「造られたものは」

詩編 148編1~14節
ローマの信徒への手紙 5章6~11節

 

 讃美歌223 “造られたものは” は、清貧に生きたアシジの聖フランシスコ(1181 ? – 1226)が死の前年に作ったといわれる詩 Laudato si’,mi Signor (被造物の賛歌) を元にした讃美歌です。現在の歌詞はだいぶ改変されていますが、原詩では太陽・月・星・風・空気・水・火・大地、さらには死までが “兄弟姉妹” と呼びかけられ、人々そして私と共に主に感謝し賛美すると歌われています。

 この聖人の名を受け継いだ教皇フランシスコは、2015年に環境問題を論じた回勅 Laudato si’ を発表しました。人間と “兄弟姉妹” 共通の家である地球・世界が今や蹂躙されて苦しんでおり、その保全のため歩む方向を変える “環境的回心” が必要と訴え、そのための具体的方策が論じられています。環境問題に踏み込んだ初めての回勅としてそのメッセージは、キリスト教界そして社会に徐々に影響を及ぼしつつあります。

 詩148編は 1「天」から 7「地」に降りてくる仕方で数々の被造物が数えられ、「主を賛美せよ」と呼びかけられています。 5「すべてのもの」は 5「主」によって 5「創造された」兄弟姉妹として覚えられています。

 「地を従わせよ。…生き物をすべて支配せよ。」(創1:28)とのみ言葉は、時に人間が世界の主人であるとも理解されてきました。が、人間は “神” “他者” “被造世界” に対する責任を与えられているのであり、それを地上で顕わされたのが主イエス・キリストであると Laudato si’ では述べられています。

 併せ開いたローマ5章で指し示されている十字架の 8「愛」、もたらされた10「和解」も、人間のみならず被造物全体への9・10「救」いの出来事だと受け止められましょう。思えば、降誕が家畜小屋においてであったことがそのことを示唆しています(ルカ2:12)。

「主なるイエス・キリスト」

エレミヤ書 23章5~8節
フィリピの信徒への手紙 2章6~11節

 

 10月22日即位礼正殿の儀が行われて新天皇の即位が内外に宣言され、11月14~15日には皇室祭祀として大嘗祭が執り行われました。祭祀の詳細は明らかにされていませんが、新天皇が皇祖たる神に捧げた食物を共に食べ同衾することで “現人神(あきつみかみ)” となるのだとされています。すなわち代替わりの中心には、天皇が神となることが置かれているのです。

 これは、“神のみを神とし、神以外のものを神としない” とのキリスト教信仰からは容認し得ないことです。11「イエス・キリストは主である」との告白は信仰の内的確信を表すと共に、ローマ皇帝や異教の神々への礼拝が求められる当時の状況下での拒絶の表明をも意味していました。そこには信仰の戦いがあったのでした。

 その告白に先立ち、キリストは10「天上のもの、地上のもの、地下のもの」すべての救いのため世へと降下・受肉された方であり、それゆえ栄光へと挙げられたとの賛歌が置かれ、その慈しみの深さ広さが讃えられています。そうした方を私たちは11「主」と告白するのです。比して、近代天皇制形成の過程で創建された靖国神社が天皇に帰順した者だけを祀ることに示されているように、天皇制が果たす統合には選別と排除が伴っていることを指摘せざるを得ません。

 亡国と捕囚の苦難の只中でエレミヤは、やがて主が 8「子孫を…追いやられた国々から導き上り、帰らせ」る時が来る、そのとき民は 8「主は生きておられる」と告白するに到る、と預言しました。私たちも、過去に救いを遂げられた方を記念し礼拝しているのではありません。今も生きて私たちを支え導かれる方に出会う中で、11「イエス・キリストは主である」との告白に導かれゆくことを思います。

「神の国を仰ぎ見つつ」

列王記下 6章15~23節
ルカによる福音書 11章14~20節

 

 15「ああ…どうすればいいのですか」、敵軍に包囲されてうろたえる従者の言葉は、目に見えるところに縛られてしまう私たちのあり様に重なります。しかし預言者エリシャは16「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が…多い」と彼の目を開き、背後にいる天の軍勢を見せたのでした。さらに敵軍の目をくらまし、また開いて、ついには戦いを平和裏に解決してしまいました。19「これはあなたたちの行く道ではない」とは、目に見える現実に縛られて争いを際限なく続ける世と人間に対する主なる神からの警句かと思います。

 15「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と非難されたとき、それでは18「内輪もめ」だ、悪霊で悪霊は追い出せないと主イエスは答えられました。悪しき力に悪しき力で対抗することは怨讐の連鎖を生み、ついには破滅に至ると主は教えられたのです。M.L.キング牧師はある説教において、“暗黒は暗黒を駆逐することはできず、ただ光だけができる” と語っています。

 希望と平和に至る光はどこから来るのでしょう。主イエスは20「神の指」によって悪しき力からの解放が訪れたなら、20「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と告げられました。肉の目には見えずとも、この世と生けるものは神の憐れみと恵みによって支えられ、この今も生ける働きによって導かれているのです。この真実そしてその導きの先にある神の国=大いなる祝福を仰ぎ見るまなざしを与えられるとき、目に見える現実と恐れを乗り越える道筋と歩み行く力が与えられるでしょう。

11月のおたより

 主のご降誕を記念するクリスマスが近づいてきました。今年も、12月21日の「こどもクリスマス」・24日の「イブ礼拝」にページェント(聖誕劇)を行います。ページェントとはもともとページをめくるように進む劇や行列を意味し、クリスマスに演じられるイエスさまのお誕生の物語がこう呼ばれるようになりました。

 マリアとヨセフ、宿屋さん、救い主誕生を知らせた天使、告知を受けた羊飼いと羊たち、不思議に輝いた大きな星、その星に導かれ宝物を捧げにやって来た博士たち…、そうした役を割り振ってみんなで劇をつくりあげます。

 最近は、教会学校に集う子どもたちが少なくて、大人も出演して行っています。あなたもいかがですか?。実際に演じてみると理解も思いも深まって、なかなかいいものですよ。

収穫感謝合同礼拝 「ちょうど良い食べ物」

出エジプト記 16章13~18節

 

 出エジプトを果たし約束の地に入るまで40年の荒野の旅を続けた民を、主は13「うずら」と天からのパンをもって養われました。15「これは一体何だろう」との言葉、“マナ” がそのままその名になりました。朝ごとに地表を大地の霜のように覆った(14節)マナは、31「コエンドロの種ににて白く、蜜の入ったウエファースのような味がした」とあります。一説には、ぎょりゅうという木につく虫の分泌物だとも言われます。

 マナは不思議な食べ物でした。主が16「それぞれ必要な分…を集めよ」と命じられた通り、18「多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく」ちょうど良かったのです。欲張りが20「翌朝まで残して」おいても、20「虫が付いて臭く」なり食べられなかったのに、安息日のため残しておいた分は24「臭くならず、虫も付かなかった」のでした。

 伝道者パウロが18節の言葉を引用して、神の恵み(カリス)について論じています(Ⅱコリント8章)。この章の 1・9「恵み」16「感謝」4・6・7・19「慈善の業」の原語はすべて同じ “カリス” です。神の恵みは自ずから感謝を生み分かち合いへと至ることを示しつつ、ここでパウロはユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者を繋ぐ献金運動への参加を促しました。

 今日午後、教会バザーを行います。提供された分かち合いの品・わざを必要とする方が手にし、その収益は福祉をはじめとする働きに用いられます。こうして神の恵みをちょうど良く分かち合い、喜びつつ共々に与るのです。

チャリティーバザー

いよいよ来週、
11月10日(日)13:00~14:45に、今年のバザーを開催します。

手作り品・雑貨販売のほか、
手作りケーキ・鳴子のブルーベリー染め・石巻の海産物などの販売、
おでん・わたあめなどの出店が予定されています。

今年も、益金は福祉施設や国際活動支援などにすべて捧げられます。

どうぞお楽しみにおいでください。

召天者記念礼拝 「天に記されている」

ヘブライ人への手紙 8章1~6節
コリントの信徒への手紙  一 13章12~13節

 

 ヘブライ人への手紙には、神から人となって執り成された主イエスこそ神と世界を結ばれる真の大祭司であるとの独特の主張があります(4:14~)。今日の箇所でも天上の 1・6「大祭司」と地上の 4・5「祭司たち」が対比され、地上の祭司たちが仕える神殿は 5「天にあるものの写しであり影」なのだと論じられています。こうした考え方は、キリストの体なる教会は本来一つであって目に見えず(エフェソ4:4~)、地上の教会はその一端を成すものとの教会論にも影響を与えています。

 私たちは地上の生涯が本来の生であり、その前・後の生があったとしてもそれは付随的なもの、と考えているのではないでしょうか。上記の考え方は、本当にそうだろうかとの問いかけを与えてくれます。

 併せ開いた箇所は、限りある私たちは大切なことも12「鏡におぼろに映った」ようにしか見極められない欠けを抱えている、が全てを御手に治め給う主なる神は私たちを12「はっきり知」っておられる、と告げています。そしてその主に結ばれるとき、私たちも12「顔と顔とを合わせて見る」ように12「はっきり知る」ようにされるのだというのです。命の源なる主に結ばれた生が、むしろ地上の生涯を基礎づけ、指針を与えるとの示唆がここにあります。

 13「いつまでも残る」との13「信仰と、希望と、愛」とは、考えてみれば私たちが所有物として抱え込めず、12「そのとき」を仰ぎ「追い求め」(14:1)ることにおいて与り得るものです。今日私たちが記念しているのは、主の支配を願い求めてこれらの真実に与り与えられた生涯を歩まれたお一人お一人です。

「私らしく生きる」

ルカによる福音書 13章6~9節
エゼキエル書 16章4~6節

 

 6「ぶどう」は聖書に頻出する重要な作物であり、神に植えられたイスラエルの民を象徴するものでした(詩80:9、ルカ20:9~等)。並んで 6「いちじく」も神の祝福の作物に数えられています(申8:7)。今日のお話で、この一本の 6「いちじくの木」は意図的に、すなわち多大の期待をもって植えられたことがわかります。ところが 7「三年」経っても実りを見い出せなかった。主人は 7「切り倒せ」と言いますが、園の世話をし愛着のある 7「園丁」は世話をするので 9「来年」まで待ってくださいと願うのです。私たちはこの 7「園丁」に主イエスの姿を見ます。

 この一本の 6「いちじくの木」とは、唯一無二の私のことを指していましょう。世界と歴史にどれだけ多くの人がいようとも、主なる神はかけがえのない存在として一人一人を造り、向き合われるからです。この方に向き合いつつ生涯を全うしたい、と私たちは先般コイノニア会をもちました。

 併せ開いたエゼキエル書にも、主の私たちに対する熱情が示されています。主は小さな者に目をとめ 6「生きよ」と言われます。神から命を分け与えられた者であるが故にです。

 こうした熱い思い、期待を知り、私なりに応えていこうと歩み出すことが 5「悔い改め」です。唯一無二の私に向き合われる方に応えること、それは “私らしく生きる” ことにつながってきます。