●孫と向き合って / 宮原啓佐

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 昨年私にも孫が授かり「じいちゃん」を味わっている。生まれて病院から家に来た時は、私の手に抱かれないと眠らず「魔法の手」と言われたものだ。名前を新しいスターがこの家に来たとのことから「星来」と命名したとの事。
 
 生後半年を越える辺りから、なぜが私の顔を見るたびに泣きじゃくり困った事となった。身内で眼鏡をかけているのが私だけの為、出来るだけ好かれるようなスタイルの眼鏡をかけてみたが状態は変化しなかった。通称「かめっこ」と言われる状態に入った。
 
 娘は私に気を使い孫に対して「星来、どこから見てもじいちゃんでしょう。食べたりなどしないから行ってごらん」と言うが、母親を離れずしっかりと両手でしがみ付いている。本当は食べたい位ツルツルした肌だし、ギュッと抱いてやりたいくらい愛らしいのだが……。最近では一応私を「じいちゃん」と認識し「じいちゃん」という言葉にこちらを向き、にこ〜っと見てくれる。この顔には目じりも下がりなんとも言えない愛らしさを感じ、世界一可愛いと思う幸せを味わせてもらっている。
 
 二人だけでいても、前のように泣いたり慌てて親を探し回ったりせず、一緒にいられるようになった。孫は睡眠も食事も十分に満足した状態のとき、周りで祖母が母親が声をかけても見向きもせず自分の好きなおもちゃ遊びで夢中になっている。
 
 私の家から孫の家に帰るときなど遊びを妨げられ、帰る準備をする母親と一悶着が勃発する。もう少し過ぎると手を繋いで「じいちゃん、散歩に行こう」などという日がくるのでは、と思える。
 
 神様と私を考えると、まったく孫と同じようなことをしている自分に気づく。私は一番居心地の良い場所を常に追い求め、自分勝手に生きている。いざ、問題が起きると「苦しい時の神頼み」のように祈る自分の姿を視る。本当はいつも神様が一緒にいて下さり共に歩いてくれているのに……。私が順調なときは誰にも世話にならないと横柄な態度で生き、二つの足跡を見ている。いつしか足跡が一つになると私に何が起きているとき。神様が傍にいるときと私を背負っていて下さるときの姿がその足跡……。
 
 嬉しいときも悲しいときも、常に神様を第一に考え、孫の成長を見つめつつ人生をしっかりと歩いて生きたいと思う。

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