろうと主イエスは言われたとあります。

 当教会玄関横に、旧会堂正面に嵌め込まれていた壁石が置かれています。1914年の献堂当初 “DeForest Memorial Church” と刻まれていましたが、戦時中、敵性語を廃すべしとの圧力にあって教会はこの文字を削りました。ですからこれは、平和を求めきれなかった私たちの自戒の石でもあります。そうした思いも込め2007年に説明板を設置した際、平和を求める願いは絶えることなくついには40「石が叫びだす」だろうとのこの言葉を記しました。

 こうして主イエスは平和を求める叫び、賛美の歌声を祝し、ご自身のみ業へと向かわれたのです。このとき30「子ろば」そして40「石」をも用いられた主は、欠けを含む私たちをも祝し導き用いてくださるでしょう。

1月のおたより

 どのようなクリスマス・新年をお過ごしになられたでしょうか。さてこのクリスマスも、当教会にアメリカ・ペンシルバニア州北部ハーフォードの「アメリカ合同教会 第一会衆派教会」からカードが届きました。

 東北教区世界宣教協力委員のジェフリー・メンセンディーク宣教師(現・桜美林大学チャプレン)が、アメリカの教会と東北教区の教会・センターを結び合わせる “クリスマスカード・プロジェクト” を立ち上げて下さり6年になります。今回はアメリカ合同教会・ディサイプル教会に属する38教会と、東北教区の81教会・2センターがカードをやり取りしています。

 今回頂いたカードには「私たちは会合があるごとに、皆さんのために祈っています」とあり、また長文のメッセージが記されています。K姉が訳してくださったので、全文は教会機関紙「カケスだより」の次号に掲載の予定です。お楽しみに。

 当教会からも、クリスマスに撮った集合写真を添えて、近くカードを送ります。

新年礼拝「笑みつつここで歩みなさい」

創世記 26章1~25節
ヨハネによる福音書 17章15~19節

 

 1「イサク」とは、 “彼は笑う” との意味です(21:6)。父アブラハムが、主なる神は大いなる慈しみをもって自分たちの愚かな笑いを(17:17、18:12)を朗らかな笑いへと変えてくださったとこう名づけたのでした。今日の26章には、そのイサクが主人公の物語が記されています。

 彼が住むパレスチナ地方に 1「飢饉」が起こりました。この危機に彼は父がしたように(12:10~)エジプトに避難しようと考えましたが、主はそれを許されませんでした。 3「あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいて…祝福」するとの主の言葉を信じ、イサクは12「その土地に…種を蒔」いたとあります。飢饉に種を蒔く、この無駄と思える業を主は祝して収穫は百倍にもなったのでした。

 すると今度はそれが14「ねた」みの原因となり、周囲のペリシテ人は迫害を加えました。がイサクは争わず、土地を移って繰り返し18・21・22「井戸」を掘ったのです。雨が少ないパレスチナで井戸を掘ることは大変なことですが、イサクと僕たちはこうした労苦を重ねたのでした。

 ここの 1「飢饉」・諍いは、今日の世界・社会にも山積する諸課題を意味していましょう。でも主はそこに留まることを指し示され、イサクは命を守るために12「種を蒔」き18・21・22「井戸」を掘り続けたのです。主はそうした労苦を祝し、ついには 4「地上の諸国民…すべて」の祝福に向けて用いられると約束されました。

 十字架の前の晩に主イエスは弟子たちについて、願いはどこか素晴らしいところへ彼らを連れ去ることではなく、課題ある世に真理によって聖別して遣わすことだと主なる神に祈られました(15~19節)。私たちも主のご計画の内に、それぞれの生へと派遣されています。笑みつつ与えられた場での働きに向かい行く者とされたく願います。

「別の道を通って」

マタイによる福音書 2章7~12節
イザヤ書 7章10~14節

 

 当教会のページェントは、幼子主イエスの降誕に立ち会った者たち全員による “もろびとこぞりて” の合唱で終わります。恐れと悩みを抱える世界と生けるもののために神自らおいでになられた恵みを受け取り、10「喜びにあふれた」のです。

 1:23に引用されたインマヌエル預言が記されたイザヤ7:10~を、併せ開きました。ここには人の罪と、それをも凌駕しゆく主のみ業が記されています。B.C.8世紀シリア・エフライム戦争の危機に際し(2節)、預言者イザヤは主に信頼しての平静を指し示しました(4・11節)。がアハズ王は敬虔を装いつつ、軍事同盟に解決の道を求めたのです(12節)。イザヤはその頑なさを諌めつつ、主がみ業をもって歴史に介入されることを告げたのでした。

 神我らと共にいます14「インマヌエル」の約束は、それから700年後の主イエス降誕において決定的に実現したのです。10「喜びにあふれた」学者たち、羊飼いたちはずっとそこに留まったのではありません。それぞれに課題ある日常へと帰って行きました。学者たちは12「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」、羊飼いたちは「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(ルカ2:20)と記されています。立ち向かう課題がありつつも、み旨をもって導きみ業を顕わされる主が共におられることに喜びと希望を受けとりつつそれぞれの歩みに帰って行ったのです。私たちもまた、クリスマスの喜びから新たな歩みを始められるはずです。

クリスマス礼拝 「恵みと真理とに満ちていた」

ヨハネによる福音書 1章14~18節
出エジプト記 34章4~10節

 

 原初からそしてすべてを在らしめる 1「言」なる 1「神」が14「肉となって、わたしたちの間に宿られた」と、ヨハネ福音書は独特の仕方で降誕を語ります。そしてこの出来事を通して、世界と生けるものは14「恵みと真理とに満ち」た神の栄光を見たのだと告げます。

 14「恵みと真理」、この言葉とほど遠い時代・社会の中に私たちは歩んでいます。一方、聖書は一貫してこの言葉を世界に向けて語り続けています。十戒をモーセを通して授けられた際、主なる神はご自身を 6「慈しみとまことに満ち」る者と告げられました。十戒そして律法は祝福の内に歩むための指針でしたが、民はそれを十分に生きることができず、混乱と悩みを重ねました。それゆえついに主は17「イエス・キリスト」として降誕を遂げられたのです。

 ヨハネ福音書において、この後14・16・17「恵み」との語は現れません。それは主イエスのみ旨とみ業にすべて顕わされているからです。一方14・17「真理」との語は繰り返し現れますが、それらは「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)との宣言そして十字架へと連なっていくのです。

 14「恵みと真理」とは“恵み、すなわち真理”との意味です。世界と生けるものが祝福の内に生きるべく、主なる神が古えから今日に至るまで私たちを呼び続け、ついには降誕そして十字架にまで降られた恵みに真理が顕わされているのです。

2018 クリスマスメッセージ

 上の絵は、ルネサンス期フィレンツェ派の代表的画家S.ボッティチェリの「東方三博士の礼拝」(部分)です。救い主イエスの誕生に、東方からの博士らと従者たちが礼拝に訪れた場面を描いています。最年長の博士が幼な子イエスを拝し、二人が宝物を捧げています。

 この絵には、制作された15世紀当時の実在人物が多数描かれていることで有名です。博士らはフィレンツェのメディチ家の親子であり、上の絵には載っていませんが外側にはこの絵の依頼者ラーマとその家族、さらにはボッティチェリ自身の姿もあります。

 依頼主などの姿を描き込むことは絵画の世界ではしばしば行われることですが、ここには加えてのメッセージがあるように思います。すなわち救い主イエスの降誕は、時代を越えて全ての人々に与えられた喜びであるからです。降誕に際し、近くで野宿をしていた羊飼いたちは天使から「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げられたと福音書にあります。この喜びの告知は羊飼いと共に、この物語を共にしているあなたにも与えられたのだと福音書は語りかけています。

 平和と希望を実現するために、神ご自身が一人の幼な子となることを選びとってこの世界そしてあなたの許へ来られた、これが降誕の出来事です。今を生きる私たちもこの恵みに招かれていることを知り、喜びを分かち合う輪に加わりたく願います。

「パンの家」

マタイによる福音書 2章1~8節
ミカ書 5章1節

 

 1「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」、この章の書き出しに著者マタイはメッセージを込めています。

 1「ヘロデ王」とは、ローマ帝国を後ろ盾にユダヤ地方を治めたヘロデ大王(B.C.37~4在位)です。エルサレム神殿の大改修やマサダ要塞構築などの業績で知られる一方、自らの権力を守るために多くの政敵や危険分子を抹殺しました。その中には妻と二人の子も含まれています。 1「ヘロデ王の時代」とは、そのような力が支配する不安と恐れの時代でした。

 1「ベツレヘム」とは “パンの家” という意味です。その名の通り肥沃な土地であり、ルツが落ち穂拾いをしてボアズと結ばれた地として記憶されています(ルツ2:1~)。二人の曾孫がダビデであり、やがてキリストはこの地から出ると預言されるに至りました(ミカ5:1、マタイ2:6)。

 「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える」(詩104:15)。本来享受すべきこうした恵みを分かち合えない時代に、主イエスは幼な子としておいでになりました。後に主は「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(ヨハネ6:51)と言われました。世と生けるものを恐れから解放し、神の祝福へと導き帰すために主は降誕を遂げられたのです。 1「小さき」町ベツレヘムの名は、その使命と響き合っています。

12月のおたより

 12月2日の礼拝で、讃美歌 “だから今日、希望がある” のことを紹介し、アルゼンチン・タンゴの曲調にのせて歌われている原曲も流して耳を傾けました。

 この元の動画で歌って会衆をリードしているのが作詞者のフェデリコ ・ J ・ パグーラ牧師、ピアノを弾いているのが作曲者のオメロ ・ ペレーラ氏であることを、日本語訳詞者の松本敏之牧師から教えて頂きました。2009年8月にもたれたアルゼンチン・メソジスト教会の集会で収録されたものとのことです。

 パグーラ牧師の力強いリードに、会衆が歌声そして思いを合わせている印象深い讃美歌です。ぜひ上のリンクを開いてみてください。

 下に日本語の歌詞を載せておきます。一緒に歌うこともできますね。

 

1. 主が貧しい馬小屋で お生まれになられたから
  この世界のただ中で 栄光、示されたから
  主が暗い夜を照らし 沈黙、破られたから
  固い心、解き放ち 愛の種、まかれたから
(くりかえし)
 だから今日、希望がある
 だから恐れずたたかう
 貧しい者の未来を 信じて歩み始める
 だから今日、希望がある
 だから恐れずたたかう
 貧しい者の未来を 信じて

2. 主がおごる者をちらし 高ぶる者を低くし
  小さく貧しい者を 引き上げ、ほめられたから
  主が私たちのために その罪と咎を背負い
  苦しみと痛みを受け 十字架で死なれたから
(くりかえし)

3. 主がよみがえられたから 死を打ち破られたから
  もう何も主の御国を さえぎることはできない
(くりかえし)

 

「もとの牧場に帰らせる」

エレミヤ書 23章1~6節
マタイによる福音書 18章10~14節

 

 南王国ユダの滅亡とバビロン捕囚の後、エレミヤが語った預言です。 1「災いだ」と処断されている 1「牧者たち」とは、王国末期の王たちのことです。正義を行わず私欲に走った彼らの姿は(22:13~30)、主を忘れ目先の利益・安定を求め続けたイスラエルの罪の象徴でした。こうした牧者たちを廃し、 3「このわたしが…羊を…もとの牧場に帰らせる」と主は宣言されたのでした。

 直接には、およそ半世紀後捕囚からの解放そして故国への帰還を実現された主のみ業の預言と解せます。のみならず、世界と生けるものの 6「救い」のため主自ら降られた降誕の出来事が指し示されていましょう。

 5「正義と恵みの業」とは正しくふるまうことにとどまらず、愛と真実をもって迷い誤った者をもついには正しい関係へと導き帰されるみ業を指しています。私たちにも向けられたこの主のみ旨を、主イエスは迷い出た一匹の羊を捜す牧者の譬で語られました(マタイ18:10~14)。

 この真の牧者が連れ帰られる 3「もとの牧場」とは、創造の原初に主が被造物に与えられた祝福のあり様です。課題と悩みを抱える世界と生けるものを祝福と平和に連れ帰るべく主は降誕を遂げられ、今も働いておられることを仰ぎましょう。