牧師の辞任と代務牧師の就任

 当教会を18年間牧された小西望牧師はこの3月末をもって辞任され、天満教会(大阪)に転じられることになりました。

 これを受け、当教会は2020年度の一年間、原誠牧師(同志社大学名誉教授)に代務牧師として着任いただき、原牧師またほかの先生方にも協力いただきつつ礼拝をまもります。

 どうぞこのことをお覚えください。

「わたしたちも信じ、語る」

エレミヤ書 32章6~15節
コリントの信徒への手紙 二 4章7~15節

 

 B.C.6世紀、新バビロニア帝国の軍隊が都エルサレムを包囲し(2節)南王国ユダが滅亡しようとしているさ中、預言者エレミヤは主の言葉に導かれてエルサレム近郊の町アナトトの土地を買い取りました。やがて占領されるであろう土地について、細かな正式の手続きを踏んで10「証書」を作成したとあります。そこにはいったいどのような意味があったでしょうか。

 それは彼が預言した通り、亡国と捕囚を経ていつの日か復興が与えられる時が来るとの主の約束への信頼を表していました(30:3~、15節)。エレミヤがそれを目の当たりにすることはありませんでしたが、「はるかにそれを見て喜びの声をあげ」(ヘブライ11:13)自らに託された働きに向き合ったのでした。

  7「土の器」とは私たちの存在を指す比喩です。そうした有限で脆い者ながら、 6「神の栄光」10「主イエスの命」を戴きとり用いられるとの不思議と幸いが指し示されています。主が完成の約束を果たされることを仰ぎ見つつ、私たちに託された事柄に地道に関わっていければと願うのです。

 13「わたしは信じた。それで、わたしは語った」とは詩116:10に由来しており、目前の苦境にも私たちは主の慈しみのゆえに希望を仰ぎ得るとの告白・証しの言葉です。十字架の主を仰ぎ連なろうとするとき、11「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れる」との真実を私たちも信じ、生き、語る者として歩み続けましょう。主にある連帯を覚えつつ。

「その男はあなただ」

サムエル記下 12章1~14節
ルカによる福音書 23章13~25節

 

 イスラエル王国の統一を成し遂げ繁栄に導いたダビデはやがてイスラエル王の理想像とされ、救い主はその血統から生まれるとの待望も生まれました(エゼキエル34:23~等)。が聖書は、人間ダビデの罪をもあからさまに描き出しています。

 ダビデ王は部下の軍人ウリヤの妻バト・シェバをわが物とし、ウリヤを戦死するよう仕向けて事を隠蔽しようとしたのです(11:1~)。「ダビデのしたことは主の御心に適」いませんでした(11:27)。

 預言者ナタンは主から遣わされ、隣人の愛する小羊を奪い取った 2「豊かな男」の話をしました。 5「そんなことをした男は死罪だ」とダビデ王は激怒しましたが、即座にナタンは告げたのです、 7「その男はあなただ」。ダビデは打ちのめされました。

 詩編51編・32編は罪を悔いたダビデによるもの、とされています。後代の文体的特徴なども見えてダビデ個人に帰することは難しいですが、そのような悔い改めの告白として味わうことは可能でしょう。人は罪を逃れ得ないこと(51:7~)、赦し清めるのは神の慈しみのみであること(51:3~4)、罪の告白を主は受け入れ赦しを与えてくださること(32:5)が歌われています。

 主イエスを十字架の死に追いやったのは決してユダヤ当局者(19:47)だけではなかったと、福音書は告げています。18「その男を殺せ」と叫んだ13「民衆」は、5日前歓呼をもって主イエスを迎えた者たちでした(19:37~)。ほか、ローマ総督ピラトやガリラヤ領主ヘロデ、弟子のユダ・ペトロらの姿に見える人の愚かさ、破れ、罪が結束して主イエスを十字架につけていったのです。そして私たちはこれらの人々の中に、自らの姿を見出さざるを得ません。

 しかし驚くべきことに、十字架はそのような私たちを赦し罪の縄目から解放するための主なる神の救いの御業であったのです。十字架を見上げるとき、そこに私たちの闇とそこに差し来る光を見出します。

3月のおたより

 当教会の主日礼拝は、毎週日曜日 朝10:40~ 開始されます。このことを告げる鐘(チャイム)の音が教会の塔より、10:30 と 10:35 に流れます。日曜以外にもこの音を聞きたいとのリクエストがあり、このWeb-siteでも聞けるようにしました。  

 “教会案内” から “礼拝開始を告げる鐘の音” を開いてクリックすると、いつでも聞けます。

 奏でられているのは、『讃美歌21』に18番「心を高くあげよ!」として収録されている曲。タイトルの SURSUM CORDA(心を高く挙げなさい) は、「天にいます神に向かって、両手を上げ心も挙げて言おう」(哀歌3:41)に基づき、教会の歴史の中で呼び交わされてきた言葉です。

 

       『讃美歌21』 18番「心を高くあげよ!」

      1.「心を高くあげよ!」、主のみ声に従い、
        ただ主のみを見上げて、心を高く挙げよう
      2.霧のような憂いも、闇のような恐れも、
        みな後ろに投げすて、心を高く挙げよう
      3.主から受けたすべてを、再び主に捧げて、
        清きみ名をほめつつ、心を高く挙げよう
      4.終わりの日が来たなら、裁きの座を見上げて、
        わが力の限りに、心を高く挙げよう

 

教会創立133周年記念礼拝 「目に見えるものによらず」

コリントの信徒への手紙 二 5章1~10節
創世記 28章10~12節

 

 日本人で最初に牧師になったのは1874年にアメリカで按手礼を受けた新島襄ですが、日本で最初の按手礼を受けて牧師となったのは澤山保羅(1852-1887)です。長州藩士の息子として成長した澤山は宣教師D.C.グリーンと出会い、20歳にして渡米、4年間苦学します。当初は立身出世を志していましたが、受洗した教会の婦人や宣教師H.H.レビットに励まされ故国での福音宣教を使命として自覚するに至ります。

 帰国の翌年1877年に誕生した浪花公会(現・浪花教会)の設立式において按手礼式が行われ、初代牧師となります。この教会は、梅本町公会(現・大阪教会)と協力して1878年梅花女学校(現・梅花学園)を設立、また1879年天満橋教会(現・天満教会)を創立し澤山が初代牧師(兼務)となっています。また日本基督伝道会社設立を発議し新島と共に委員を務めるなど、日本における会衆主義教会創設期に指導的役割を果たしました。

 澤山は教会の自由・自治・独立の確立のため、自給を強く求めたことで知られます。これは自らの生活・教会・学校・日本伝道のいずれにおいても一貫していました。信仰と共に生活を捧げて、「神の栄光を現」す(Ⅰコリント6:20)ことを志したのです。新島が仙台の政財界の力を借りて創立した東華学校が時代の荒波にあって僅か5年で廃校となったことを考えると、澤山の自給論は大切な一指針です。

 信仰者は 1「天にある永遠の住みか」を知るがゆえに、1「地上」を旅人のように歩むのだとパウロは論じています。地上の歩みを軽視しているのではないことは、4「地上の住みかを脱ぎ捨て」るのではなく 4「命」を 2・4「上に着」ると言っていることからわかります。私たちは主イエス・キリストのみ業によって 1「天」と 1「地上」が固く結ばれていることを信じ、7「目に見えるものによらず、信仰によって」ものを見、旅を進みゆくのです。

東日本大震災9周年を覚えての礼拝 「静かにささやく声」

列王記上 19章3~13節
ルカによる福音書 6章20~26節

 

 今日共にした聖書は、東日本大震災発生2日後の2011年3月13日の礼拝で開いた箇所です。当日は教会創立124周年記念礼拝の予定でしたが、震災発生に箇所を変えて礼拝をまもったのでした。

 ここには疲れ果て、死すら願う預言者エリヤの姿があります。前章ではバアルの預言者450人を相手に華々しい勝利を収めたのに一体何が起こったのかは判然としませんが、荒れ野に立つ 4「一本のえにしだの木」のように彼は小さな一人の人間として無力感に襲われていたのです。その姿は震災発生直後の私たちの姿に重なります。

 主はそうしたエリヤを 6「パン菓子と水」で力づけて 8「神の山ホレブ」に導き、ご自身を顕わされました。但し、そのあり様はいつもと異なっていました。11「激しい風」11「地震」12「火」という主の顕現のしるしとされることの中に、11・11・12「主はおられなかった」のです。むしろその後の12「静かにささやく声」を通して、ご自身を顕わされたのでした。

 全ては主のみ手にあると教えられる私たちは、震災を主と無関係の出来事と捉えることはできません。一方、そこにどのようなみ旨があるのか、小さな私たちにそれを受け止めることはかないません。でも、主はそのような小さな私たちに向き合い、導き、12「静かにささやく声」を通しても自らを顕わしてくださるのです。事実この9年間、私たちはそのように支えられ歩んできたのではないでしょうか。

 主イエスはまさに12「静かにささやく声」としてこの世界に来られ(イザヤ42:1~、ルカ4:1~)、20「貧しい人々」21「飢えている人々」21「泣いている人々」への幸いを告げられました。街並みや交通の復興の狭間に、多くの人々の様々な思いや声はまだ横たわっています。そうした中、主は今も12「静かにささやく声」として呼びかけ、働いておられることに耳と思いを向けたく願います。

新型コロナウイルス対策

以下の諸点にご留意ください。ご理解・ご協力をお願いします。

 

◇ 風邪などの自覚症状のある方は、念のため、礼拝・集会出席をお控えください。

◇ 教会内でも、手洗い・アルコール消毒を励行しましょう。

◇ 咳エチケットに留意しましょう。

◇ 当面、4月5日まで、昼食提供・茶菓提供 は中止します。

  昼食やお茶等が必要な方は、各自でご用意ください。

「主があなたのために家を興す」

サムエル記下 7章1~17節
フィリピの信徒への手紙 2章6~11節

 

 2「神の箱」を安置した 2「天幕」は、主なる神がイスラエルの民と共におられるとの大切なしるしでした。ゆえに荒れ野の旅の時代から、民と共に移動してきました。イスラエル統一王国の王となりエルサレムを都に定めたダビデは、この 2「天幕」を立派な神殿に作り替えたいと願ったのです。

 が主は預言者ナタンを通じて、6「わたしは…今日に至るまで…天幕…を住みかとして歩んできた」 7「その間…なぜわたしのために…家を建てないのか、と言ったことがあろうか」とこれを退け、むしろ12「主があなたのために家を興す」16「あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」とダビデに約束されたのでした。

 これに感謝した祈りで、ダビデも5回24・25・26・29「とこしえに」と口にして祈っています。確かにダビデ王、その息子ソロモン王の統治は祝されました。が次の代から王国は分裂、やがて北王国はアッシリアに、南王国は新バビロニアに滅ぼされていきます。人の罪と愚かさ、有限性を知らされます(詩89編)。

 が、主は約束を忘れてはおられませんでした。イザヤ55:3に「わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。」とあります。時満ちて主はご自身、主イエス・キリストとして地に下られました。それは罪の支配を打ち破り、限りある私たちをとこしえの祝福に結び合わせるためでした。

 新約で開いたキリストの賛歌には、主が 6「神の身分」から受肉と十字架を経て地上・陰府にまでへりくだられたことが歌われています。限りある私たちを「とこしえ」に結び合わせるために、主は 2「天幕」を、そして厳しい旅を厭われなかったということです。

「わたしとあなたの間に」

サムエル記上 20章1~23節・35~42節
ヨハネによる福音書 1章14~18節

 

 サウル王の息子ヨナタンと、次の王に選ばれたダビデは深い友情で結ばれていました。初めて会ったとき、「ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」(18:1)のでした。が、ダビデはサウル王から憎まれ、命を狙われるようになったのです。3「死と私との間はただの一歩です」と、ダビデはヨナタンに危機感を吐露しました。

 ヨナタンはサウル王にとりなすと共に、野に身を隠しているダビデに矢と従者への言葉とで合図を送ることを約束します。翌朝、遠く矢を放ったヨナタンは従者に呼びかけました。37「矢はお前のもっと先ではないか」、38「早くしろ、急げ、立ち止まるな」。それは父がお前を殺そうとしている、逃げよ、とのメッセージでした。

 二人は42「私とあなたの間にも、…子孫と…子孫の間にも、主がとこしえにおられる」との約束を再確認して別れ、別々の道を歩み出しました。その後ヨナタンは戦場で父と共に倒れましたが(31:6)、ダビデはヨナタンの息子メフィボシェトを探し出し、支えて約束を果たしたのでした(サム下9:1~)。

 神が17「イエス・キリスト」として降誕された出来事を、ヨハネ福音書は14「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と記します。ダビデとヨナタンの物語は、世・人の罪による人間の分断を指し示していましょう。そのような対立・分断をのり越えて人が共に生きるために主は人の間に立たれ、主イエスは地上に来られて私たちの間に宿られたのです。主イエスは「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)と教えられました。またキリストは「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」和解をもたらされた、とエフェソ2:14~は語っています。