めぐみの森 夏まつり

 当教会付属の「仙台めぐみ幼稚園」は、2011年3月末をもって37年間の働きを閉じましたが、教会の親子の活動は「めぐみの森」活動として継続されています。

 教会学校めぐみの礼拝、中高生の会、こひつじ文庫、親子グループめだか、子育てママの集いわかぎといったそれぞれの働きがつながって、森のような豊かな場になることを願っています。

 このめぐみの森全体のおまつりが25日(土)14:30~16:00に、教会で開かれます。わたあめ・ケーキ・スーパーボールすくい・工作ひろば・めぐみ劇場など楽しいコーナーが用意され、100円のチケットで全コーナーをまわることができます。

 どなたもおいでいただけます。子どもたちに声をかけて、おいでになりませんか。楽しみにお待ちします。

8月のおたより

 8月6~8日(月~水)、今年で第43回目を数える「平和七夕」が行われました(主催:「『平和を祈る七夕』市民のつどい)。核兵器を廃絶し平和を求める祈りと共につくられた折鶴が、今年は約110万羽寄せられたとのことです。

 これらを綴り合せて5本の吹き流しが作られいつものクリスロード商店街 ジョリビル前に飾られると共に、期間中折鶴でつくったレイが配られてノーモア・ヒロシマ・ナガサキが訴えられました。

 写真は、初日朝6時からなされた飾りつけ作業。今年も、明治学院東村山高校・会津北嶺高校などからたくさんの青年が参加してくれて、うれしいことでした。

 準備と実施の様子は、ブログやフェイスブックでも見ることができます。「平和七夕」と検索してみてください。全国・世界の多くの方々がつながり、関わってつくり上げられていることがよくわかります。

「聞き、行う人」

ルカによる福音書 6章16~49節
サムエル記下 23章1~7節

 

 “平地の説教”(6:20~49)も平行箇所の“山上の説教”(マタイ5:1~7:29)も、主の47「言葉を聞き…行う」ことの大切さで締めくくられています。

 48「洪水」とは、時に巡り来る試練を指していましょう。震災研修に来た高校生から“被災経験をたくさん聞いて、苦しく泣きそうなこの思いをどうしたらいいでしょう”と訊ねられ、私自身たじろぎながらも“痛く厳しい出来事の中にも何かを意味を見いだす時、思いは変えられていくのだと思うよ”と答えました。試練のただ中にも立ち現れる“意味”は自ら掴めるものではなく、然るべき時に与えられるのだと思います。試練にも神の栄光を見いだし(ヨハネ9:1~)、無から有を呼び出し(ローマ4:17)、死に救いを顕わされた(24:46~47)主なる神を私たちは仰ぎ、試練にも復活の光が与えられることを信じ求めるのです。十字架と復活という深い48「土台」に根ざした47「言葉」に聞き、生きなさいと教えられています。

 イスラエル史上最も偉大な王とされる 1「ダビデ」の最後の言葉を記すに際し聖書は、もともと羊飼い 1「エッサイの子」であった彼が主に 1「高く上げられ」 1「油注がれた」のだとその生涯を総括します。そしてダビデ自身も 5「神と共にあって私の家は確かに立つ」のであり、自らの愚かさと罪を超えて(サムエル下11:1~12:23) 4「光」 5「救い」 5「喜び」は神から来ると告白したのでした。 2「主の言葉」に生きる者の幸いと強さを思います。

平和主日礼拝 「あなたの裁きを求めます」

ルカによる福音書 6章37~38節
イザヤ書 26章7~12節

 ガリラヤ宣教の途中、多くの聴衆に語られた “平地の説教” (17節)の一部です。ここで主イエスは37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。」という形で、37「罪人だと決めるな」37「赦しなさい」38「与えなさい」と教えられました。この言葉は、人に優しく寛大にせよとの教えに留まりません。むしろ人は破れを抱え、罪人として裁かれ、赦され、与えられねばならない存在であることが告げられていましょう(39~42節)。

 誰が世と私たちを正しく裁き赦しへと導き得るのか、それは全てをご存じであり完成へと導かれる主なる神によってです。併せ開いたイザヤ26:7~には、主は混乱・混沌を超えて12「すべての業を成し遂げ」12「平和」へと導かれるのであり、その 9「裁きが地に行われるとき、世界に住む人々は正しさを学ぶ」と歌われています。 7「神に従う者の行く道は平ら」とは、その主に信頼する者は出会う困難をも乗り越え平和を待ち望み得ることを指していましょう。

 私たちは別のことと捉えがちですが、主のもとで裁きと赦しはつながっています。そのことは主ご自身が人となり、罪の裁きを十字架で受けとめられて裁きと赦しが一つにされたことに示されています。あなたがたはこのように37「赦され」豊かに38「与えられ」ている、だから隣人をも37「赦し」38「与えなさい」と告げられています。

「安息日の主」

ルカによる福音書 6章1~5節
出エジプト記 20章8~11節

 

 1「安息日」は十戒で休息と神礼拝のときと定められたもので、金曜日没~土曜日没の一日がこれに当たります。11「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから」と神による天地創造がその根拠として挙げられています。そしてユダヤ人のみならず全ての人さらには家畜にも、言わば創られたすべての命がこの休息に与るべきと指し示されています。

 安息日規定はもう一つ申5:12~にもあり、ここでは15「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばして…導き出された」と出エジプトの出来事が根拠とされています。

 なぜこの日は10「いかなる仕事もしてはならない」とされるのか、それは命の基本的なあり方を思い起こすためです。仕事は何かを生み出し手にするためになされます。でも“持つ”ことが命を保障するのではありません。それに先立ち命は与えられ救われて“在る”のであり、この基本を忘れるとき命は根拠を見失い隷属に逆戻りしていくのです。

 ところがこうした伝統を受け継いでいるはずの 2「ファリサイ派」の人たちは、弟子たちのしたことは収穫・脱穀にあたるから律法違反だと見咎めたのです。こうした変質を主イエスは嘆きつつ、 5「人の子は安息日の主である」と言われました。この言葉をどのように受け止めたらよいでしょう。主イエスは、安息日がすべての人の祝福と解放の日であることを宣言されると共に、その平和に人々を呼び帰すためにご自身 5「人の子」として降り立たれたのでした。この主を仰ぐ信仰者たちはのち、主が復活を遂げられた日を安息日・主日としました。

 ここの 5「人の子」との言葉はすべての命をも指していましょう。私たちも主日の礼拝において命が主なる神の恵みと救いの内に置かれているその基本を確かめ、一週の旅路へと出発するのです。

「新しい布、新しい革袋、新しい生き方」

ルカによる福音書 5章33~39節
イザヤ書 42章1~9節

 

 皆が33「断食」しているのに33「あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしている」とその常識外れを問われたとき、主イエスは36「新しい…布切れ」37「新しいぶどう酒」の譬を語られました。晒していない36「新しい…布」は収縮度が高く37「新しいぶどう酒」はガスを含んでいて、36「古い服」37「古い革袋」を損なってしまいます。そのように主イエスのみ業はダイナミックであって、古いあり様では受け止めきれないことを教えられたのでした。

 併せ開いたイザヤ42章でも人の思いを超えゆく主のみ業が語られています。 9「成就した」 9「初めのこと」とは、異国ペルシアの王キュロスによるバビロン捕囚からの解放でした。これも思いもしなかった天の配剤でしたが、さらにこれを超えゆく 9「新しいことを…告げよう」と主は語られたのでした。

 3「傷ついた葦を折ることなく…裁きを…確かなものとする」 1「僕」とは、仕える仕方で福音を告げ知らせ自ら十字架へと進まれた主イエスを思わせます。さらにこの主が今も生きて、私たちの思いと行いに先立ち 9「新しいこと」を起こして歴史を導かれることがここでは指し示されていましょう。

 主イエスは先の譬を語られると共に、福音がもたらされた今は34「婚礼」にも比すべき喜びの時なのだと告げられました。私たちは礼拝において、この喜びに立ち戻ります。バビロン捕囚から帰還した民は「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。…主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」との呼びかけのもと礼拝を再開し、共々に喜び祝いました(ネヘミヤ 8:10~12)。私たちも主の臨在とそのみ業を喜び祝う中で、新しい一週を新しく生きるべく派遣されて行くのです。

「床を担いで家に帰りなさい」

ルカによる福音書 5章17~26節
詩編 78編40~58節

 

 当時の18「家」は箱型で外階段があり19「屋根」は木の枝や日干し煉瓦・土などで出来ていましたから、穴をあけることは難しいことではありませんでした。が、19「人々」が集まっているその真上から穴をあけ19「病人を床ごとつり降ろした」というのは、あまりに大胆そして非常識な行動です。

 この病人と連れてきた18「男たち」は強い絆で結ばれていたのでしょう。主イエスの評判を聞きつけ、重荷を一刻も早く取り除いてほしいと18「床」に乗せた彼を懸命に運んで来たのです。主イエスは20「その人たちの信仰を見て」、20「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言されたのでした。

 ところが人々の一部から訝りが起こりました、21「神のほかに…だれが罪を赦すことができるだろうか」。これに対し主イエスは、23「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と訊ねられたとあります。口で罪の赦しを言うのは簡単だ、と人々は考えたかも知れません。が、主イエスのこの宣言は容易く発せられたものではありませんでした。

 20「罪」の原意は“的を外す”ということです。神の恵みの許に創られ養われながら繰り返しこれを裏切ったイスラエルの民を指弾する詩78編は、その罪について57「真実を失い、狂った弓のようにねじれた」(口語訳)と記しています。喜びを希望を平和を願いながら互いに傷つけあう世と私たちは、このねじれを断ちがたく纏っています。この罪の呪縛から神の大いなる祝福へと世と被造物を解放するために、主イエスは十字架へと進まれたのです。

 癒された彼に、主イエスは24「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。24「家」とはこれからの歩みのこと、24「床」は彼がしてもらった重荷の担い合いを指していましょう。神の赦しのもと互いに支え合い生きること、それが罪に勝って生きる道だと主は彼を、人々を、そして私たちを送り出されたのです。

7月のおたより

 7月に入り、仙台の気候は蒸し暑くなったり涼しさに戻ったりと乱高下しています。体調はいかがでしょうか。それぞれにまもりをお祈りします。

 さて、七ヶ浜町のジレットハウスは今年も7月~8月中旬までほぼいっぱいの予約で、教会・学校・ボーイスカウト・スポーツクラブそして個人など各方面に広く利用されています。

 利用が多いとどうしても各所に不具合が生じます。また敷地内外の草も伸びる季節、教会からはジレット部会を中心に、毎月のように清掃・修繕・草刈りなどの作業に出かけています。この9日にも行われました。作業が終わって、皆さんの表情には達成感も感じられますね。ご奉仕くださった方々、お疲れ様でした。

 エアコンなどはありませんが、吹きわたる海風そして響く波の音もあり、ほぼ快適に過ごせるジレットハウスです。この夏のそれぞれの活動が充実したものとなりますように。