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吉岡健児さんの戦争証言

2007年12月2日

「南海の孤島 父島の激戦現場から 硫黄島の戦闘に関連して」

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九条の会・会津若松主催 公開講演会全内容  記録:高橋力

 演題:「南海の孤島 父島の激戦現場から 硫黄島の戦闘に関連して」

 日時:2007年12月2日(日)13:30〜 会津若松市東公民館

 講師:吉岡健児さん 

 元陸軍中尉、父島通信隊長、小田原九条の会会員、日本基督教団小田原教会員


■高橋力代表の挨拶と講師ご紹介:

 先ず元ドイツ大統領ヴァイツゼッカーの言葉をご紹介します。
「過去に目をつぶるものは、未来にも目を向けることはできない」。
戦争の出来る国への道を辿る我が国の危険な空気を感じます。戦争を知らない政治家たち、若者たちにその実態を知らせることも「九条の会」の努めです。
 本日、小田原からお招きした吉岡健児さんは89歳です。今年春にご依頼した時には「なにしろ高齢なのでご迷惑をかけることになるのが心配で…」とお断りを頂きました。そうだろうなあとやや諦めかけていたある日、吉岡さんからお電話がありました。「先日はお断りしましたが、娘にこのことを話しましたら、このような話しはお父さんにしか出来ない。だから行ってらっしゃい。心配なら私がついて行くから」ということです。会津若松に参ります」ということで、昨日奥様、娘さんと3人でお出で下さいました。それで今日の講演会が実現したのです。(会場から拍手)
 個人的には次女の善実の初勤務所「にじの家」(千葉館山の隠退婦人牧師の家)の管理人さん。その頃からのおつきあいを頂いていました。

 それでは拍手でお迎えしましょう。併わせてもう一つお願いがあります。質問表を用意しました。多くのご質問があると思いますが、箇条書きに出していただく内容を、お話が終わった段階で項目毎に纏めて司会者が質問するという方法にいたします。


■吉岡健児さんの戦争証言:

 こんにちは。ご紹介いただいた吉岡です。心配していました風邪も引かないでここに立てましたことを本当にうれしく思います。私は今ご紹介があったように89歳の年寄りです。先の戦争、私にとってはついこないだ、のように感じるので、ついこの前の戦争、と言ってしまいます。お若い方には随分前のことかもしれませんが、私はまだそこにいるような思いです。軍隊に入っていましたから、そこで初めから終わりまで全部体験してきましたから、ついこの前の戦争と言ってしまいます。
 先日古い新聞の切り抜きの中に、前の沖縄県知事 太田昌秀さんの対談記事を見つけました。そこにはこう書かれてありました。「人が物事を理解するには、体験を通すのが一番いい。しかし戦争を体験するわけにはいきません。だから体験した人の【生の声】に耳を傾けて、二度とそのような状況をつくらない様に努力しなければなりません。平和のときのどんな苦労も、一旦戦争になったときの苦労に比べれば苦労のうちに入りません」と。私も全くそう思います。
 この会場におられる会津若松の方々の中にも、軍隊で、又は家庭を護り、また外地で、引揚で、空襲で、徴用で大変なご苦労、難儀をなさった方がおいででしょう。お話しを伺いたいものです。
 私は今日、自分の長かった軍隊生活のなかで体験した戦闘とそれを通じての色々な思いを《一人の語り部》として話したいと思います。

 皆さんは硫黄島という島をご存知ですか。地図を開くと東京湾から太平洋に向かって、南に南に点々と島が続きます。三宅島や八丈島などの伊豆諸島です。さらにずっと南に行くとまたチョンチョンと点が現れるのが小田原群島です。聟島、父島、母島など、そしてその群島の最先端、本土より1200kmに浮かぶ小さな島がその硫黄島です。
 この小島こそが、かつての日米戦争のときに、日米相互の戦史に大きく残る激しく闘った戦場です。特に米国民には今もって忘れられない激戦の地として、ワシントンには摺鉢山に星条旗を掲げた6人の海兵隊の勇士を讃えるブロンズ像が建てられています。また小笠原群島は戦後長くアメリカの統治のもとにおかれ1968年に返還されましたが、その際、硫黄島だけは米国に残す様にとのアメリカ人の声が大きかったと米国公文書公開が伝えています。
 半年程前に、この戦闘を描いた米国の有名な映画監督イーストウッドによる2本の映画が公開されて評判になりました。テレビでもうつされましたのでご覧になった方もおいででしょう。『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』です。私はこの映画の最初の場面に、敵の猛烈な艦砲の集中射撃、空からの爆撃のもとに、硫黄島の摺鉢山が爆煙に包まれて画面一杯に映し出された時、思わず“ううっ"とうなり足を突っ張りました。あの爆煙の下に、私の一番親しい同期の友がいるのです。そいつがそこに頑張っているのです。思わず“あっ!"と声を出してしまいました。

 その時私は何所にいたかと言えば硫黄島ではなく、私の守備位置は硫黄島の隣りの父島でした。そもそも硫黄島と父島とは200kmも離れていますが、同じ一つの師団で、それぞれに2万人前後の陸海軍がいました。そして戦闘を指揮する師団司令部は硫黄島に置かれ、師団長は陸軍の栗林忠道中将でした。このため、父島には硫黄島の師団司令部から派遣された《父島派遣師団司令部》という機関が設けられ、私はそこで師団通信隊長をつとめていました。私の通信隊の重要な役目は、硫黄島の司令部と東京の大本営との間の無線通信の中継でした。硫黄島には師団通信隊の本隊がいますが、直接大本営と通信出来る大きな通信設備がなかったので、大本営との間の交信は全て父島経由でした。かねてから父島には要塞があって強力な通信設備が備わっていたのです。このようなわけで,私は無線を通じて硫黄島の戦いに初めから終わりまで関わることになったのでした。当時私は27歳の陸軍少尉でした。
 昭和20年2月16日、米軍の機動部隊が硫黄島に攻撃を仕掛けてきました。航空母艦、戦艦、巡洋艦、其の他の軍艦。そして7万人の海兵隊を載せた輸送船など450隻の艦船が硫黄島を取り囲みました。硫黄島は南北8km、東西4km、面積は裏磐梯の桧原湖を二つ合わせた程度。なだらかな丘続きで南の突端に標高160mの摺鉢山がポツンと立つ単調な小島ですから、硫黄島は450隻の艦船に本当にすっぽり取り囲まれたのです。

 これに対して迎え撃つのは栗林中将の率いる陸海軍21,000名。飛行機は一機もなし。小型の大砲(迫撃砲、臼砲、ロケット砲)や機関銃、小銃など、弾薬の貯蔵は相当ありましたが、時既に日本の誇った帝国海軍連合艦隊は壊滅的な損害を被っていたので、島の外からの援助は内地からは勿論のこと、同じ父島からも期待出来ず、全くの孤立無援な状況でした。ですからアメリカは硫黄島を五日間で攻め落とし、ここに日本本土を爆撃する基地をつくり、すぐに沖縄戦に転じようとしていました。栗林中将が師団長として硫黄島に着任したのは丁度帝国海軍連合艦隊がフィリピン沖の海戦で殆ど沈んでしまったときでした。
 そこで栗林司令官は米軍に正面から闘うという従来からの日本軍の戦法を捨て、この戦闘に勝つことは出来ないが、敵を出来るだけこの島に釘付けにして他方面に向かわせないようにして、この間に本土防備の時間稼ぎに徹しようと考えたのです。戦闘のやりかたなど皆さんには余り興味のないことかもしれませんが、少し説明させていただきます。

 私は元来が砲兵でした。星一つの最下級の兵隊時代から教えられ鍛えられたのは、敵とは正面から射ち合い打ち勝つことでした。島を守る時に攻めてくる敵の最大の弱点は、敵が輸送船から上陸用舟艇に乗り換えて海岸に上陸するときです。これを予め備えていた陣地、トーチカや砲台からの射撃で一挙に叩く。一兵も陸に上げないということで、これを水際作戦といって軍創設以来70年来の伝統的に守って来たことでした。
 しかし栗林中将は米軍の空、海からの砲爆撃の火力の大きいことをサイパン戦などの実例から学び、硫黄島では従来の戦法を根本から変えて、敵を上陸させた上でこちらは地の利を生かして戦うように計画し実行したのでした。その基本は全軍が地下に潜り、敵の空爆、艦砲射撃を避ける。正面からの攻撃を避け、敵がこちらの攻撃範囲に入った時に地上に出て攻撃し、またすぐ地下に潜るというゲリラ的戦法でした。ですから栗林司令官は戦闘が始まる8か月前の着任早々、この戦法を徹底させるように陸軍のみならず海軍をも説き伏せ、先ず島中に壕を掘り、大砲も何も壕の中に引き入れ、壕と壕の間には連絡用の地下トンネルを掘り、徹底的なゲリラ戦法をとらせました。
 このように伝統的な水際作戦を捨てて全軍地下に潜って戦うということを海軍にまで徹底させた栗林司令官の指導力は大したものでした。この説得には勿論反対もあり、その旅団長が解任されたことまでありました。結果としてこの作戦は見事に実ったのですが、しかしトンネル掘りの将兵の苦労は大変なものでした。

 米軍攻撃開始の2ヶ月前まで硫黄島にいて病のために父島に後送された元の砲兵仲間の将校に口から私が直接聞いたことです。彼はこう言っていました。
「あれは本当に辛かった。硫黄島の土は砂岩なのでシャベル一本でも掘れるが、爆撃に耐えるためには10m以上深く掘らねばならぬ。硫黄島はその名の通り10mも掘ると地熱は30度、40度に上がり、硫黄ガスが濃く、5分と中に入っていられない。将兵とも交代交代で潜る。一番の苦労は水。一日水筒一本の配給だった。それで全てを賄わなくてはならなかった」。
 戦争前にいた1000人くらいの民間人たちは天水桶を使い、貯めた雨水を使っていましたが、爆撃でそのような設備は吹っ飛んでしまいます。このような想像を絶する昼夜兼行の突貫工事を重ねながら8ヶ月後、敵を迎えたときにはこのトンンネルの総延長は18kmにも達していました。
 栗林師団長は全将兵にこのように命令して誓わせました。●日中は顔を地上に出すな。●ゲリラに徹し一人で敵兵十人を殺せ。●最期の一兵となっても壕に籠り戦え。●降伏して捕虜になることを許さず。
硫黄島の日本兵はこの命令をよく守り、よく戦いました。
 米軍の記録によると「地上には日本兵はいない。突然背後に現れて機関銃を撃ちまくる。これに立ち向かうと日本兵はすぐに壕に隠れ、今度は横から撃ってくる。どこにいるか全く分からない」。「凹地に集まっていると突然ロケット弾が火の尾を曵いて飛び込んでくる。どこから飛んでくるか分からない。このロケット弾が一番恐ろしい」。

 日本軍がロケット砲を実践で使ったのはこの硫黄島戦が初めてでした。私は砲兵将校でしたから、ロケット砲を硫黄島に送る前に父島で試めし撃ちをした時に立ち会いました。私は初めて見るロケット砲でしたので、どんな大砲が出てくるのか、興味を持っていましたが、現れたのは幅の広い雨樋のようなもの。これを兵が担いで木の脚立に水平にひょいと乗せた。そしてその上に直径約15cm、長さ約1mの砲弾を乗せる。それで準備は終わり。砲弾のお尻をバネ仕掛けの撃鉄でチョンとたたくと砲弾は炎を曵いて2000m先の海に飛んで行った。雨樋と見えたのは大砲の筒だったのでした。私たち重砲兵の扱う要塞砲からみるとまるでオモチャのようでした。こんなものが? と疑問に思たのでしたが、これこそが硫黄島のゲリラ戦で一番の武器となったのでした。
 米軍は当初このような戦闘で日本軍に倍する死傷者を出した。しかし戦車を先頭にその後に歩兵が続き、ひたひたと押し寄せてくる米軍は、戦闘開始後約一ヶ月で硫黄島の大半を制します。その間、日本軍の将兵は戦死者の腹から内蔵を引き出して自分の腹にかぶせ、戦死者を装って、近づく戦車に地雷を仕掛けるなど 戦いに戦いました。
 硫黄島の師団司令部から大本営に連絡する無線交信は全てモールス信号の暗号文で送られてくるのですぐ文面を知ることは出来ませんが、その間に我々通信隊にムシという交信があり(勿論これも暗号文です)、そのムシに「島田伍長戦死、敵が見えて来た」とかの言葉が入ってくるようになり、戦況の切迫が伝わってきました。そして忘れもしません。3月11日、突然「アンゴウショ ヤイタ」との暗号文ではないナマの電文が飛び込んで来た。暗号書を焼くの意味、ナマ文の、これは歩兵ならば聯隊旗を焼く、最期の処置 を示すものです。

 やがて硫黄島の本隊の通信隊長 森田中尉より私に宛てた電文が送られてきました。『ニッポンノ サイゴノショウリヲシンジ ワレワレハサキニユク チチジマノ ゴフントウヲイノル モリタ』と。いよいよ最期のときが来たのです。私は咄嗟に返電の言葉を考えました。モリタ隊長は応召できた元技術者、ひとのいいオヤジさんタイプのひとでした。「俺ゃ硫黄島は嫌だよ。君ぃ行ってくれよぅ」とぼやいていた顔が浮かびます。それは前の年の6月でした。栗林師団長が急に師団司令部を父島から硫黄島に移した。それに伴い私の通信隊も硫黄島に出る命令を受けた。それで船を待っていたところ、丁度東京から硫黄島に向かう便が父島に寄港した。そこでこれに乗り込もうととしたところ、その船に東京で編成した通信隊が乗っていた。そこでこの部隊と私の部隊とが合流して師団通信隊を新たに編成し直すことになり、一旦船を降り再編成の結果、森田中尉が本隊の隊長として半数を率いて硫黄島に行き、私、吉岡少尉は派遣隊に隊長として父島に残るということになった。それは師団長の下には隊の上級者長がゆくという陸軍の慣しのようなものがあり、星一つの差が私の運命を分けたのでした。

 しかし今は感慨にふける時間はない。彼に送る言葉を必死で考えました。「ワレワレハサキニユク」この言葉の心を酌み我々も続くとの思いを伝えたく『ココロオキナクタタカワレヨ チチジマイチドウ ゲンキニテキヲマツ ヨシオカ』と打ちました。そして3月17日の日付に代わる頃、それは本隊の通信兵がキーを打ったのでしょう。
 『サヨナラ サヨナラ オセワニナリマシタ ○○にヨロシク ○○にヨロシク ○○ニ…』と人の名前を次々に、中には住所を添えて、女性の名前もありました。今まさに死に赴かんとする者の一番別れを告げたい人々でしょう。そして やがて『サヨナラ サヨナラ ジカンガナイ ジカンガナイ ジカンガ』とプツンぷと切れ、もう呼びかけても応答はなかった。午前零時、仲間達の最期の斬り込みを思い粛然としました。

 それから三日目後、突然硫黄島から呼びかけてきました。「ホシ サクラ300 ヒガシダイチニアリ」と。ホシ(陸軍)サクラ(海軍)の徽章です。「テリュウダン オクレ」ともありました。当然その手段はありません。これが硫黄島の気持ちでした。こちらから応答しようとすると『マテ マテ』と一方的に送信してきます。その内容は、硫黄島の○○部隊がこのようなことをして戦果を上げた、だれそれはこんな目覚ましい働きをした、などドンドン送ってきました。これは師団長からの殊勲上申でした。中には敵戦車の戦車砲などの装備、鋼鉄の厚さを報らせるものもありました。これも2日半くらいで途絶えます。米国の記録を見ると丁度そのころ、師団長以下、参謀などの最期の斬り込みがあったのでした。(切迫した状況の中での殊勲上申、これは部下の勲章の基準になる師団長の重要な任務の一つです。)

 この硫黄島の激しい戦闘の間に私の父島も毎日のように空襲を受けました。
山の上の司令部から見ると、コンソリデーデッドB24の編隊が一斉に爆弾を投下すると、海の上から真っ白い道ができて、それが島をあっという間に横切ってゆくのです。絨毯爆撃です。沖にびっしり並んでいる艦船からの艦砲射撃も度々でした。
 私の部下の一人、これは戰病死でしたが最期に「リンゴが喰いたい、リンゴが喰いたい」と言って死にました。秋田の男でした。この空襲のさなかでは火葬はできません。煙を見せられないのです。手首だけを焼くことにしました。私が鉈でチョンと手首を叩くと、それはいとも簡単にコロリと土の上に転がりました。
 敵機の空襲は多い日には延べ千機にも及び、従ってこちらの高射砲、機関銃などで撃ち落とした敵機は多い日には延べ30機にもなりました。父島も硫黄島と同じくらいの小さな島ですから、その多くは落下傘で海に落ちて浮上する潜水艦に拾われてゆきましたが、中には島に落ちて捕虜になるものもありました。私は司令部に連行された米軍捕虜の顔を10人程見ました。不思議に思ったことですが、彼らの中には微笑みを浮かべて私たちを見るものもありました。「こいつ、馬鹿じゃないか?」と不審に思いました。もし私がその立場だったら当然自決していたでしょう。
 後で判ったことですが、彼らの考えでは極限まで戦って捕虜となったのだから、むしろ名誉なことと考え、当然「ハーグの国際捕虜条約」による公正な取り扱いを受けると信じていたのでした。しかし日本軍将校の私でさえ、捕虜に関する国際条約などあることさえ知らされず、教えられることもなかったのです。だから彼らが部隊に引き渡された後に処刑されたと聞いても不思議には思いませんでした。
 しかし、栗林司令官が戦死した後の司令官になった者が、島には食料はあったので、飢えのためにではなく士気高揚のためにその捕虜を惨殺してその肝などを宴会に供したことがありました。実は現在のブッシュ大統領の父親のブッシュはその戦闘で撃墜されたのです。その戦闘機は海上に墜落し潜水艦に拾われ一命を取り留めました。戦後彼が大統領として来日した時にある新聞記者に彼は「おれは危うく喰われてしまう所だった」と言ったそうです。勿論当時私たちはブッシュを落としたなどとは思ってもいなかった(笑)。
 この人肉事件は終戦後、戦犯事件としてとりあげられ、私も証人としてグアムでの裁判に関係しました。米兵を喰った人たちの5人が死刑になりました。

 昭和20年8月15日、終戦となりそれから後ずっと私の記憶は、硫黄島の仲間は40日間よく戦った、ということです。結局日本軍の戦死者は約2万名。生還者が約千名。これに対し米国側の死傷者は2万6千名。米国にとってこの小さな島の戦闘は米国海兵隊始まって以来の大激戦地であったのです。あの連中、砲兵、通信の仲間たち、よく戦ったなぁとの思いが心に刻まれたまま、一応決着していました。
 戦後の日本人は 私もその一人ですが、生活の厳しさに終われ、復興の忙しさに巻き込まれ、また世間には精神的に戦争を思い出すのも嫌だ、話しをするのも嫌だと、戦争の思い出を公然と話すのははばかられるという空気でした。が、戦後30年くらいから当時を顧みボツボツ話されるようになり、硫黄島の戦いの数少ない生き残りの人も重い口を開くように語りだしました。
 私はその証言や米国側の記録を読み、あの「サヨナラ サヨナラ」の電報の後に、戦いは終わったのではなくそれに引き続く第二の硫黄島も戦いというものがそこにあったのだ、戦闘というものはもともと残酷なものだが、その残酷の極みともいえるはげしい戦いが続いてあったのだ、犠牲者にとっては第一の戦闘に倍する苦しみであったことを知らされ、ショックでした。
 師団長や幹部が戦死して、一応組織的な戦闘が終わった後にも硫黄島のあちこちの壕には相当数の日本軍将兵は立て篭っていたのです。その数は数千人、いや一万人ともいわれる。米軍は壕内に向け、何度も何度も降伏勧告を繰り返すが、日本軍人はなかなか聞き入れず、降伏か死かの狭間で苦悩し、自決、餓え、渇きの中で死んで行ったのです。目を光らせていたその中に自分の顔があってもちっとも不思議ではないのです。

ある壕では、こんな遺書も遺されてありました。
 「遺書 閣下の私らに対するご親切なご好意、まことに感謝に堪えません。閣下より頂きました煙草も肉の缶詰も有り難く頂戴いたしました。お薦めの降伏の儀は日本武士道の習いとして応ずることは出来ません。もはや水もなく、食もなければ13日午前5時を期し全員自決して天国にまいります。
昭和20年5月13日 日本陸軍中尉 浅田真治
スプルアンス提督殿

 多くの者が、餓え、渇きの中で、降伏か、自決かの間で迷い、降伏してもどうせ殺されると(この思いは圧倒的だった)、自決する者、思い切って壕から這い出して運命をその降伏に賭けようとする者、その降伏を天皇陛下に対する不忠として仲間に殺される者があったのです。お若い方に不忠ということばがお分かりですか? 私のワープロでは“フチュウ"と打っても文字が出てきません。府中競馬になっていまいます(笑)。
 米軍は勧告に応じないと火炎放射器や壕内にガソリンを注ぎこんで火をつけるなど、多くの者がこの時期に死にました。それでも生き残った者も結局自決か餓え渇きで一万人もが死んでしまった。悔しかったろう、苦しかったろう。仲間たちの顔が浮かびます。
 生還者の一人の言葉です。「もし8月15日に“戦争は終わったんだぞ。天皇の言葉があったんだぞ"と手分けしてあちこちの壕に告げて回ることが出来たならば、少なくとも3千人、4千人の命が助かっただろう」。この言葉に触れた時、私は悔しくて、悔しくて涙が止まらなかった。堪らなかった。(絶句)
 何故日本軍人は捕虜になることをこんなに拒んだのだろうか。これは日本の軍人だけの思いだったのでしょうか。いや、婦人、子どもも含んで当時の日本全体の生まれつきのような思想だったのでしょうか。皆さんはどう思われますか?

 軍人たちは投降も勝手な自決も軍の命令で禁止されていました。逃げ場のない極限の状況で、思考力も尽き果てて頭に浮かぶのは、ただ軍の命令だけだったでしょう。このような状況の中で、ようやく投降して生きて帰った一人の兵士の述べたことを読みました。
 「7月23日に米軍の呼びかけがあった。“日本軍の皆さん、頭の上に手を高く上げて外に出て来なさい。皆さんの好きな美味しいお菓子や食べ物が待っています。早く出て来なさい。犬死しないでください"と。それは先に投降した仲間の声だった。一同集まって、自決するか、捕虜になるか? 相談を始めたがだれ一人として先に口を開く者がいない。やがて沈黙が破れて福田が私に“お前、どうする?"と切り出した。私は“じゃ、自決するか"と言うと福田は“しかしなあ"と言う。私は“おいッ 福田。俺たちゃ半年も太陽を見てないんだ。一度太陽を拝んでから死にたいなあ」と言うと、福田は“日本には二千年余り捕虜はいないんだ。もしここで我々が捕まってみろ。『国賊』となるぞ"と言う。再び沈黙が続いた。結局福田と自分の他6名は“もう一度太陽を見て死のう"と壕を出た。しかしあとの3人は米軍の顔を見るのは嫌だといって 壕の奥で手榴弾で自決した」。
 
 私が小学生時代には先ず【教育勅語】を教えられ暗記した“朕おもうに…汝臣民…" と可成り長い文章だが、今でもちゃんと覚えています。修身の時間も国語の時間でも、乃木将軍、東郷元帥、軍神橘中佐、死ンデモクチカララッパヲハナシマセンデシタ、と木口小平、一太郎ヤーイ などここにおいでの年配の方ならよく覚えておられましょう。
 これが日本人の、天皇の臣民の模範の姿だと教えられました。臣民とは天皇の家来です。男の子の外での遊びは圧倒的に戦争ごっこでした。そこでも捕虜は大きな恥でした。
 ですから、十五年戦争の始まりであった満州の柳条湖の鉄道爆破事件の時、私は中学一年生でしたが、日本軍が支那軍(中国)と戦闘を始めたとの号外を手にした時、見た瞬間に電気が身体中に走ったことをよく覚えています。それは恐ろしさではない、いよいよオレたち男の出番が回って来たぞ、との厳粛な興奮でした。これこそ幼児からの臣民教育の成果だったのです。今、教育の方向付けが云々されていますが、教育の恐ろしさを思います。

 こんなことも思い出します。昭和13年にヒットラーユーゲントが訪日しました。ヒトラー青年隊です。ヒトラー ご存知でしょう。ユダヤ人の種を根絶しようとアウシュビッツなどのガス室で何十万人殺した彼です。日本、ドイツ、イタリーの三国同盟ができて、ヨーロッパは第二次世界大戦の直前でした。日本中がヒットラーユーゲントの歓迎に沸き立ちました。殊に女性たちはすぐにユーゲントの服装を真似たり、かっこいいその帽子の毛をつけて被ったり、そしてヒットラーユーゲントの歓迎のうたを歌いました。
?燦たり輝くハーケンクロイッツ(鈎十字の紋章)/万歳 ヒットラーユーゲント/万歳 ナチス? この作詞は北原白秋でした。今この辺りのことを思うと、テレビに映る北朝鮮の姿、あのアナウンサーの特有な抑揚の声、表情。一糸乱れぬ女学生のマスゲーム、そして壇上から手をひらひらさせて立つ将軍さま  肌に泡立つ思いで戦前の日本がだぶります。
 男はみな軍隊にとられ、軍人勅諭で「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」と教えられ、戦陣訓で鍛えられました。「恥を知る者は強し、常に郷党家門の面目を思い、愈々発奮してその期待に応うべし。生きて虜囚(捕虜になること)の辱めを受けず、死して罪科の汚名を残すこと勿れ」と。
 郷党家門の面目とは、捕虜は自分一人の問題ではない。父母兄弟から親類一族までが恥を被ることになる。 恥とは何にたいしてなのか。不忠者の縁者一同は近所付き合いから外される、日本社会からははじけだされる。だから捕虜になるより死ね、ということです。

 沖縄で捕虜になった日本軍人を調べた米軍の記録がNHKで2001年8月14日に放送されました。それによると ●捕虜はほとんどが「不名誉」「生き恥」「戦友たちへの負い目」。捕虜になったのは「罪」であり「誤りを犯した」と信じていた。●捕虜はみな殺される と考えていた。 ●捕虜尋問のときに彼らが必ず戸惑うのは「生きていることを家族に報せる」と告げたときだった。報らせないというと安堵した。彼らの心配は、残した家族への周囲からの目、その扱いであった。
 また別にビルマ方面で捕虜になった者についてのことを読んだことがあるが、ここでも彼らは故郷にしらされることを恐れ、名前の申告に偽名を使う者が多かった。清水次郎長とか石川五右衛門とか、やたらに多かったのが東海林太郎とか。今ならさしずめ「キムタク」か?(笑) 私にもこの心境はよく分かります。捕虜のみならず軍人は、表向きには“天皇陛下の御ために"と言いますが、本当の心境はみな家族のため、その安泰を願っています。

 硫黄島の壕の中で、捕虜になっても生き延びようか、自決しようかとの心の葛藤の前に厳然と立ちはだかるのは、生きては国に帰してくれない日の丸の小旗を打ち振って送ってくれた国防婦人会の白い割烹着姿の厚い壁ではなかったろうか。僕が垣間みたのはその壁の間に涙する母の顔だった。
 B/C級戦犯の人の絞首刑直前に友人に残した言葉を思い出します。「明日絞首刑になる。最期に“天皇陛下万歳"を言いたくないが言わないと残った家族が苦労するだろう。家族のために“天皇陛下万歳"を言ってやろうか“ と寂しそうに言った。
 1945年8月15日の「終戦記念日」。これを「敗戦記念日」と言うべきだとのお考えの方もありますが、私の心境は、僕の体感は“やっと終わった。終わってくれた"あり、まさに「終戦」です。
 何百万人の人々の犠牲の上に戦いは終わり、もう再び戦争の愚を繰り返すまいと、新しく日本国憲法が生まれました。戦争,戦争の声の中に育ち、戦場に歩み、戦って来た私は、再び戦争をしないという誓いのこの憲法を本当に有り難く思っています。しかし昨今、またもや昔に戻るような危険な匂い、方向に偏りつつある戦争の匂いを感じます。
 なんとしてもこのような黒い力に対抗して平和憲法を日本の、いや世界の宝として高く掲げたい。今は祈るような思いで「戦争はイヤ、憲法九条を守れ」と一言ずつ畳1枚ほどの大きさに書いたものを毎月9日、小田急線の沿線に掲げて皆さんとともに小田原の地で叫び続けています。
 ご清聴、ありがとうございました。 (拍手)


■分かち合いの時間

司会:この会場に「私は硫黄島の中央山下の壕の中に吉岡先生と寝起きをしたひとりです」と言う方がおられます! ご紹介します。(会場騒然)

遠藤:「私は喜多方から来た遠藤○○(80)と申します。小笠原の営林署の新参署員でした。吉岡先生が『文芸春秋7月号』に書いておられたように、壕の中で堀井参謀が捕虜から英語を習っていたのを見ています。先生方、よく夜に麻雀をやっていらしたのも見ています」。(会場大爆笑)「私は測量隊でしたから硫黄島の地形はよく分かります」。

吉岡:「奇遇ですねえ。あとでゆっくりお話ししましょう」。

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■会場からの質疑と吉岡さんの応答

質問:吉岡さんはどのようにして帰国されたのですか。その後体験は公開されたのでしょうか。

吉岡:終戦後、父島からの引揚は12月に始りましたが、私は司令部関係だったので最期になりました。乗った船が3日間も出ないんですよ。その内アメリカのMPがリストを持ってやって来て「吉岡中尉」と名指しされて降ろされました。その時港からその船は出て行ってしまいました。降ろされたのが8人いました。それが戦争犯罪人と証人でした。私は証人としてグアム島に行きました。そこから1945年7月に帰国しました。内地では硫黄島、父島の関係者たちはあちこちになって、私も仕事で鹿児島に行きましたので、連絡が途絶えていました。当時は戦争のことは思い出すことも話すこともはばかられていましたので、なかなかそのような機会はありませんでした。ただ自分史として書き綴ったものは膨大なものは手元にあります。

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質問:何故人肉を食べたのですか? 食料がなかったからなのですか?

吉岡:父島には食料はありましたから、飢えたからではありません。士気高揚のためです。それをやったのは栗林司令官の戦死後の司令官になった人です。また勇猛と言われた大隊長です。彼らは職業軍人です。中国大陸でやったことを繰り返したのです。兵隊に無理に喰わせたという話しもあるが、ある部隊では兵隊たちがこぞって喰ったという記録もあるんです。どうしてだかということはよく分かりません。それが敗戦の後に戦犯として裁かれたのですが、そうなるとみんな口をつぐんでしまうのでなかなか分かりませんでした。また米軍側もこれを公にするのをいやがった。何故かというと公表すれば喰われた人の父や母がどれだけ辛く悲しい思いをするか、という判断のようでした。

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質問:当時父島にいた住民たちはどのような状況におかれたのでしょうか。

吉岡:父島母島の住民は硫黄島の戦闘が始まる前まで3千何百人かいました。これは戦闘が始まる前の昭和19年8月に軍の命令で全部内地に移住しました。やはり硫黄島にも千人いました。この人たちも同じ日に内地に帰りましたから、戦闘中は民間人はおりませんでした。でも若い人たちや軍に有効な人たちは(先ほどの遠藤さんのように)残されたのではなかったでしょうか。

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質問:戦争させないために九条の会があるのだけれども、人によっては、さらに○○教会の牧師さんでさえ(うちの高橋力代表ではありませんよ)、北朝鮮から攻められた場合などを思うと自衛隊は必要だと考えている人たち、憲法9条に眉をひそめる人たちもいます。このような人たちには軍隊は無用だということをどのように答えていったらいいのでしょうか。

吉岡:規律のない若い人たちの様子をみると、自衛隊に短期入隊して鍛えられたら、などと短絡的に感じる人たちもいます。これには自衛隊は喜びましょうがね。でもねこれは自衛隊が軍隊だということを知らない人が考えることです。軍隊はね、結局相手を殺すためにあるんです。アメリカの海兵隊などは毎朝起きるとみんなで「殺せ!、殺せ!、殺せ!」と叫ばされるのです。そのように相手を殺すためにやるんですから、なにも規則正しさを鍛えるためにやるんではないのです。軍隊は殺す道具を造り上げるところなのです。「軍は戦闘を目的とすべし」と明確に書かれています。絶対命令なのです。だから「ビンタ」があります。「ビンタ」があるから軍隊は残酷だ、などと言います。アメリカには「ビンタ」はないなどという人がいますが、アメリカは「ビンタ」どころか「アッパーカット」ですよ。グアムにいて見たのだが営倉から出て来た奴を曹長がバーンとやるとストーンと飛んでいっちゃう。「おお、よくやるなあ」と見ていたもんです。
 あれは必要なんですよ、軍隊には。命令を効かせるために。例えばね、ここに10人の兵隊がいて、中にノーベル賞級の頭の奴が一人いる。さて斥候に出た。敵に見つかりそうになったから隊長が「伏せ!」と言った。ところがノーベル賞級の頭の奴が「はて、どこに敵がいるんだろう」などとのんびりしていたらどうなるか。たちまち10人がヤラレてしまう。本隊までもがやられちゃう。だから軍隊では動物的にならなければならない。入隊する前にペンを持って教壇に立っていた者もいる。ものを考えることに慣れているのもいる。でも戦場では一秒でも早く敵を殺さなければならない。そういうことを身体に覚えされるのは言葉では駄目です。本能的に反射的に動けるようにするのが笞です。それがビンタです。軍隊にビンタは付きものです。僕にもビンタを受けたあの時の悔しさはありますけどね、よく寝て考えたのは「これが軍隊なんだ」と思いました。

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