●礼拝後の証言 / 高橋真美

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 「1945年4月1日、米軍が岬に上陸したと聞いた私たちはガマ(鍾乳洞 漆黒の闇、いつまでも慣れることのない暗やみの洞窟)に入りました。何一つ持たずに、ただ懐に家にあったネズミ取りの薬を隠していました。ガマの奥のその奥に私たちはうずくまりました。私は、みこころならば私の命をお召し下さいと祈り続けていました。

 朝も夕も判らないままに時が経っていきます。私は持っていた薬を一口なめました。変な匂いがして気分が悪くなり手元にあった水をガブガブ飲みました。村の人が来てガマから出るようにと云われたのですが、恐ろしいのと薬が効いたのか嘔吐をくりかえし動けませんでした。

 それからどの位経ったのでしょうか、村の人がガマに入ってきて、先に出た人は皆無事だよ。あんたも早くここから出ようと云われて、外に出る決心をしました。外に出ると誰かが、今日は4月8日イースターサンデーだよと教えてくれた記憶があります。それから58年経った今日まで、私はそのガマに一度も行ったことはないのです」。

 その時20歳だったご婦人は笑顔でこの体験を話してくれましたが、最後の言葉、「58年経った今日もそのガマに行っていない」に私は彼女の胸のうちを見た思いがしました。

 「私は戦争中、四国にいました。柵に囲まれた土地に朝鮮の人が住んでいました。その外に私たち沖縄出身が住んでいましたが、その周囲にも柵があり、私たちの友達はその朝鮮の人達でした。内地の人とは遊ばず、内地の子ども達は私たちに石を投げたりしたものです。そして敗戦。ある日私たちは沖縄は全滅したので、沖縄に帰る様に云われて帰ってきました。頼れる親戚は全滅でしたが、この地で、自分の故郷でも私たちは沖縄の言葉が判らない話せない、顔の色が白いといじめられました。私は親戚が全滅したというガマについこの間入口まで行ってみたばかりです」。

 40代のご婦人は、「私の母はあの沖縄戦を体験したのに、ごく最近まで口を開きませんでした。私のこども達が学校の宿題で、おじいさん、おばあさんに戦争の話しを聞いてくるようにと云われて、母は孫達にやっと自分の体験を話し出したのでした。私はその時、はじめて母の沖縄戦を知ったのでした」。

 これらは、2月16日読谷教会で礼拝後に親しく語って下さった方々のお話です 

 重い重い課題を抱えて帰ってきた…。これが私の実感です。沖縄の方々の声が私の背中を押し出しているこれも今の私の実感です。何をすればいいのか焦ります。でも自分の足元から始めるしかないですね。

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