説教


2025年4月13日 説教準備
マタイ27章
「イエスの十字架」・・・十字架への道(聖書日課のタイトル)
suisen <導入>
今、巷を騒がしているSNSによる、フェイクニュースと真実について、4月8日の毎日新聞の火論で、映画「ゲッペルス ヒトラーをプロヂュースした男」(11日から全国公開)の中で、ナチス・ドイツの知られざる舞台裏に迫り、ゲッペルスはヒトラーの信頼を取り戻すために陰謀論やフェイクニュースで大衆を扇動し、ゲッペルスの小さな野心やプライド、出世欲が、大衆を動かし、ユダヤ人の大虐殺の波を引き起こしました。
役人であったゲッペルスはまず、身内の役人や軍人をだまし、大衆向けにはライブ演説、ラジオ放送、翌日に新聞で報じ、すべてを治めたニュース映画でおさらいさせる。単純なキーワードを繰り返し、脳裏に焼き付ける、最強の宣伝手法を築き上げた。
兵庫の知事選で、立花氏が行った、演説とSNSでの発信及び拡散の手法はまさに、ゲッペルスが用いた最強の手法に、大衆は騙され、知事の再選を果たしてしまった。
火論の中でも、この映画が2024年ミュンヘン国際映画祭で、観客賞を受賞したのは、ゲッペルスの手法が現代のSNS(交流サイト)社会にも通じるからだろうと述べ、監督は「希代の悪人を知らなければ、現在の扇動家達の正体を暴くことはできない」と訴える。ホロコーストの生還者が現代への警告として響く。と締めくくっている。
果たしてこの悪の正体は、“小さな野心、プライド、出世欲”であり、人との関係の中でしか起こらない心、その心は神の前では意味を持たない、どれも、神の愛のない、神を愛さない、愛されていることを知らない。むなしい心であります。
<黙想>
その虚しい悪をも救う、イエスの十字架の道は何処から始まっているのでしょう、父なる神の思いとしては、パウロによれば(ガラテア書3:14 それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。)と記されている様に、アブラハムの祝福がその子孫の信仰が継承され、イスラエルの国が、律法・十戒(出エジプト20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。)を順守し平和を保つことができれば、イスラエルの民が、近隣諸国の民に祝福を与えられ、律法を守る信仰で、神の祝福が得られ、この地上に平安な、エデンの園を取り戻すことができたのです。
しかし、イスラエルも諸国の奪い合いの騒乱に巻き込まれ、神の戒めを守るどころか、汝殺すなかれという戒めを犯し、そのことを正当化してしまう軍隊を持つ王国(サムエル記上 8:8-9 彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。 8:9 今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、・・・)をつくった挙句の果てに、アッシリア、バビロン大国に侵略され、イエス・キリストの時代には、ローマの圧政下にありました。
他国と争うということは、負ければ、土地や人、そして自分の心も、信仰も奪われるのです。勝っても、国を維持するために、ソロモンのように、信仰を奪われてしまうのです(列王記上11:4-5)。
イエス様の教えは、唯一の神を「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くし愛しなさい。」(マルコ12:29)そして、「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12:31)と教えています。隣人愛については語り尽くされて来ていますが、一番目の神を愛するということは、あまり語られてきていないように思います。
神を愛さないで、隣人を自分のように愛しなさい。というと、自分が神を愛していない、神はどのように人を愛しているか、という事を考えない場合、隣人愛の意味を変えてしまうのです。簡単に言えば、神の愛を抜いてしまうと、単に自分と同じように隣人を愛することになります。
今風に言えば、隣人の個性を無視して自分の様に大切にすればよい。という事になります。
隣人は、自分とみな違うのです、神様からそれぞれ異なった賜物を与えられている(ロマ 12:6)。という事を無視することになります。
愛は、戒律(出エジプト記20:13-17)に記されているわけです。隣人の物を奪わない、隣人のものを欲しがらない、盗まない、殺さない、姦淫しないという愛なのです。ということは、隣人が神から賜った命や心を大事にし、自分と違う存在として認めることが愛するという事なのです。
suisen その事は、自分が神から与えられた命、家族、住まいや生きる生業を大事にするように、隣人にもそうしなさいということなのです。
神を愛するということ、神を信じなさいではないのです、神を愛せよといわれているのです。そして、その愛は、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして愛しなさい。と語られます。
心を尽くすって、人を愛する心、子供や妻を愛する心、その心を尽くしなさい、子供や妻や家族よりも心を尽くして、神を愛しなさい。ということです。これは何も家族をないがしろにしなさいとは言っていません。家族も神から与えられた賜物として、愛し大事にしますが、神を優先にすることではなく、神の愛を前提とし、基盤として、神の愛によって、家族を愛しなさいといわれているのです。アブラハムのイサクの奉献(創世記22:2)のように、アブラハムが神の思いに従って行うことで、神は、イサクをも生かしてくださいました。
<説教時に挿入>愛はその人をその人として認める事が愛なのです。例話として、重度の知的障害者の意図的排尿が、作業時にないのに、生活棟で過ごすときに“なぜ起きるか”と考える事から、その人がどういう人かを認識しようとします。そして、作業中に意図的排尿がない事は、一緒に作業している障碍者がその方への感謝の応対(頭をなでて「ありがとう」)である事に気付く。生活棟でも彼の役割として、職員のお手伝いをしてもらい、感謝の応対を行う事で、お手伝いをした職員がとうにいる間、意図的排尿が無く落ち着いて過ごすことができました。
私たちもお互いに認め合うこと、それは神と人の愛も認め合うことから始まるのです。
神は、私たちを愛しています、アクセルの少し踏みすぎただけ、ブレーキと踏み違える人間が高速道路を運転して、事故を起こさないことだけでも、神に守られていて、神が私たちの存在を認めていて下さっている、神の愛なのです。
先ほどお読みしました、聖書個所から、イエス様の十字架の意味をご一緒にお読みしましょう。
kamo ◆十字架につけられる
★イエス十字架を担ぐキレネ人シモン
27:32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。
27:33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、
27:34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
▲32節で、イエスは十字架を担ぎ、シモンが替わってローマ兵に無理やり担がされ、
33節で、ゴルゴだという場所に着き、
34節で、苦い葡萄酒を飲まされ、イエスは舐めただけでした。
※ここに、イエス様の十字架は、イエス様が担いだだけではなく、見物人の何の縁もゆかりも無い、キレネ人のシオンが、イエスの十字架を担ったのです。私たち一人ひとり、イエス様の十字架を担っているといえます。
キレネ人のシオンが自分の思いとは関係なく、イエスの十字架を自分の事の様に十字架を担ってくれたのです。そして、福音書で
マル 8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
と、自分の思いを捨てという事は、自分の思いではなく、自分が負える、イエスの十字架を背負って従いなさい。と記されているのです。
そして、イエス様は確かに十字架を背負って、歩かれた事、ローマ兵によって、ゴルゴタの丘へ行き、苦いぶどう酒をなめられたのです。イエスは歩いてゴルゴタに連れてこられ、葡萄酒をなめたのです。
この時代に、エルサレムのゴルゴタの地で、苦い葡萄酒をなめたのです。この時間的、空間的事実は歴史的にゆるぎない確かな出来事なのです。
苦さは、何なのかが気になります。
そこに、イエスの実存、実際にその時、その場所にいたのです、一緒に歩いたのは、ローマ兵だけではなく、十字架を担がされたシモンも一緒だったのです。
そして、マタイ福音書では、十字架を背負って辛い思いをしてきた、イエス様に苦い葡萄酒を飲ませる苦しみを与えようとしたように読めますが、マルコ福音書では、ミラルお言われる没薬を入れて麻薬とした葡萄酒で、痛み辛さを和らげるものを与えて、苦しみを和らげようとしたと、読むことが出来ます。イエス様の疲れを思い、シモンに十字架を担がせたローマ兵です、より苦しさ、辛さを味わわせようとは思いません。したがってマルコの記すことが妥当かと思います。
★十字架につけられたイエスの周り
27:35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、
27:36 そこに座って見張りをしていた。
27:37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
27:38 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
▲35節の、くじを引く兵士たちは、詩編22篇19節に記されているように、百年以上の時を超えて、イエスの十字架を示されていたことを、詩篇に記されているわけです。そして、今、2025年の今、イエスの着ている衣服をくじを引いているわけではないですが、カトリックでは、十字架からおろされた後の衣類が、聖衣とされ、イエスのまとった衣とされ、今に伝承されています。
37節で、イエスの罪状、「これはユダヤ人の王イエスである」、この人ではなく、“これ”と記されていることは、人ではなく、十字架に着けられたイエスは、つけられた時点で、罪びとの人から、人ではない肉の塊でしかないことになります。そのことは詩篇22篇7節22:7 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。に重なります。
それを裏付けるかのように、38節で、二人の強盗が左右に一人ずつ十字架につけられています。強盗で死刑になる人たちは、大罪を犯した“人でなし”の方たちで、イエスの罪状の“これ”に匹敵します。それは、衣類すら自分のものではない。人として認められていないのです。
ガラテア3:13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。
とパウロは、呪われたものまでも主は十字架の木にかかって、贖ってくださるといわれています。
kamo ★39-44で、イエスの周りには、人であることを奪うだけではないのです。
27:39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
27:40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
27:41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
27:44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
▲奪うだけでは飽き足らず、ののしりに至るのです。
39節の、頭を振りながらイエスを“ののしって”については、詩篇22篇8節に
詩篇22:8 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。
に重なった表現が見られます。
40節で、神の子であることを示すように、求めてののしり、嘲ります。
信じない者を主は癒さないのです(マルコ9:24 転換の息子を持つ父親の問答、“できれば”との願いに、“信じないのか?”)
イエスはすでに神の業を数々行い、人の病をいやしたり、歩けない人を助けていますが、イエスご自身をいまだ助けたことはないのです。それは、御子イエスがとことん、へりくだって人となられたので、人となった自分を助け救う必要はないのです。なぜなら、イエス様は神の子で、十字架で死しても、なお神の子なのです。そのために十字架につけられているのです。
41〜43節は、祭司長たちも律法学者たちや長老の蔑み、“今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」”とののしったように、神の子を罵り、嘲る、彼らをも救うために十字架につけられていることを理解できないだけではなく、むしろイエスが本当に神の子なら、ここで神の力を使って、ローマの兵士たちから、イエス自信を解放して、ユダヤの民も、ローマから解放されるのではと期待したのかもしれません。・・・?!
何故、ユダヤがローマに占領されたか、彼らは考えが及ばず、神に問うこともなく、ただ願い期待するだけで、御子を与えられても、自分達の既得権を守りたいだけなのです。それが叶わないため(マタ 6:24)、イエス・キリストを十字架に付けてしまうのです。
神の教えである十戒に従わない限り、貪り争いあう、富と権力の欲望の支配の中に在るわけですから、ローマから解放されても、ローマに代わる権力や武力に支配されてしまうのです。
43節の27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。
は、詩篇22篇22:9 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」に重なります。
イエスを十字架に着けたことで、彼らの罪が明らかにされたのです。それは、神に背く罪です。神からの賜物としてイエス・キリストを受け取らない、御子イエスをキリストとして受け入れられない、人間の権力に頼る弱さです、イエスはこの世の権力を持たず、武力も持たないために、世の権力者は、この世の権力より弱いものとして、神の業や力を示しても、この世の権力者にとって、利益にならないのです。
地に富を蓄える権力者と、富を天に蓄えなさいといわれるイエス(マタ 6:20 富は、天に積みなさい。)とは真逆なのです。そのような権力者が、キリスト、メシアである、イエス・キリスト。
御子イエスが私たちより、低く、つらい状況(詩篇22:7 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。)になるわけがないと考える、彼らの罪なのです。神は貧しい人、そして罪びとのために共に居て下さるのです。
御子イエスは、人となり、へりくだって尚、貧しい民、罪びととともなるすべての民を救うため来られたのです。
ピリピ書2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
mitu8 ◆イエスの死
27:45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
27:47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。
27:48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。
27:49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
27:50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
▲45節で、全地が暗くなった、しかも12時から15時という3時間という事は、自然現象としての日蝕ではありえない事です。
46節で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれています。これは先の衣類をくじ引きしている詩篇22篇の冒頭の聖句なのです。ですから、ユダヤの人たちは会堂でよく聞いている聖句で、5節〜6節で、「22:5 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。 22:6 助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。」
と神を信頼しています。そして7節〜9節で、「22:7 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。 22:8 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。 22:9 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」 22:10 わたしを母の胎から取り出し/その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。」
と、自らを虫けらにまで、へりくだっても、8節の様に、頭を振って、嘲笑われても、(罵られても:十字架上のイエス)、
そして、22篇の最後30節から31節には、30節b・・・わたしの魂は必ず命を得ることを信じているのです。
詩編22:30b、-32わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。
と、神の救いは確かである事、神の救いの恵みの内に私たちがあることを、イエス様は十字架上で、ユダヤの民に、聖書を読み聞いているユダヤの民に向かって大きな声で叫ばれ、神をたたえたのです。そして、息を引き取られたのです。
ピラトの前で、カヤファの前で、弁明しなかったイエス様の答えが、この詩篇22篇全編であると、イエス様は十字架上で、「エロイ エロイ サバクタニ」と叫ばれたのです。
冒頭で、お話ししたゲッペルスが、ヒットラーの信頼を得ようとした、事は、小さな野心やプライド、出世欲が、ユダヤ人の大虐殺の波を引き起こしたと記し、そして、その記事の最後に監督は「希代の悪人を知らなければ、現在の扇動家達の正体を暴くことはできない」と述べられています。その悪人はヒトラーで、悪人を悪人タラシメたのはゲッペルスで、そのゲッペルスは、“野心やプライド、出世欲”がヒトラーを担ぎあげてしまったという事です。悪人を悪にしてしまった根源にあるものは、“野心やプライド、出世欲”普通の人が持っている思い、やきもちで、そこには、神への愛、隣人愛がなかったのです。
家族への愛はあったかもしれませんが、神不在の愛なのです。それは、“汝殺すなかれ”の愛の戒めがないから、大量虐殺が可能になってしまったのです。
mitu8 祈ります
イエス・キリストの父なる神様、主が私たちのために、人間の屑となって、虫けらになって、十字架にかかられたことが、私たちの罪や辛さ苦しさを共にイエス様が担われてくださっている事を改めて知ることが出来ました。感謝です。私達もあなたに愛されている重さで、あなたを愛し、隣人を愛することが出来ますように、導いてください。尽くさざる感謝と願いを主イエス・キリストの御名によってお捧げ致します。アーメン

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