2月のおたより

 殊のほか降雪の少ない仙台ですが、さてこののち大雪などなく春を迎えるでしょうか。皆さまお一人お一人にまもりがありますように。
 まもなく3.11、東日本大震災発生から9年を迎えます。東北教区では4か所で記念礼拝を行うこととなりました。祈りのうちに、あの時と今を結び合わせて3.11を過ごしたく思います。
 3月11日(水)、4か所で行われる記念礼拝は以下の通りです。開始時刻はいずれも午後2時30分から。どうぞお出かけください。

 

= 東日本大震災9年記念礼拝 (主催:日本キリスト教団東北教区) =

<宮城会場>
仙台東六番丁教会
説教 中本純 牧師 (仙台東六番丁教会)

<福島会場>
福島新町教会
説教 瀧山勝子 牧師 (福島新町教会)

 <山形会場1>
天童教会
説教 長谷川衛 牧師 (東根伝道所)

 <山形会場2>
鶴岡教会
説教 八重樫捷朗 牧師 (鶴岡教会)

 

「あなたを遣わす」

使徒言行録 26章12~18節
歴代誌上 29章10~17節

 

 内村鑑三(1861-1930)は伝道者、無教会の創始者、教育者、新聞記者、論説家など多くの働きを為したキリスト者です。20歳で札幌農学校を卒業時に同級生の新渡戸稲造・宮部金吾と、二つのJ(JesusとJapan)に生涯を捧げることを誓い合ったといいます。しかしその内村は1891年第一高等中学校の教員時代、教育勅語奉読式の際に天皇の署名に最敬礼しなかったことが不敬であるとバッシングを受けて職を追われ、心労で伴侶も失いました。

 日清戦争開戦に際してはこれを “義戦” とした内村でしたが、戦争は何も生まないと知り、日露戦争に際しては少数者となっても非戦論を貫きました。その後、欧米のキリスト教国が第一次大戦に突き進むことに失望し、再臨運動に参加しています。

 愛用の聖書に内村は “I for Japan;Japan for the World;The World for Christ;And All for God.” と記し、これは墓碑にも刻まれています。一つ一つの働きにもまして、彼の事績は生涯キリストに仕える旅人であったことにあると思います。私の罪を赦してくださいと、涙ながらに祈る晩年であったといいます。

 ダビデ王は神殿建設に向けて、わたしは主から派遣された15「寄留民」として生涯において17「正しい心」を捧げますと祈りました。伝道者パウロも自らの回心を振り返り、18「闇から光」へと導かれる主イエスに仕え18「恵み」を分かち合うべく17「遣わ」されたのだと語りました。16「起き上がれ、自分の足で立て」との言葉は、私たち一人一人にも告げられていましょう。私たちがこの時・この場所に遣わされたことにも、主のみ旨と期待があるはずです。

「あなたを見出される方」

サムエル記上 9章14~21節
ローマの信徒への手紙 11章33~36節

 

 約束の地カナンに定着後、イスラエルはしばらくの間士師と呼ばれるさばきづかさが指導しました。その最後の一人である14「サムエル」は15「サウル」に油を注ぎ(10:1~)、イスラエル最初の王としたのでした。

 二人の出会いの経緯が今日の箇所にあります。サウルはいなくなった父の20「ろば」を捜して家を出ましたが見つけることができず、遠くこの町に至りました。一度は諦めかけたサウルでしたが(5節)、供の若者の言葉と配慮、出会った水くみの娘たちらに不思議に支えられ導かれ、サムエルに出会ったのでした。いっぽう主はサムエルに予め、16「明日…遣わす」男に油を注ぎ王とせよと告げていました。

 いなくなったろばは20「もう見つかっています」と触れられているように、すべては主のみ手の内にありました。サウルはろばをなかなか 4・5「見つけ出せ」なかったと繰り返されていますが、そのサウルはすでに主に見出されていたのです。

 わたしは21「最も小さな」者ですとサウルは驚き恐れましたが、主は小さな者をも見出されみ旨の内にとり用いられます。ここにイスラエルの新しい時代が開かれていきました。

 伝道者パウロは32「不従順」や誤りをも抱え持つ私たちにも目を留めて救いのご計画を実現されゆく神のみ旨とみ業に感嘆し、36「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」とその信仰を言い表しています。出会う課題に一喜一憂する小さな私たちも神の大いなるみ旨とみ業の内に置かれていることを仰ぎ、日々の歩みに向かいゆきたく願います。

「この旅を養われる方」

列王記上 17章1~7節、19章1~8節
ルカによる福音書 12章24節

 

 24「烏」は汚れた鳥として律法でも食用を禁じられていますが(レビ11:15)、主イエスは “空の鳥・野の花” の譬を語られる際に敢えて烏を取り上げられました。嫌われる烏をも神は養い、自由を与えられると語られたのでしょう。

 エリヤは北イスラエルにあって悪政を行った 1「アハブ」王と王妃イゼベルに立ち向かった預言者であり(18:18等)、新約時代にも預言者の代表格として覚えられていました(ルカ9:30等)。権力を欲しいままにする王に立ち向かうのは大変なことです。エリヤは最初の預言として干ばつの罰を告げたのち、 3「ケリトの川のほとり」に身を隠しました。その際、朝晩パンと肉を運んでくる烏に養われたのでした。

 その後、エリヤは450人のバアルの預言者と対決し、これに勝利します(18:20~)。が、復讐を誓う王妃イゼベルの言葉に恐れて荒れ野に逃げ、 4「もう十分です」と意気消沈したのでした。眠りから覚めると 6「パン菓子と水」があり、 5・7「起きて食べよ」と呼びかけられたのです。エリヤは烏に養われた時のことを思い起したのではないでしょうか。あのときエリヤは 1「生きておられる」主を証しすべく、預言者に立てられたのです。起きて食べたエリヤは神の山ホレブに向かい、そこで生ける主と出会い再び力満たされて働きに戻っていったのでした。

 7「起きて食べよ。この旅は長く…耐え難いからだ」との言葉は、私たちにも与えられていましょう。生涯の旅には起伏もあり、時に意気消沈することもあるからです。生ける神に出会いその言葉に養われてこそ、旅を続けることができます。

「預言者のともがらが」

列王記下 4章38~41節
ルカによる福音書 22章31~34節

 

 38「預言者の仲間たち」は口語訳で「預言者のともがら」と訳されており、神と人に仕える預言者たるべく励まし合う仲間らであることがよりわかります。そしてこの言葉は、この章をはじめエリシャが登場する場面に多く現れます。38「ギルガル」は恩師エリヤと別れた時の思い出の地でした(2:1)。エリシャはそこに「預言者のともがら」を集め、情熱をこめて薫陶したのでした。

 さて38「飢饉」に際しては、彼らの食事についても骨折ったことが記されています。大鍋で煮物を作っていると、一人が野生のうりを抱えて帰ってきました。おかげで彩り豊かな煮物となりましたが、うりは毒をもっていたのです。40「鍋には死の毒が入っています」との叫び声に、いちばん青くなったのはうりを取ってきた当人に違いありません。しかしエリシャは麦粉をもってその毒を消したのでした。

 毒のうりを食べさせようとしたのは、大きな失敗でした。がエリシャは育ちゆく者の思いを無にすることなくその失敗をも受けとめてやったのです。主イエスは弟子ペトロの挫折を見抜きつつ、32「わたしはあなたのために…祈った。だから…立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。のち初代教会の指導者となったペトロは、折に触れこの主の言葉を思い出し力としたことでしょう。同様に、この預言者もこの失敗そして恩師エリシャの思い出を糧に自らの働きに向かったのではないでしょうか。

 私たちも同様の多くの配慮・世話そして祈りを頂いて、今を得ているのではないでしょうか。それは、あなたも同じようにしなさいとの指し示しでもあります。

1月のおたより

 新しい年2020年の1月となりました。でも世界には、1月にクリスマスを祝う国もあります。エチオピアは独自な暦の関係で1月7日に主イエス・キリスト降誕を祝い、これを “ゲンナ” といいます。

 この国の伝説によると、降誕の喜びを最初に告知された羊飼いたちがこの “ゲンナ” をしていたのだとか。“ゲンナ” とは、何とホッケーのこと。このことを覚えてエチオピアでは、この日みんながホッケーを楽しみ、また大きな大会の決勝戦が行われるのだそうです。

 杖をスティックに、羊の毛をボールに、確かに羊飼いたちならすぐにゲームが始められそうです。野山を移動して野宿という厳しい生活の彼らにも、こうした楽しみがあったのかもしれない、とイメージが膨らみました。

新年礼拝 「新しいことを私は行う」

イザヤ書 43章16~20節
マルコによる福音書 2章21~22節

 

 18「初めのこと」18「昔のこと」とは、16~17節に記されている出エジプトを指しています。その叫びに耳を傾け歴史にみ手を伸ばされてイスラエル人をエジプトから脱出させられた主のみ業は主の民に対する救済の出来事であり、信仰の原点でした。殊にB.C.587国を失い捕囚とされた民にとって、心の拠り所であったに違いありません。ところが預言者は今、それらを18「思い出すな」18「思いめぐらすな」と言うのです。

 それは、主は生きておられて19「見よ、新しいことをわたしは行う」と宣言されるからです。19「今や、それは芽生えて」おり、19「荒れ野に道が敷」かれるだろうと告げられています。それは驚くべき仕方でB.C.538、バビロン捕囚からの解放として成就しました。

 私たちもそれぞれに、感謝すべき原点や拠り所を持っていることでしょう。それは大切にしつつ、私たちの思い・あり方を超えてみ旨を顕わされる主を仰ぎ歩みたく願います。主イエスは22「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と教えられました。しなやかな革袋を用意しなければ、22「新しいぶどう酒」のフレッシュな活動に応えることはできないからです。生きて日々導かれる主に養われ私たちも新しくされ、与えられた2020年に踏み出しましょう。