「神の国の価値観」

ルカによる福音書 14章7~14節
箴言 15章15~17節

 10「招待を受けたら…末席に行って座りなさい。そうすると…面目を施すことになる。」というのは、今日の日本でも有効な処世術かと思います。ただ謙遜を演じるにせよ 7「上席を選ぶ」にせよ、私は価値ある人間だとの値踏みがある訳です。

 主イエスはそうした処世訓を教えておられるわけではありません。世間が見るところと神がご覧になるところは異なるということ、この世と15「神の国」の価値観は合致しないということです。

 さて主イエスはなぜこの宴席におられたのか、どうも 1「安息日」にどう振舞われるかを窺おうとの 1「ファイサイ派」の意図があったようです(1節~)。あなたがたは喜びを分かち合おうとの場になぜ企みを忍ばせ、12「お返し」を求めるのかと主イエスは問われつつ、すべてをご存じの神の前に素直であり、他者の前に謙遜でありなさいと諭されたのでした。

 1874(明治7)年、新島襄はヴァーモント州ラットランドでのアメリカン・ボード年会で帰国の挨拶に立ち、日本にキリスト教主義学校を創りたいと訴えました。これに応じて1000ドルを筆頭に多数の寄付の声が上がり、これが翌年の同志社創立につながりました。中でも老農夫が帰りの汽車賃2ドルを、老寡婦が貧しいけれども教育のためにと2ドルを捧げてくれたことのが最も私を感動させたと、新島は第1回卒業式に際し振り返っています。

 互いを較べることを尺度とするこの世の価値観から解放され、真実なる神のまなざしの前に生きる自由と喜びを求めなさい、と主イエスは教えられました。神の国の価値観がこの世に歩む私たちを解放し自由にしてくれる、不思議ですが本当のことです。

めぐみの森 夏まつり

 当教会付属の「仙台めぐみ幼稚園」は、2011年3月末をもって37年間の働きを閉じましたが、教会の親子の活動は「めぐみの森」活動として継続されています。

 教会学校めぐみの礼拝、中高生の会、こひつじ文庫、親子グループめだかといったそれぞれの働きがつながって、森のような豊かな場になることを願っています。

 このめぐみの森全体のおまつりが8月24日(土)14:30~16:00に、教会で開かれます。わたあめ・ケーキ・スーパーボールすくい・工作ひろば・めぐみ劇場など楽しいコーナーが用意され、100円のチケットで全コーナーをまわることができます。

 どなたもおいでいただけます。子どもたちに声をかけて、おいでになりませんか。楽しみにお待ちします。

8月のおたより

 暑い夏となりました。それぞれにまもりを祈ります。

 さて「1月のおたより」で、昨年のクリスマスもアメリカ・ペンシルバニア州北部ハーフォードの「アメリカ合同教会 第一会衆派教会」からカードが届いたことをお知らせしました。

 東北教区世界宣教協力委員会の働き“クリスマスカード・プロジェクト”で、アメリカの教会と東北教区の教会・センターが互いを覚え、毎年カードををやり取りしていることによるものです。

 昨年から、当教会からは「暑中見舞いカード」としてこれを送っています。今年の聖句として「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」のイザヤ書2章4~5節を選び、今年の平和七夕の写真・説明を添えました。また4月に行った「観梅会」の写真を同封して送りました。

 ハーフォードの皆さんはどんな思いで、カードを眺めてくださるでしょうか。共なる主にあるきずなに感謝します。

「大きく成長する」

ルカによる福音書 13章18~21節
申命記 7章6~8節

 

 19「からし種」の実物を神学部の図書室で見たことがあります。ケースに収められていなければ、鼻息で見失ってしまうような微小な種でした。が、蒔かれればそれは背丈を越えるほどに大きく成長するのです。

 21「パン種」はパン生地を発酵させるため、麦粉に加えられた酵母入りの捏ね粉のことです。20「3サトンの粉」とは実に約40 ℓという量です。混ぜられる21「パン種」はわずかでも生地を大きく膨らませ、約150人分のパンが焼き上がるのです。これは祭りや婚礼の際の描写でしょう。多くの者がパンを分かち合い、その喜びに与ったのです。

 19「からし種」21「パン種」は、取るに足りないと見えるものを指しています。18「そこで」とあるように、この譬は長年腰の曲がりに苦しんでいた女性が癒された場で語られました(10節~)。律法を優先させて会堂長が怒ったように、この女性の癒しなど小さなことだと映ったのでしょう。が、ここに18「神の国」=神の祝福は実現したのであり、その恵みと喜びは人の思いを超えて大きく成長してゆくのだと主イエスは指し示されました。

 イスラエルがなぜ主の 6「宝の民」とされたのか、それは 7「どの民よりも貧弱であった」からだとモーセは出エジプトの民に告げました。主はその 8「愛」をもって取るに足りないものに目をとめ、そのみ業を顕わされるのです。私たちが関わる多くは、取るに足りなく見えることかもしれません。私たち自身小さなものかもしれません。でも主はそこに目をとめられみ業を顕わし、神の国の喜びへと導かれるのです。この恵みを仰ぐ眼差し・思いを与えられたく願います。

平和主日礼拝 「和解をもたらすため」

コリントの信徒への手紙 二 5章16~21節
詩編 122編1~9節

 

 先月6日間にわたって開かれた台湾基督長老教会の青年修養会に、会津から8名の高校生が参加しました。最終日、派遣礼拝でなされた“愛餐”では、ぶどう酒とパンに代えてお茶とバナナが分かち合われたのだそうです。これらは台湾の重要な産物ながら、ヨーロッパ各国が台湾支配を目論み日本が植民地支配した時代に栽培が進められた歴史の痛みのしるしでもあります。一方日本も戦争で原爆被爆という大きな痛みを負った、互いの痛みを振り返り分かち合おう、そして十字架を引き受けられた主イエスがこれらの痛みを共にしてくださっていることを味わおう、と司式者は語られたとのことでした。大きな感銘を受けたと、引率された新田恭平牧師(猪苗代教会)が報告してくださいました。

 今日の個所で伝道者パウロは、キリストの十字架とは19「世」が神との18「和解」を与えられた出来事であったと広い視点でその意義を語ります。そしてその20「和解」の大いなる恵みに与る者はその業に連帯し(15・17節)、それぞれの場において18「和解のために奉仕する任務」に向かうのだと呼びかけています。

 詩122編はエルサレム巡礼に寄せて、孤立・分断に平和がもたらされる喜びを素朴に歌っています。一緒に行こうと呼びかけられたうれしさは、兄弟・友・人々の平和への祈りにつながっていきます。人は共に生きるべく創られた(創2:18)、その原初の喜びへと世界と私たちを呼び返すべくキリストはこの世に降り立たれ、十字架を負われました。その出来事は、今を生きる私たちの歩みにも及ぶものであることを味わいたく思います。

「もう一人の放蕩息子」

ルカによる福音書 15章25~32節
創世記 4章1~16節

 

 先々週は放蕩息子の譬を開いて、出奔そして帰還した弟に目を留めました。この譬には続いて兄が登場します。不始末をしでかして帰った弟を無条件に迎え入れ祝宴まで開いて喜ぶ父に、兄は怒りを表しました。

 兄の言い分はこうです。29「わたしは何年も…仕えて」真面目に働いてきた。この正しい私が報いを受けたこともないのに、なぜ道を誤ったあの弟が祝われるのだ。いや兄は弟とすら言わず、30「あなたのあの息子」と呼んでいます。あなたとも弟とも関係なく、私は自らの正しさで立っていけるとの自負を表すかのようです。

 弟は誤りましたが、17「我に返」り父の大いなる熱情を知りました。兄は父の許に居つつも、その思いを理解してはいませんでした。いわば二人ともが放蕩息子だったのです。

 父親は、あれは32「お前の…弟」ではないか、その喜びを共に分かち合おうとこの放蕩息子をも招いたのでした。

 創造物語で、罪という大きなズレを抱え込んだ人間に主は 7「お前はそれを支配せねばならない」と告げました。が、兄カインはその力に負けて弟アベルを殺してしまいます。神の熱情は招きと受容として私たちに注がれますが、人の熱情は時に罪を暴走させることとなります。

 9「お前の弟アベルは、どこにいるのか」との主の言葉は、広く受け止めれば“お前の隣人はどこにいるのか”との問いかけです。私たちは自らの正しさにおいて、罪を支配することはできません。主なる神の招きと受け入れを知り、互いの足りなさを補い合う隣人と喜びを悲しみを分かち合うことだと指し示されています。

「刈り入れまで育つままに」

マタイによる福音書 13章24~30節
イザヤ書 11章6~10節

 

 8「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」、32「どんな種より小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり」と24「天の国」の喜ばしい伸長を語る譬の中に、今日の25「毒麦」の譬え話が置かれています。でも、世には悪や課題も多々あるではないか、との声を予想してかのようです。

 喜びの収穫を待つ小麦畑にいつの間にか25「毒麦」が蒔かれていた、というのです。36節~にこの譬え話の説明があり、38「畑は世界」39「毒麦を蒔いた敵は悪魔」39「刈り入れは世の終わりのこと」とあります。

 僕は28「抜き集め」ましょうと憤りましたが、主人は29「麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで…育つままにしておきなさい」と言うのです。これこそ悪だと断じ取り除こうとの業が対立の壁を築きついには戦いとなり自滅する、それこそ悪魔の狙うところであるからです(エフェソ6:12)。

 確かに、み旨に逆らう悪があり課題があります。でも世界は神の慈しみと忍耐のまなざしの内にあり、30「刈り入れの時」には神ご自身による厳正な判断が下される、このことを信頼して歩めと告げられています。

 共にした交読に、「わたしたちの救いの神よ。あなたの恐るべき御業が、わたしたちへのふさわしい答えでありますように。」とありました(詩65:6)。世界は相争って厳しい裁きを招き寄せるのか、あるいは何とか神の慈しみと期待に応えその時を迎え得るのか、この詩のそうした問いそして祈りに思いを重ねます。

7月のおたより

 当教会礼拝堂には、東勝山への移転後間もなく、ドイツ・シュッケ社のパイプオルガンが設置されました。仙台の教会の中では、早い設置だったと聞いています。楽器はそれほど大きなものではありませんが、礼拝堂の音響とよくマッチしてたいへんよく響きます。2005年には数週をかけてオーバーホールをし、設置当初の音が蘇りました。

 毎週の礼拝での奏楽・賛美でいつも馴染んでいる音色ながら、間近でオルガンに接する機会は教会員でもそうありません。そんなわけで6月23日の礼拝前、「オルガン室探訪」が企画されました。2階ファザード内部に入り、オルガンを見上げ、音色に親しみ、オルガニストからその仕組みと奏法について説明を受けました。一同、熱心な視線が集まりました。

 また、こうした機会をもってみたいですね。その際はどうぞご参加を。

「財産を分けてやった」

ルカによる福音書 15章11~24節
創世記 3章1~11節

 

 先々週、神の国での宴会の譬え(14:15~)は神の熱情を示しており、それは今日共にした放蕩息子の話をはじめこの章にある譬えでさらに具体的に説かれていると言いました。

 息子が言った12「財産の分け前」とは、父の死後の相続分という意味です。なんと厚かましい要求にも拘らず、12「父親は…財産を分けてやった」のでした。またこの息子が身を持ち崩して帰って来たとき、その窮状をわが身のことのように感じ両手を広げて迎え入れました。この父親は甘すぎるのではないか、あるいはそう思われるかもしれません。

 手にした多大の12「財産」の中で最も大いなるものは “自由” であったことを、息子は帰還後に噛みしめたでしょう。19「雇い人の一人にしてください」と求められながらも、変わることなく自由な24「息子」としてこの父親は迎え入れたのです。

 創世記の堕罪物語で人が禁断の木の実に手を伸ばしたとき、神は何をしていたのでしょう。こうなるかもしれないと知りつつも、押しとどめようとはされなかった、それは自由こそ奪われてはならない尊い12「財産」だったからです。

 人は自由の濫用によって楽園を追われ、その子たちは殺人に走りました(創4章)。譬え話の息子は身を持ち崩しました。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)との言葉の重さを私たちは知らねばなりません。あなたに託された自由を奪われてはならない、命の源なる私の許に帰ってくるまでその自由をとり用い喜ばしく進み行きなさいと主は呼びかけておられます。