「賜物としての食物」

マルコによる福音書 7章14~23節
コヘレトの言葉 9章7節

 

 マルコ 7章には、 1「ファリサイ派の人々と…律法学者たち」と主イエスとが激しく対立したことが記されています。事は、何をどう食べるかについてのユダヤ人の慣わしをめぐってでした。主イエスはこれらが10「モーセ」の律法に遡ることを認めつつも、ファリサイ派らがそれらを私物化し他者を貶めていると厳しく戒められました。次いで食べ物は19「人の心の中に…ではなく、腹の中に入」るのだから、人を汚し得ないのだと主イエスは宣言されたのでした。

 コヘレトの言葉は人生の空しさを様々な角度から論じ続ける特異な書物ですが、神の恵みのもとに食べることについてはこれを讃えています(2:24、3:13、5:17、8:15)。そして、 7「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。」と呼びかけるのです。但し貪欲や不公正なあり方は退けられており、(5:11・16、10:16)、食べることがいずれも神の祝福と結びあわされていることに留意すべきでしょう。

 今日私たちは飢餓と飽食、さらには食物の極端な商品化の時代に生きています。食物の基礎である“種”は今、一代しか収穫できないF1種が主流となり、遺伝子組み換えがなされ、一部企業による寡占化が進んでいます。日本では今年これに迎合するように、原種を都道府県が大切に管理するという “種子法” が廃止されてしまいました。

 食物は神の祝福・賜物であり共々に分かち合うべきものとの聖書のメッセージは私たちの生き方の指針であると共に、今日の世界に対する警告でもあります。主イエスは20「人から出てくるものこそ、人を汚す」と言われました。神の祝福をも侮り変質させていく人の罪・世の罪を警戒せねばなりません。

8月のおたより

 梅雨のはじめの頃には蒸し暑かった仙台ですが、ここにきて涼しい(寒い?)日が続いています。お米をはじめ、農作物への影響が心配です。

 さてそんな中ではありますが、こども活動「めぐみの森」は今年も「夏まつり」を開催します。26日(土)14:30~16:00、わたあめ・ジュース・ケーキ・スーパーボールすくい・工作コーナー・めぐみ劇場などなど楽しいコーナーが用意され、100円のチケットで全コーナーをまわることができます。ホール内で行いますので、雨でも心配ありません。

 この8月中旬から、園舎改築中の共同保育所「ちろりん村」さんが一時的に越してきて教会内で日々の保育を行っています。来年3月までの予定です。この子どもたちやおうちの方も来ていただけるとうれしいですね。どなたもおいでいただけます。おいでになりませんか。楽しみにお待ちします。

過去の夏まつりから

「通り過ぎられる主イエス」

マルコによる福音書 6章45~52節
出エジプト記 33章18~23節

 

 五つのパンと二匹の魚とで五千人以上を養われた(30~44節)後、主イエスは弟子たちと別行動をとられました。使徒たちの派遣(7~13節)に続き、やがては彼らだけで宣教しゆく時を見据えて訓練をしているようにも見えます。

 しかし漕ぎ出した舟は48「逆風」に阻まれ、弟子たちは苦闘していました。ご覧になった主イエスは48「湖の上を歩いて」そこにおいでになりつつ、48「そばを通り過ぎようとされた」というのです。一方、弟子たちは主イエスを見誤り幽霊だと恐れたのでした。

 旧約には、主が通り過ぎられたと記された箇所があります(出33:18~、王上19:9~)。モーセ・エリヤがいずれも窮地にあった時、主はすぐそばを通り過ぎることでその臨在を示され、彼らを立ちあがらせたのでした。

 その後、主イエスは50「わたしだ」と弟子たちを励まされました。これは十字架への捕縛において「わたしである」(ヨハネ18:5・6・8)と宣言されたときの言葉と同じであり、さらには主なる神がモーセに「わたしはある」(出3:14)とご自身を顕わされたことに重なります。

 主イエスの昇天の後、自らだけで歩み出した弟子たちは逆境に立たされた時、この出来事を思い出したのではないでしょうか。怖じ惑いそうになるときも主は近くにおられ、御業を顕わしてくださると。この主の臨在に導かれ励まされ、代々の信仰者たちはそれぞれの時代を漕ぎ進んでいったのです。

平和主日礼拝 「平和をつくり出す人」

エフェソの信徒への手紙 2章14~22節
エゼキエル書 22章23~30節

 

 主イエスは「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」(マタイ5:9、口語訳)と教えられました。しかし“積極的平和主義”といった言葉のもと軍事力が展開されるような今日にあって、語られる“平和”の意味は一様ではありません。主はこの言葉で何を指し示されたのでしょうか。

 英訳聖書はここに“peacemaker”との語を充てています。辞書を開くと、“調停者、仲裁人”とあります。旧約には、神と民との間で調停をしようとした人物が出てきます。アブラハムはソドムとゴモラのために「あなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」(創18:23)と食い下がりました。出エジプトの指導者モーセも、過ちを犯した民もまた「あなたの民」(出33:13)なのですと旅路に同行を求めました。

 一方、今日開いたエゼキエル22:23~では、主が30「石垣の破れ口に立つ者を…探し求めた」とあります。B.C.6世紀、不正・強奪・抑圧が横行する南王国ユダにあって、その30「破れ口に立」って繕う者を求めたけれども30「見いだすことができなかった」のでした。こうして主の31「憤り」が下り、国は滅亡、民は捕囚に囚われていくことになります。2500年前のこの警告は、今日私たちのの世界にも向けられているのではないでしょうか。

 人と人のそして人と神の破れ口に立ち続け、ついに十字架へと登られたのが主イエスです。その業によって14「敵意という隔ての壁」は砕かれ、人と人がまた人と神が共に生きる道が拓かれたのだと告げられています。伝道者パウロはこの主に出会って、当時のユダヤ人と異邦人の破れ口に立ち橋を架ける働きに生涯を捧げました(Ⅱコリント5:18~等)。今日も様々なところに破れ口があります。そこに立ち、執り成そうとする者を主は探しておられる、その者には主イエスに連なる祝福が共にあるのだと呼びかけられています。

「十二の籠にいっぱいになった」

マルコによる福音書 6章30~44節
申命記 24章19~22節

 

 神の国の宣教へと派遣された30「使徒たち」が帰ってきたとき、主イエスはご自身のように(1:35)31「人里離れた所」で祈り休息をとるように促されました。が、人々はなおも一行について来たのでした。その数は44「五千人」以上だったといいます。

 こうした人々の求め、そして34「飼い主のいない羊のような有様」を主イエスは34「深く憐れ」まれ、再び働かれたのでした。やがて時も経ち、今日はもう終わりにしましょうと言う弟子たちに、主イエスは皆の食事を整えるよう求められたのです。

 41「五つのパンと二匹の魚」しかありませんでした。でも主イエスによってこれが分かたれたとき、42「すべての人が食べて満腹し」さらに屑と残りは43「十二の籠にいっぱいになった」のでした。神の国を思わせる祝福、そして分かち合いでした。それは、前段のヘロデの21「宴会」と並べると一層明らかです。主イエスの許では、誰もが分け隔てなく喜びにあずかったのです。

 これは世では味わえない遠い出来事なのでしょうか。いや、これはあなたがたが見聞きしていることなのだと主イエスは言われます(ルカ7:22)。今年42回目を数える平和七夕、被災者支援センター・エマオに集った8500人を超えるボランティア…と、私たちはその時々に神の国にも連なる不思議・恵みを味わっています。

 43「十二の籠」の分はいなかった人へと、さらに分かたれたことでしょう。これは尽きることのない神の恵みと、その分かち合いに加わりなさいとの私たちへの招きを意味しています。

「杖一本のほか何も持たず」

マルコによる福音書 6章6~13節
創世記 32章10~11節

 

 ガリラヤで神の国を宣べ伝えておられた主イエスは、使徒たち 7「十二人」をもその働きに派遣されました。その際 7「旅には杖一本のほか何も持」つなとあることは、マタイ・ルカ福音書の並行箇所で一切持って行ってはいけない(マタイ10:9~、ルカ9:3)と語られていることと較べると示唆的です。

 イスラエルはもともと遊牧民であり、杖は長旅を支え羊たちを守るため欠かせぬ道具でした。今日開いた旧約の箇所でヤコブは自らが辿ってきた旅を振り返り、11「かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は、二組の陣営を持つまでになりました」と神に祈っています。これは、かつて旅に出たときに彼がなした「神が私と共におられ、私が歩むこの旅路を守」ってくださいとの祈り(28:20~)と呼応しています。身一つで家を出、紆余曲折を辿りつつ、家族・財産をも得るに至ったこれまでの神の導き・守りを指して、彼は11「一本の杖」と言ったのです。ヘブライ11:21は、「ヤコブは死に臨んで…杖の先によりかかって神を礼拝し」たとの言葉で、彼の生涯を振り返っています。

 主イエスは、あなたに伴う神の導き・守りにこそ信頼せよと弟子たちを出発させたのではなかったでしょうか。ほとんど何も持たずに旅立てば、行く先々で人々の世話になることになります。使徒たちは神に導かれ伴われつつ他者と出会いを信頼を愛情を結び、神の国の喜びを分かち合いました。そしてこの旅路は、代々の神を仰ぐ者たちによって受け継がれ、今日に至っています。

7月のおたより

 今年3月、日本キリスト教団主催で「国際青年会議 in 京都」が開かれました。これは、2014年に開かれた「東日本大震災国際会議」の宣言文に述べられていた“若い世代の人々がこの問題を担い、リーダーシップを発揮できるよう努めます”の実現として開かれたものです。

 今回、海外11カ国から20名、国内から約50名の青年が集い、「エネルギー持続可能社会の実現を目指して」をテーマに4日間、熱心に語り合いました。冒頭の講演とプレゼンテーションは一般公開で行われ、約300名が耳を傾けました。会議の内容は、公式フェイスブック(https://www.facebook.com/uccj.kyoto/)で公開されています。

 青年たち自身がまとめたステートメントには、信仰に立ち、世界的広がりをもって、今日の原子力・放射能の問題に取り組むとの決意が述べられています。このたび、日本語・英語併記の報告書が作成され、当教会をはじめ教団の諸教会・伝道所に届けられました。興味のある方は、教団事務局にお問い合わせください。このことにより、今回の成果が世界の教会に広く共有され、次の一歩を刻む力となることを願います。

「立ち留まり憐れまれる方」

マルコによる福音書 5章21~43節
哀歌 3章22~33節

 

 今日の箇所では、違った状況に置かれた二人の癒しが組み合わされて語られています(マタイ9:18~、ルカ8:40~)。主イエスと共に死にそうな23「幼い娘」娘の許へと急ぐ22「会堂長…ヤイロ」でしたが、そこに25「十二年間も出血の止まらない女」が現れ主イエスは立ち留まるのです。父親ヤイロは気を揉んだことでしょう。やがて、娘の死を告げる知らせが届いたのです。が、主イエスは36「恐れることはない。ただ信じなさい。」と呼びかけられたのでした。

 優先すべきはどちらか。私たちもそのような惑いの中に日々を歩み、後悔することもしばしばです。主イエスは小さな者の求めに立ち留まられる、このことは破れある私たちへの慰めです。

 女性が癒された時、主イエスは30「自分の内から力が出ていった」と感じられたとあります。先日参加した東日本同信伝道会研修会で、マタイ9:36をめぐる神学者K.バルトの理解に触れました。ここの「深く憐れまれた」(スプランクニゾマイ)とは主イエスが群衆の苦しみをわが身に引き受けられたということであり、同じ言葉はマルコ6:34で五千人の給食の箇所にも出てきます。主イエスは十字架へ進まれるその犠牲をもって、私たちを悲惨から祝福へと導かれるのです。

 その憐れみをもって、主イエスは少女を死から起こされました。この御業の背後にも、主の十字架の犠牲があることを読み取るべきです。哀歌3章に、主の23「真実は…深」く、32「慈しみは深」い、23「それは朝ごとに新たになる」と歌われています。私たちは破れまた死から逃れ得ませんが、主の真実・憐れみはそれらを超えて深く大きく、この大いなる恵みが私たちを日々歩ませ行くのです。

「名はレギオン」

マルコによる福音書 5章1~20節
出エジプト記 33章12~17節

 

 「向こう岸に渡ろう」(4:35)と嵐のガリラヤ湖を渡って主イエスがやって来られたのは、この地にも主の救いを必要とする一人がいたからでした。 2「汚れた霊」に支配され激しく苦しみ、共同体からも見放されていた 3「この人」に主イエスは近づかれ呼びかけられました、 9「名は何というのか」。すると代わって悪霊が返事をしたのです、 9「名はレギオン」。

 ここには著しい対比があります。 9「レギオン」とは、6000人から成る軍団の名であるからです。 9「名」はその人の個性・人格を表します。一方、そうした個々人を記号化し数量化して目的のために利用するのが軍隊です。

 主イエスは 7「いと高き神の子」としてこの軍団にも比すべき悪霊を追い出す力を顕わされつつ、小さな一人に向き合おうとされるのです。

 今日の旧約には、主が出エジプトの指導者モーセを17「名指しで選んだ」とあります。主は圧倒的な18「栄光」を帯びる方でありつつ、私たちの名を呼び向き合われる方であることがここに示されています。

 一方、村人がこの一人の解放を共に喜ぶことができなかったことに(17節)、世もまた真に自由ではなく悪しき力に影響され縛られていることが示されています。世を自由と喜びへと解放される十字架と復活の主の働きは、今もなお続いていることを仰ぎます。