6月のおたより

  “お知らせ” にも掲載しましたように、去る5月24日に開かれた日本キリスト教団東北教区総会「テロリズム集団その他の組織的犯罪処罰法(共謀法)の(衆議院での)強行採決に抗議する緊急声明」を採択、公表しました。がその後、この法案は参議院においても拙速な仕方で可決され、成立してしまいました。

 かつての治安維持法がそうであったように、“信教・思想・報道の自由”が奪われ、人と人との信頼・つながりが分断されることにならないかと危惧します。と共に、そうした事態を招かないために、私たち自身なお平和を祈り、求め続けていきたく願います。

 さてそうした中、出版社の社長さんからメールが届きました。2013年に天に召された当教会員、川端純四郎さんの論文や講演録を集めた『教会と戦争』の初版1200部の在庫がほぼなくなった、とのことでした。メールに「…品切にしておくのは寂しいですし、今の政治状況を見ても読み継がれるべき本です」とあるように、アジア・太平洋戦争期の教会への真摯な振り返り、そして今を生きる私たちへの指し示しが多く盛られた本です。

 おりしもこの本は、今行われている “キリスト教本屋大賞2017” にノミネートされてもいます。おそらく近く重版が決まることと思います。一人でも多くの方に読んでほしいと願います。

「恵みは砕かれた者に」

イザヤ書 57章14~19節
使徒言行録 3章1~10節

 説教  石川 立 教師 (同志社大学神学部長)

 

 昨日は当教会の母体である東華学校の開校130周年記念日でした。その開校で、東北伝道を目指す新島襄の願いが実現しました。東北は“白河以北一山百文”と揶揄されていました。また、戊辰戦争後、仙台はひどく疲弊していました。その地を新島は同志社英学校の分校の土地として選んだのです。打ち砕かれた弱者に向かう新島の眼差しの根底には、聖書に示されている神の恵みの方向性が反映していました。

 本日の聖書箇所には、聖霊降臨後の最初の奇跡がペトロを通して行われたことが記されています。このとき、生来足が不自由で、人に施しを乞うて生きている人が癒されました。神の恵みは、社会の底辺にいる人に集中しました。この人は癒されて喜び躍り、神の救いの証人となりました。

 “日本でいちばん大切にしたい会社”の一つ日本理化学工業は、障がい者雇用割合7割を誇っています。そこでは、障がい者は生きることや働くことの喜びを教えてくれる大切な存在です。

 戦後、孤児と知的障がい者のために近江学園を創設した糸賀一雄は、知的障がい者の真実な生き方が世の光となり、彼らを助ける我々がかえって、彼らを通して人間の生命の真実に目覚め救われる、と述べています(『この子らを世の光に』)。

 本日のイザヤ書の箇所には、神は打ち砕かれ、へりくだる者に命を得させる、とあります。神から命を与えられた人は、世の光となり希望となります。十字架にかかられたイエスが、打ち砕かれた最たる方であり、かつ、神の恵みの光です。

 私たちの周りに、運命に砕かれた人々、障がい者や弱者がいます。その人々の中に、私たちは恵みの光を認め、生命の真実に目覚めたい。いや、私たち自身が打ち砕かれ、へりくだる者でありたいものです。

子どもの日・花の日合同礼拝 「空の器は満たされる」

列王記下 4章1~7節

 

 聖書の時代、 2「油」はオリーブの実を絞って作られました。それは料理のほか、灯し火、薬や(ルカ10:34等)礼拝など(レビ8:10~等)にも用いる大切なものであり、そこに人々は神さまの祝福を見たのでした。

 預言者エリシャのもとに、一人の女性が助けを求めてやってきました。やはり預言者であった夫は 1「主を畏れ敬う人」でしたが気の毒なことに亡くなってしまい、残された家族も大きな 1「債権」のため危機に瀕していたのでした。もはや 2「油の壺一つのほか、…家には何もありません」というありさまだったのです。

 エリシャは 3「近所から…空の器をできるだけたくさん借りて来なさい」 4「その器のすべてに油を注ぎなさい」と不思議なことを命じました。でも女性が言われた通りにすると、 6「器がどれもいっぱいになる」まで油は途切れなかったのです。こうして家族は危機を脱したのでした。

 途切れることのない 2「油」は神さまの祝福を表していましょう。では 3「器」とは何でしょうか。それは神に造られた私たちのことでしょう(イザヤ45:9等)。神さまは不思議な恵みをもって、私たちを満たしてくださるのです。加えて色々なことに気づかされます。 3「近所から」の器が助けとなったように、私たちは互いに支え合うことができるのです。また別の何かで満たされていない 3「空の器」だから役に立ったのです。神さまの祝福を受けとめ、互いに支え合う私たちでありたく願います。

ペンテコステ礼拝 「弱いわたしたちをも」

ローマの信徒への手紙 8章26~28節
イザヤ書 41章8~10節

 

 主イエスの十字架、復活、昇天を辿った弟子たちは聖霊降臨を体験して大いなる力に満たされ、閉じこもっていた扉を開け放ち、福音を証しし宣教の業に出ていきました。最初のペトロの説教では、約3000人が洗礼を受けたとあります(使徒2章)。このようにペンテコステの出来事は教会の誕生日、そして世界伝道の出発点となりました。実に力強い聖霊の働きです。

 しかし、そうした力強さだけが聖霊の証しなのではありません。今日の箇所で伝道者パウロは、26「同様に、“霊” も弱いわたしたちを助けてくださいます」と語りかけます。続く26「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが」とは一見不思議な言葉と響きます。が、自らを遥かに上回る課題に取り囲まれ窮地に立たされたとき、私たちは何をどう祈ったら良いか分からなくなるのではないでしょうか。でも、生ける神の働きなる聖霊はそうした私たちの22・26「うめき」を分かつと共に、神へと27「執り成してくださる」のです。28「万事が益になるように共に働く」とは、楽観的な現状肯定論ではありません。26「弱いわたしたち」がすべてをご存じなる方の見守りと支えの内に置かれているとの安心の告白です(イザヤ41:9~10)。

 パウロは自らの持病との戦いの経験を振り返り、「力は弱さの中でこそ…発揮される」「大いに喜んで自分の弱さを誇ろ」う(Ⅱコリント12:9)と語りました。自らの弱さにも顕わされる神の恵みを彼は見出し、感謝したのでした。

「神の国の豊かさ」

マルコによる福音書 4章1~9節
イザヤ書 5章1~7節

 

 年に一度の教区総会が終わりました。その伝道の歴史から、東北には小規模な教会が多くあります。このことはかつて、マイナスの文脈で語られることが多かったように思います。が、2004年度を中心とした機構改革に取り組む中で、それは小さな町々にも教団の教会があって十字架のもと礼拝する群れがあるという東北に与えられた豊かさなのだと気づかされてきました。それは「1タラントン」かもしれないけれども「地の中に隠して」はいけない(マタイ25:14~30)、ご用のため共々に用いていこうと始められたのが、現在取り組まれている “宣教共働” の働きです。

 ガリラヤ湖のほとりで、主イエスは 3「種を蒔く人」の譬を語られました。ただ不思議なことに、この人はえらく気前よく種を蒔くのです(イザヤ28:24~25)。結果、 4「道端」 5「石だらけで土の少ない所」 7「茨の中」に落ち、実りに至らなかった種もありました。

 今日併せて開いたイザヤ5:1~を踏まえ、主イエスは12章でぶどう園に送られた一人息子の譬を語っておられます。大きな恵みを頂きつつ良き実りへと至らない世界をなお慈しみ救いへと導くために、主イエスは十字架で犠牲となられ復活を遂げられたのです。

 13節~に、種とは14「神の言葉」であると明かされています。 8「三十倍…六十倍…百倍」の実りに至れとの期待と祈りをもって、14「神の言葉」はこの世界の隅々に蒔かれています。その成長の恵みにあずかる私たちでありたく願います。

テロリズム集団その他の組織的犯罪処罰法 (共謀罪) の強行採決に抗議する緊急声明

5月24日に開催された「日本基督教団東北教区第72回教区定期総会」は、

下記声明を採択し、日本国政府・衆参両議院ほか関係機関に送付しました。

広く共有いただきたく思います。

 

 5月19日、国会衆議院法務委員会において強行採決された「共謀罪法」は、各方面で指摘されているように、尾行・盗聴・通信傍受、監視・内通を合法化し、市民社会の土台をなす精神の自由を制限し、言論・集会結社・信教の自由が脅かされる密告社会を作りだす恐れのある悪法です。

 この法は、1925年制定「治安維持法」と同じイデオロギー的構造を内在させています。治安維持法により、1928年3月1日約1600名に亘る日本共産党員などへの大弾圧が加えられました。キリスト教会においても治安維持法のもとで多くの牧師が検挙され、逮捕され、獄死しました。教会が閉鎖に追い込まれ、信仰の自由が踏みにじられた歴史を忘れることができません。

 安全保障関連法の強行採決、世界に例を見ないわが国の平和主義憲法の要である9条に「自衛隊」の存在を明記する改憲案の策定、平和な島での安全な暮らしを求める沖縄住民の意向を無視した辺野古新基地建設の強行などといった一連の緊迫した情勢の中で、戦争を遂行し得る路線に道を開く「共謀罪法」の制定に向けての不穏な動きは、まことに憂慮に耐えない事態であり、市民的幸福と社会的公平と正義がないがしろにされる欠陥社会を生み出す危険性を孕んでいます。

 言うまでもなく、思想・信条・信教の自由は人類の普遍的な権利として何ものからも侵害されてはならないものです。神の被造物としての尊厳を与えられている一人ひとりの人間存在が、持続可能な社会を形成していくためにも、各自が自由に語り、互いに協議し、意見を交換し合える社会基盤を壊してはなりません。1967年復活主日における日本基督教団戦責告白「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」においても表明されているように、キリストの体としてこの世に存在する教会には、神の歴史支配を見極め、警鐘を鳴らす預言者的な「見張りの使命」が与えられており、この法の行方は私たちキリスト者にとって重大な関心事です。

 よって、私たち一同は、看過しえない今回の強行採決に対し強く抗議するとともに、衆議院・参議院で廃案にすることを強く求めます。

      2017年5月24日

                       日本基督教団東北教区第72回教区定期総会

「全き人」

マルコによる福音書 3章20~30節
創世記 6章9~22節

 

 ガリラヤで宣教を始められた主イエスのもとには大勢の人、殊に病人や悪霊に取りつかれた人(1:31)、罪人とレッテルを貼られた人々(2:16)が癒しまた赦しを求めて集まってきました。一方、それを快く思わない者たちは主イエスを激しく批判しました。主イエスはそうした者たちを23「呼び寄せ」られた上で、28「人の…罪や…冒涜の言葉も、すべて赦される」と神の大いなる憐れみと赦しを宣言されたのです。

 では続けて語られた29「聖霊を冒涜する者は永遠に赦され」ない、とはどういうことなのでしょう。29「聖霊」とは神の生ける働きです。その神の赦しと招きの実現のため主イエスはこの世界に来られ、十字架で犠牲となり、復活を遂げられました。29「聖霊を冒涜する」とは、この招きを不必要だとして拒絶することです。私たちは、そしてこの世はそれほど立派で大丈夫なのでしょうか。

 ノアは 9「全き人であった」(口語訳)と記されますが、後には酒に酔って醜態を晒してもいます(9:21)。聖書の言う“全き”“完全”とは助けなしに自立できることではなく、 9「神と共に歩」むことを指しています(フィリピ3:12~15)。

 エゼキエル18章で、神は人間の罪を厳しく指摘しつつ「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。」(31~32節)と呼びかけておられます。この招きに応え、神と共に、隣人と共に歩む道を進みたく願います。

5月のおたより

 当教会の前庭に “新島襄ゆかりのカタルパ” を植樹してから、約2年経ちました。冬になると葉をすっかり落とし、春になってもなかなか芽吹かないのでドキドキしますが、無事2回目の冬を越しました。5月に入ってから新芽が目に見えて伸び始め、今はこんな様子になりました。幹もだいぶしっかりしてきました。

 さて先月お知らせしたとおり、来月6月17日(土)に同志社大学が主催しての「同志社フェア in 仙台」が開かれることになり、翌18日(日)の当教会主日礼拝では、石川立同志社大学神学部長が説教を担当くださることになりました。当日は、上記フェア参加者有志も礼拝を共にされます。貴重な機会に、どうぞおいでください。

 

石川 立 同志社大学神学部長 礼拝説教

6月18日(日) 10:40~   仙台北教会 礼拝堂

 

= 石川 立 教授  プロフィール =

 1953年生まれ。東京大学文学部哲学専攻卒業、同志社大学神学研究科博士前期課程修了、ミュンヘン大学神学研究科博士課程修了。神学博士。

 同志社大学神学部教授。現在、神学部長。

 専門は、旧約・新約聖書解釈、聖書神学。聖書を根源的な事柄を指し示す証しの書ととらえ、聖書を通して内的真理との出会いを目指しておられる。また、ことだま(言葉と霊性)の観点から、古代・中世神学者、宗教改革者などの著作やキリスト教以外の宗教の経典的な作品に当たり、今日の近代主義、合理主義、啓蒙主義を克服することも課題とされている。

 共著、『聖書 語りの風景-創世記とマタイ福音書をひらいて』 (キリスト新聞社、2006年)。

「真ん中に立ちなさい」

マルコによる福音書 3章1~6節
ゼカリヤ書 8章1~9節

 

 復活の主に導かれて(16:7)、主イエスのガリラヤ宣教をもう一度辿りたく思います。

 ルカ・ヨハネ福音書は、復活の主が恐れていた弟子たちの「真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」と記します(ルカ24:36、ヨハネ20:19・26)。恐れ、閉じこもる私たちの限界を復活の主は突破され、平和を告げられるのです。

 その主イエスはカファルナウムの 1「会堂」での礼拝の場で、 4「律法」に縛られ弱者をあたかも道具化するような人々の頑なさを悲しみ 5「怒り」すら露わされつつ、その人に 3「真ん中に立ちなさい」と呼びかけられました。さらに9:33~にはやはりカファルナウムで、一人の子どもを「真ん中に立たせ」(36節)小さな一人を受け入れることの大切さを教えられたとあります。復活のみ業をもって私たちに平和を告げられる主は、小さな一人そして私たちをも「真ん中」に立たせその命を十二分に生きていけと祝福されるのです。

 B.C.6世紀の預言者ゼカリヤは、捕囚帰還後の荒廃の地に主は 2「激しい熱情」を注いで自らその 3「真ん中」に住まわれ、そのとき都の広場には 4「老爺、老婆」 5「わらべとおとめ」らの笑い声が戻ってくると告げました。この主のみ旨を実現すべく主は今も生きて働かれ、私たちをも召しておられることを仰ぎます。